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CHAPTER 1

« Le monde fait peur et est terrifiant »

こんな世界に、どうやって耐えていけばいいのだろうか。

「正義」による裁きは、本当に人々を幸せにできるのだろうか。

もしそれが幸せにつながらないのだとしたら、この世界は悪だと言えるのか。

そもそも正義とは、常に善なのだろうか。

時には、それが自分や他者を傷つけてしまうこともある。

——そんな疑問が、次々と浮かんでくる。




CHAPTER 1

The Beginning

あの夜は、言葉にできないほど美しかった。

それは血のような赤い月が照らしていて、冷たい風が吹いていたーー

テネボス通り6番地に住む少年は、街の喧騒から遠く離れた存在だった。そこは、街からおよそ30分で到着する。

平静な住宅街だった。

灰色の空の下、煉瓦造りの家々が規則正しく並ぶ静かな住宅街。

午後になると淡い霧が立ちこめ、ガス灯の光が石畳をかすかに照らす。


その通りにある一軒の家は、昔から近所で奇妙な存在として知られていた。

 住人の姿を見た者はほとんどいない。出入りの気配もなく、昼間はただ静かにそこにあるだけだった。だが夜になると、事情は変わる。

 どこからともなく、グランドピアノの音が流れ出す。

 古びた旋律だった。調律の狂った音が混じり、ところどころで歪む。その音は通り全体に広がり、聞く者の背筋にわずかな寒気を走らせる。

 それでも、不思議と耳を離せない。

 心の奥にある何かを、そっと掻き立てるような響きだった。

 「ちょっと!さっきからその音、うるさいのよ!」

 ある夜、ひとりの女性が家の前で声を荒げていた。チャイムを何度も押し、扉を叩くが、返事はない。

 音だけが続いている。

 やがて、その場にもう一人、少年が現れた。

 立ち止まり、しばらく家を見上げている。

 「ねぇ、あなたもうるさいと思うでしょ?」

 女性が話しかける。

 少年は短く答えた。

 「……うん。」

 だが、その視線は女性ではなく、家の扉に向けられていた。

 ピアノの音は、なおも続いている。

 少年はゆっくりと扉の前に歩み寄る。

 女性が何か言っていたが、少年は振り返らない。

 手を上げ、扉をノックする。

 その瞬間、音が止んだ。

 あまりにも唐突に、完全に。

 通りには静寂が落ちた。

 少年はその場に立ち尽くす。

 数秒の沈黙のあと、再びノックする。

 今度は少しだけ強く。

 すると、内側から触れられた様子もなく、扉がゆっくりと開いた。

 女性が小さく息を呑む。

 「あなた……どうにかしてるわよ……」

 少年は答えない。

 一歩、家の中へ足を踏み入れる。

 その瞬間、ロビーに灯りがともった。

 長方形の空間だった。色あせた花柄の壁紙が周囲を囲んでいる。

 そして正面には、もう一つ扉があった。

 先ほどまで存在しなかったはずの扉。

 少年はためらわずに歩み寄る。

 ノブに手をかけ、押し開ける。

 外では女性が動けずにいる。

 家の中へ入ろうとはしない。

 ただ、その様子を見ているだけだった。

 扉の向こうは暗い。

 だが、何かがいる気配があった。

 そのとき、声がした。

 「ようやく来たのね、レオ」

 少年が立ち止まる。

 次いで、聞き慣れない言葉が落ちた。

 « Peut-être qu’elle pourrait être la lumière du monde… »

