敗北、そして絶望の始まり
精霊王イリスの術により、勇者たちはグランナレフ城の郊外へと転移した。
辺りに満ちるのは、鉛を流し込んだような沈黙。
裏切ったグレイブに対してなぜという疑問が渦巻き、次に何もできなかった自らの無力さに沈んだ。
イリスもまた、かけるべき言葉を見出せず、静かに唇を閉ざしていた。
その時、ふと、イリスが顔を上げ、町へと視線を向ける。
つい一時間前までは歓声と鐘の音が溢れていたグランナレフ城。だが今、そこには音の欠片すらなく、不気味な静寂が、あたりを支配していた。
そして次の瞬間――世界が軋んだ。
そう思えるほどの異質な違和感。それはただの感覚に留まらず、大地の揺れや空気の振動し、森の木々のざわめきとなって現れる。
直後、城を中心に黒い波動が周囲一帯に広がった。
その波動を追うように暗闇が押し寄せていく。辺りの小動物が悲鳴を上げながら逃げ惑っていくが、その闇は容赦なく彼らを飲み込んだ。冷たい闇が生物の体温を奪い、ゆっくりと死へといざなっていく。
闇の浸食により太陽は飲み込まれ、空は沈み、地表は漆黒の夜に覆われる。
すると、今度はその闇から黒い影――アンデッドたちが無数に湧き上がる。生者に憎悪をまき散らして、無秩序に襲いかかる。
――それは地獄の再現だった。
町の方角から断末魔の叫びが吹き荒れ、胸を抑えたくなるような絶望の声で満たされる。
秩序が崩壊し、血に染まっていく大地。地獄と化した一帯に亡者だけが狂った喜びの声を上げる。
かつて白く壮麗に輝いていたグランナレフ城。今や栄華の象徴の面影すら残っていない。
生者を貪りつくした無数の死者に蹂躙され、生の輝きを失った姿はまさしく『死都』だった。
勇者たちは言葉を失い、崩壊する世界を前に立ち尽くす。
気づけば、アンデッドの群れが音もなく彼らを包囲していた。
ヒースが忌々しげに舌打ちしながら剣を引き抜く。
「落ち着く暇もない。いけるか、お前た――」
「――《バアル》!」
その声はまるで悲鳴のようだった。
ヒースの言葉を遮るようにアレスが雷撃を放ち、アンデッドたちを焼き払う。
焦げた臭いが辺りに広がる中、アレスは一瞥もくれず、ふらつく足取りでグランナレフの町へ向かって歩き出す。
「町の人々が……」
うわごとのように呟くアレスの声が風に流れた。
アリシアが思わず「……アレスさん」と呼びかけるも、それ以上の言葉は喉に詰まる。
「今なら、