 通りの上では、一羽のフクロウが屋根にとまり、じっとその様子を見下ろしていた。

 その謎の女の人の第一印象は、とにかく――見上げるほど背が高い、ということだった。

 玄関の灯りの下で、その女は天井に触れそうなほどすらりと立っている。百九十センチはあるんじゃないか、とレオは思った。

 ただ背が高いだけではない。

 そのせいか、あるいは別の理由なのか――普通の人間からは感じない、奇妙な圧のようなものがあった。空気がわずかに張りつめている。

 レオは、ますますその女が気に入った。

 肌は、夜の中でもはっきりと分かるほど白い。血の気がない、というより、最初から血など通っていないみたいだった。

 髪はゆるやかに波打ち、灯りを受けて蜂蜜のような色をしている。

 黒い長いドレスは床すれすれまで垂れ、つばの広い帽子が、その表情の半分を影に沈めていた。

 年齢は――四十代くらいだろうか。

 だが、そう断言してしまうには、どこか違和感が残る。

「君をずっと、待っていたのさ。」

 低く、やわらかい声だった。

 けれど、その言葉には妙な確信があった。まるで、偶然ではなく――最初から決まっていた出来事をなぞっているような。

 レオは、何も言い返せなかった。

 小さなプレートのようなものが、ドレスに留められていた。

 そこには――

 RYRAN VF N FCL

 と刻まれている。

 意味は分からない。

 読もうとしても、なぜか頭の中でうまく音にできなかった。

 ただの飾りだろう――レオはそう決めつけた。

 そうしないと、なぜか落ち着かなかった。

「さあ、入りなさい。」

 女が、ゆっくりと身を引く。

 開かれた扉の向こうは暗く、奥が見えない。

 外の夜よりも、さらに深い影が広がっている。

 それでもレオは、ためらわなかった。

 この人は――きっと。

 自分がずっと、心のどこかで描いていたもの。

 名前も分からないまま求めていた、“奇跡”を呼び出せる大人だ。

 そんな確信に近いものが、胸の奥にあった。

 だからレオは、微笑んだまま、その家の中へ足を踏み入れた。

 ――それは、やはり美しい夜だった。

 けれど同時に、

 何かが静かに始まってしまった夜でもあった。


レオという少年は、これといって特別なものを信じる性格ではなかった。少なくとも、自分ではそう思っていた。

不思議だとか神秘だとか、そういうものは本の中にだけあるべきで、現実に入り込んでくるものではない――それが彼の考えだった。

だからこそ、その夜の出来事は、どうにも説明がつかなかった。

暗がりの中で、一羽のフクロウがじっと窓の外からレオを見ていた。

大きな瞳は、ただ光を反射しているだけのはずなのに、妙に意志のようなものを感じさせた。

レオは目をそらそうとしたが、なぜかできなかった。

まるで、見られているというより、覗き込まれているような感覚だった。

――怖がることはない。

そんな声が聞こえた気がした。もちろん、フクロウが喋るはずはない。

レオは一瞬、自分の頭がおかしくなったのではないかと思った。

――おまえの孤独も、恐れも、ここでは意味を持つ。

気のせいにしては、妙にはっきりしている。

レオは眉をひそめ、もう一度フクロウを見た。フクロウは何もしていない。ただ、そこにいるだけだ。

そのすぐ後ろに、女が立っていた。

年齢はよくわからない。若くも見えるし、ひどく年を取っているようにも見える。

服装も、どこの国のものとも言いがたい、妙にちぐはぐな印象だった。

彼女は世界中を旅してきたのだという。

チベット、インド、タイ――聞いたことのある地名がいくつか挙げられたが、どれも具体的な話にはつながらなかった。

どういう修行をしたのか、何を得たのか、そういう肝心な部分は、まるでわざと避けられているようだった。

「レオ、この子と友達になってあげて。」

女――というより、どこか親しげに振る舞うその“おばさん”は、そう言って笑った。

にやり、とでも表現したほうがしっくりくる笑い方だった。

レオはフクロウと、おばさんとを交互に見た。

どう考えても、まともな状況ではない。

だが同時に、なぜか目を離す気にもなれなかった。

――そのとき、レオはまだ知らなかった。

この出会いが、自分の「普通」を少しずつ壊していくことになるのだということを。


CHAPTER ONE

Vita non est aequa; est ludus sine regulis.

僕はレオ、十四歳の中学二年生。

 五歳のころから、星を見るのが好きだった。

 夜になると、窓を開けて、ただ空を眺めている。理由なんて特にない。ただ、そこにあるものを見ていたかった。

 気づけば、惑星や銀河の名前を調べるようになっていた。

 名前には、必ず由来がある。

 誰かが意味を与えたものだ。

 それを辿っていくうちに、いつの間にか自分でも物語を考えるようになっていた。

 たとえば――

 人は生きていても、会うべき人と簡単には会えない。

 参星と商星みたいに。

 空の上で、同時に現れることはない星。

 見えているのに、重ならない。

 そんな関係も、きっとある。

 夜空を見上げながら、そんなことを考える。

 誰に話すわけでもない。

 ただ、自分の中で完結している。

 「宇宙が僕を見ている」

 ふと、そう思うことがある。

 見守っている、と言い換えてもいいかもしれない。

 もちろん、証拠なんてない。

 でも、そう考えると少しだけ楽になる。

 たぶん――

 誰かに見ていてほしかったんだと思う。

 だから、僕は宇宙を選んだ。

 人間じゃなくて、もっと大きくて、何も言わないものを。

 浩瀚宇宙,為我而守。

 やっぱり星空はとてつもなく神秘的だ。

 こんなに綺麗な空の下でも、人は平気で人を傷つける。

 それがどうしても受け入れられなかった。

 できれば考えたくない。

 でも、頭から離れない。

僕はこの星空から刺激をもらって、世界中の人を魅惑させるアーティストになりたい。

 しかし、大人たちは言う。

 「やりたいことは、大人になってからやれ」と。

 正しいのかもしれない。

 でも、待っていられなかった。

 時間は、思っているよりずっと少ない。

 だから――

 できるだけ早く、やりたいことをやりたかった。

 全部じゃなくていい。

 少しでもいいから、自分で選んだ時間を生きたかった。

思い出した。

小さい頃に読んだ本のことを。

そこに描かれていた世界は、あまりにも現実とかけ離れていた。

正義は必ず勝ち、ヒーローは人々を救い、誰もがどこかで優しさを持っていた。

——そんなもの、どこにもなかった。

人民を救うヒーローは、憧れだった。

けれど現実は、その幻想をあざ笑うかのように、静かに、そして確実に人を裏切る。

この世界は、あまりにも冷たい。

優しさに見えるものさえ、時に誰かを傷つける。

それを知ったとき、泣きそうになった。

結局、人は——自分さえよければいい。

あの日、僕は事故に遭った。

それはどこかの国の、見知らぬ街。自転車に乗っていたときだった。

道は塞がれていた。

向こうは、なかなか道を開けようとしない。

僕は困っていた。道はみんなのものだ。

僕は車道を使うことにした。

そのとき、僕は自転車から転落してしまった。

通行人たちは、ただ見ているだけだった。

誰一人として、手を差し伸べようとはしなかった。

その光景は、不思議なほど静かで——

そして、残酷だった。

メディアは平然とデマを流し、

人は他人の良心を搾り取って、自分の利益に変える。

一番嫌だったのは、それを当然のように受け入れる空気だった。

悪事を見ても、誰も何も言わない。

見て見ぬふりをすることが、「普通」になっている。

歴史を振り返れば、それは今に始まったことじゃない。

経済発展の名のもとに、農民は使い潰され、

戦争が起き、飢餓が広がり、人は奴隷として扱われた。

女の人は自由を奪われ、旧約聖書に登場する海の怪物であるレヴィアタンのように扱われた。

そして同じ性別の人を愛するだけで、命を奪われるときさえあった。

今でもそのような差別は起きている。

時代が変わっても、本質は何も変わらない。

僕は気づいてしまった。

人間という生き物は、思っていたよりもずっと——愚かで、脆く、そして醜い。

集団の中では、少しでも「違う」だけで排除される。

まるで罪人を見るかのような目で。

どれほどの血を流せば、この戦いは静まるのだろう。

どれほどの涙をこの瞳から引き出し、

どれほどの皮膚を剥ぎ取れば、

この痛みの締めつけをほどき、

この身を抱く世界を愛せるのだろう。

感情は儚いものだと言うけれど――

たとえ幾世紀を費やしても、

それでは足りない。

この暗黒で自分を守るにはどうすればいい?

答えは一つしかなかった。

——同じにならないことだ。

画一的な人間にはならない。

誰かに形を決められるくらいなら、孤独を選ぶ。

僕は、自分を失うわけにはいかない。

たとえこの世界が、どれほど歪んでいようと。

「社会は怖い……結局、現実は僕が嬉しくても悲しくてもどっちでもいいのさ」

小さく呟く。

でも、その先にある言葉は、はっきりしていた。

「——それでも、強くなりたい。社会の圧力がどんなに残酷でも耐えていきたい。そして、それから抜け出す道を考える」

その宣言をしたきっかけで、たまに将来のことを考えるようになってきた。


この国の大体のサラリーマンは低賃金で働き、夜遅くまで残業する。


上司に大人しく聞いて、言う通りにすればいい。


「自分より立場が下の人をこき使って、楽しんでいるだろうね。」

すでに必死に頑張っているのに、周りからはもっと頑張れという。

「(schadenfreude)シャーデンフロイデ」というドイツ語の言葉が浮かんでくる。

人の不幸は蜜の味、という意味だ。

きっと今も誰かがこの現象で笑っているでしょうね。

家を出たい、という気持ちだけははっきりしていた。

 理由はいくつもあったはずだけど、うまく言葉にはならない。ただ、この生活から離れたい。それだけで十分だった。

 あの街で過ごした時間も、思い出も、今となってはどうでもよかった。

 使い捨ての紙カップみたいなものだ。

 飲み終われば、捨てればいい。

 僕が欲しかったのは、もっと分かりやすいものだった。

 色鮮やかな記憶とか、誰かと笑って過ごす時間とか、カフェで適当に話しながら人と繋がっていくような、そういうもの。

 ――少なくとも、あの家にはなかった。親がいた頃にも。

 そう、僕の親はここ数ヶ月間帰ってきていない。

 理由は知らないし、聞こうとも思わなかった。

 それでも生活は続いている。

 電気も水も止まらない。

 困ることは、特にない。

 どうやら親戚が何とかしているらしい。

 詳しくは知らない。

 知る必要もないと思っている。

 ほとんど、一人で暮らしているようなものだ。

 ちなみに僕の家は、どこにでもある中流家庭の住宅だ。

 石造りで、左右対称に整えられていて、無駄がない。派手じゃないのに、見ればすぐに「ちゃんとした家だ」と分かる。

 そういう種類の建物だった。

 壁は淡い色で、長い年月を経て角が取れている。窓はきれいに並んでいて、ひとつもずれていない。屋根の小さな窓も、全体のバランスを崩さないように配置されている。

 庭も同じだった。

 低木はきれいに刈り込まれていて、芝生には乱れがない。花も咲いているけど、目立ちすぎないように調整されている。

  食卓には銀の食器が並んで、壁時計の音が会話の隙間を埋める。

 そういう生活が、ずっと続いてきた。

 これからも続く。

 ――僕がいなくても。

 兄弟は、遠い国にいる。

 理由は知っているし、説明もできる。

 でも、それを話したところで、何かが変わるわけじゃない。

 ただ、本来いるはずだった場所から切り離された。

 その事実だけが残っている。

 窓の外を見ても、知らない街があった。

 人はいるのに、自分だけが少しずれている。

 どこにも属していないみたいな感覚が、ずっと消えなかった。

それでも、世界は便利になった。インターネットさえあれば、

どれだけ離れていても、声を届けることができる。何気ない会話を交わすだけで、距離は少し縮まるはずだった。

けれど、そのはずの距離は一向に縮まらない。

スマートフォンの画面には、変わらない名前が並んでいる。

妹も、弟も、そこにいるはずなのに、向こうから連絡が来ることはほとんどない。

沈黙が続くたびに、こちらから発信ボタンを押すのは、決まって僕だった。

呼び出し音が鳴るあいだ、ほんのわずかな期待が胸をよぎる。

もしかしたら、今日は向こうから何か話してくれるかもしれない、と。

けれど、通話がつながれば、その期待は静かに消えていく。

気づけば、わざわざ遠く離れた場所から手を伸ばし続けているのは、僕だけなのかもしれない。

気づいたら、僕はスマートフォンからの透明な鎖にとられている。

僕は電車やバスの中ではみんな、あの小さい箱に囚われている気がして哀れに感じた。

「自分もその一連の仲間に入りたくない。」


 ある日のことだった。僕には特別な理由があったわけではない。川の近くまで歩いていた。ただ、なんとなく外に出ただけだった。

 水は静かに流れている。画面を開くと、いつもの名前が並んでいた。

 少しだけ考えてから、手を離した。

 落ちる音は、小さかった。

 それだけだった。

 それから、生活は単純になった。

 学校に行って、帰る。

 それだけだ。

 同じ道を歩いて、同じ時間に家を出て、同じように戻る。変わるものはほとんどない。

 繰り返しているうちに、それが当たり前になった。

 ……いや、当たり前にしているだけかもしれない。

 このまま続けば、どうなるのかは分かっている。

 たぶん、もっと面倒なことになる。

 でも、先のことを考える余裕はなかった。

 今の状態でさえ、ぎりぎりだからだ。

 学校に行かないといけない。理由は特にない。

 ただ、行くものだから行く。

 そういう決まりになっているだけだ。

 そんな生活の中で、ひとつだけ変わらない習慣がある。

 毎日、深夜の三時に起きること。

 目覚ましはいらない。

 気づくと、目が覚めている。もちろん、外はまだ暗い。

 世界はまだ眠っている時間だ。音も少ないし、人の気配もない。

 その時間だけは、自分だけが起きているみたいで、少しだけ楽だった。

 その日も、三時に目を覚ました。

 ベッドから起き上がる。

 家の中は静かだった。

 いつものことだ。

 両親はいない。

 僕の家は少し変わっているけど、外から見ればただの立派な屋敷に見えると思う。

 街のはずれに建っている石造りの家で、左右対称に整っていて、無駄な装飾はない。それでも、なんとなく古い家だと分かる。

 庭は妙にいつも手入れされている。低木もきっちり揃っているし、花も季節ごとに変わっている。

 誰がやっているのかは知らない。僕がやっているわけではない。

 両親はいない。ここ数ヶ月、帰ってきていない。

 それでも別に困ることはなかった。電気も水も止まらないし、食べるものもある。

 たぶん親戚が何かしている。

 詳しくは知らないけど、別にいいと思っている。

 この家の中が、やけに広い。

 廊下は長いし、部屋はどれも天井が高い。最初は落ち着かなかったけど、今は慣れている。

 リビングもそうだ。

 扉は重くて、開けると低い音がする。

 中に入ると、天井が高い空間が広がっている。

 木の梁には細かい彫刻があるけど、ちゃんと見たことはない。見る気もあまり起きない。

 シャンデリアがぶら下がっている。

 電気のはずなのに、ろうそくみたいに見えるときがある。

 気のせいだと思う。

 壁には肖像画が並んでいる。

 誰なのかは知らない。どれも似たような顔で、あまり見ないようにしている。

 見ていると、落ち着かない。

 暖炉は使っていない。

 でも、近づくと少しだけ灰の匂いがする。

 床には厚い絨毯が敷かれている。

 歩いても音がしない。

 そのせいで、家の中に誰かがいるのかどうか分からなくなることがある。

 ……まあ、この家に僕以外いるはずはないけど。

 ある日の朝だった。

 僕はいつもの癖で、三時に目が覚めた。

 目覚ましは使っていない。

 それでも、だいたい同じ時間に起きる。

 理由はない。

 その時間は静かだし夜明けの空が好きだから、それでいいと思っている。

  僕の親がいたころには、朝はカーテンが開いて、紅茶が運ばれて、新聞が置かれる。昼は静かに過ごして、夕方には灯りがつく。そう思うと、虚しく感じるけど親じゃない誰かと一緒に生活したかった。

僕は親なんて嫌いだ。お父さんもかなり無神経だったし、お母さんは性格が真逆で感情的になりやすい。

 僕は、そんなどうでもいいことを思い出したくない。とりあえず、ベッドから降りてリビングルームに入ろう。

今日も、床が少し冷たい。

リビングルームの扉を開けると重たい音がした。

 中は、いつも通り――のはずだった。

 やっぱり誰もいない家は、広く感じる。

 ふと気がつくとテーブルの上に、妙にコップが置いてあった。

 こんなの見覚えがない。この家の食器はだいたい覚えている。

 でも、これは違う。

 しばらく考えたけど、やっぱり思い出せない。

 ……まあいいか。

 この家では、そういうこともある。

キッチンに立ち、簡単な朝食を用意する。

パンを焼き、皿に並べる。動作は無駄がなく、どこか機械的ですらあった。


コーヒーを淹れる。

湯気が立ちのぼり、静かな空間の中でゆっくりと消えていく。


カップを手に取り、ひと口。


ほろ苦い味が舌に広がる。


――悪くない。


その苦味は、この世界に満ちている何かとよく似ていた。

救いようのない現実、あるいは、説明のつかない不条理。


それを、なぜか私は嫌ってはいなかった。


むしろ――


どこかで、その「絶望」を楽しんでいる自分がいることに、薄々気づいていた。


気がついたら時計で五時になっていた。

まだ夜の名残をわずかに残した空が、ゆっくりと白み始めるころだった。ありふれた朝のように見えて、その実、どこかが確かにずれている――そんな気配が、静かに漂っていた。


窓の外では、鳥が鳴いている。

規則正しく、まるで決められた時間に役目を果たしているかのように。



この家の近くには、二十代後半ほどの夫婦が住んでいる。

隣人の声が聞こえてくるたびに、それがただの会話ではないとすぐに分かる。口論だ。しかも、遠慮というものを知らない。そのやり取りはこの一帯にまで響き渡っていた。


しばらくすると、玄関の開く音がする。

夫のほうが仕事へ向かうのだろう。靴を履き、ドアを開ける音は妙に几帳面で、さっきまで怒鳴り合っていた人物と同一とは思えない。


――あれほど言い争っていたというのに。


別れ際、二人は必ずキスをする。

毎回だ。例外はない。


それが愛情の名残なのか、それともただの習慣なのかは分からない。だが、その光景はどこか作り物めいていて、見ている側に妙な違和感を残した。


私はその様子を横目で眺め、小さく息を吐いた。

呆れているのか、それとも興味を失っているのか、自分でもよく分からない。


――こんなことを考えていても、意味はない。


意識を切り替える。

今やるべきことに集中しなければならない。


僕はスマートフォンに縛られるのが嫌で、いつも代わりに本を開く。そして朝食を終えた後、


窓を叩く音がした。


乾いた、しかしはっきりとした音だった。

こんな時間に訪ねてくる者などいないはずだ、と考えながらも、僕は反射的に立ち上がっていた。


窓に近づく。

カーテンを少しだけずらし、外を覗く。


――誰もいない。


通りは静まり返っていて、人の気配すらない。

ただ、朝の光がゆっくりと広がり始めているだけだった。


くだらない。

誰かの悪ふざけだろう、と小さく息を吐く。


窓から離れ、背を向ける。


その瞬間だった。


――気配。


背後に、確かに“何か”が立っている。


振り返る。


そこにいたのは、一人の少女だった。


いつからそこにいたのか分からない。

音もなく、気配もなく、ただ“現れた”としか言いようがない。


年齢は十五か十六くらい。

赤い巻き髪が、やけに目を引いた。


だが、それ以上に異様なのは――その輪郭だった。


体が、薄い。


完全に透けているわけではない。

しかし、背景と溶け合うように、境界が曖昧になっている。


まるで、存在がこの場所に定着していないみたいに。


「……誰?」


思わず口に出ていた。


少女は答えない。

ただ、まっすぐこちらを見ている。


その視線に、わずかな温度も感じられない。


「君が、レオよね?」


先に名前を呼ばれたことで、僕は背筋がわずかに強張る。


「……あなたは誰だ。」


警戒は隠さなかった。


少女は一瞬だけ目を細める。

感情というより、何かを確認するような動きだった。


「生きてる人間じゃないよね?」


自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からない。

だが、目の前の存在を“人間”と認識するには、あまりにも違和感が多すぎた。


少女はわずかに間を置いたあと、口を開いた。


「私は……」


言葉が途切れる。

まるで、その答え自体に意味がないかのように。


そして、代わりにこう言った。


「あなたを、あの施設からの出口に導きたいの。」


感情はほとんど乗っていない。

それなのに、その言葉だけは妙に現実味を帯びていた。


「あの施設……?」


思わず繰り返す。


だが少女は、そこには触れない。


「それよりも、あなたに来てほしい場所があるの。」


一歩、近づく。


足音は、やはり聞こえない。


「どういうことだ。」


問いかけると、少女はわずかに首を傾けた。


そして、ほんの少しだけ――笑った気がした。


「それは、すぐに分かるさ。」


その答えは軽い。

だが、なぜか否定できない確信のようなものを含んでいた。



あの精霊は、一体何者なんだ。


「ますます、気になった。」


とりあえず学校に行かなければ。

石畳に湿った光がにじむ街の通りへ、まるで夜そのものが形を得たような二階建てバスがゆっくりと現れた。

車体は艶のある漆黒で塗り固められ、曇天の白い空や周囲の建物の輪郭を鈍く映し返している。その黒はただの塗料の色ではなく、長い年月のあいだ煤煙と霧と秘密を吸い込み続けた、都市の深部の色に見えた。

正面から見ると、その姿にはどこか古い棺桶や霊柩車めいた威圧感がある。丸く盛り上がった屋根は古風な兜のようで、無骨なフロントグリルは閉ざされた門のように沈黙していた。左右の円いヘッドライトだけが青白く灯り、まるで眠らぬ獣の眼のように街角を見据えている。ナンバープレートの金属板には古めかしい文字列が刻まれ、現代の車両とは異なる時代の匂いを漂わせていた。

車体の側面には大きく白い文字で、THE GHOST BUS TOURS と記されている。その文字は広告というより墓碑銘のようで、無遠慮に目立ちながらも妙に不吉だった。さらにその下には NECROBUS の文字。ネクロポリス――死者の都。その響きを知る者なら、思わず喉が乾くだろう。観光用の趣向に過ぎないと笑い飛ばすには、あまりにも演出が徹底していた。

二階の窓は細長く並び、外から覗けば内部は薄暗い。カーテンとも影ともつかぬ黒ずみが揺れ、乗客らしき人影がちらりと見える。誰もが静かで、騒ぐ者はいない。窓辺に座る一人の婦人は帽子のつばを深く下ろし、向かいの男は身じろぎひとつしない。彼らが本当に観光客なのか、それとももっと古い時代から乗り続けている者たちなのか、一瞬わからなくなる。

車輪は低く唸りながら石畳を踏み、重たい車体を軋ませて進んでいく。その音は現代のエンジン音というより、遠くの地下墓所から響いてくる鉄扉の開閉音に近い。ブレーキがかかるたびに、長い車体のどこかで鈍いきしみが生まれ、骨が鳴るような気味の悪さを残した。

周囲の街並みは白い石造りの壮麗な建物ばかりで、昼なお明るいはずの通りだった。だがその中心をこの黒いバスが通るだけで、景色全体が少し温度を失う。観光客たちの笑い声は遠のき、鳩の羽ばたきさえ慎重になる。誰かがスマートフォンを向けて写真を撮る。だが撮れた画像には、窓の奥に座るはずのない人物が一人増えているかもしれない。

停留所に近づくと、バスは静かに減速した。扉が開く。中から流れ出てきたのは暖気ではなく、妙に冷えた空気だった。石と古木と、濡れた地下室のような匂いがした。案内人らしき男が姿を現す。黒いコートに身を包み、口元だけで笑っている。

「ようこそ。」

それだけ言うと、男はそれ以上何も説明しなかった。

少し変わった運転手だな、とレオは思ったが、

特に気にするほどでもない。

僕はそのままバスに乗り込んだ。

席は空いていた。

どこに座ってもよさそうだったが、

なぜか窓際の席が気になって、そこに腰を下ろした。

そのときだった。

外で、急に雨が降り始めた。

さっきまで降っていた気配はなかったはずなのに、

気づけば窓に細かい水滴が広がっている。

たいしたことじゃない。

天気なんて変わりやすいものだ。

バスが動き出す。

静かに、何事もなかったかのように、街の中へ入っていく。

湿気のせいか、車内の窓ガラスが少しずつ曇り始めた。

外の景色はぼやけ、輪郭があいまいになる。

レオはぼんやりと外を眺めていたが、

ふと、視線をずらした。

そのときだった。

曇ったガラスの上に、何かが浮かんでいるのに気づいた。

最初は、水滴の模様だと思った。

ただの偶然の形だと。

だが、よく見ると、それは線になっている。

文字のようにも見えた。

誰かが内側から書いたわけではない。

それでも、そこにあった。

僕は瞬きをした。

もう一度、見直す。

それでも、消えなかった。

そこにあるはずのないものが、曇ったガラスの上に浮かんでいた。

——「レオ、目を覚まして」——

それはまるで、誰かの指先が曇りに文字をなぞったような、曖昧な筆跡。

けれど、明らかに麗央の名前がそこにあった。

「……誰だ。」

声には出さなかった。

バスの振動に紛れるように、心の奥だけでその問いが響く。

次の瞬間、ガラスは再び曇りに飲み込まれ、何もなかったかのように元に戻った。

他の乗客は誰一人気づいていない。

その痕跡は、麗央にしか見えていなかったかのようだった。

「もしかしたら、これは夢…なのか?」

夢かどうか確かめるために頬を軽く叩いた。

そう呟いた僕の目に、一瞬だけ、

遠くの交差点で赤毛が風に揺れるのが見えた気がした。

けれど、それもすぐに視界から消えた。



「ったく、何が起こってるのさ。」

運転手が文句をつべこべいっていて、ご機嫌斜めのようだ。

渋滞が悪化していた。

車のクラクションが止まない。

どうやら、街のどこかで何かが起こったらしい。

「何事?」

人のざわめきが大きくなる。

街の中心で……人が暴れてた。

警察も来て、車道は封鎖された。

騒ぎに巻き込まれて、バスはまったく動かなかったんだ。


「きゃー!」

突然、女の人が悲鳴を上げた。

どうやら、銃を持っている少年が街中にいたようだ。

周りにいた人々は恐怖で震えていた。

「俺はずっと独りぼっちだった…」

「こんな世界めちゃくちゃにしてやる!」

警察の組織の一員らしき人物が、こう声をかけていた。

「一旦、落ち着こう。」

その男はスーツを着ていて、40代らしき人物だった。

「あー、もうみんな黙れ黙れ黙れ!!」

僕はその光景をバスの窓から眺めて、口元を微かに歪めた。

「こんなことが…現実に起きるなんてね。」

独り言を発した。 

「今日も素晴らしい日が始まりそうだ。」

そう皮肉げにいって、学校が見えてきた。


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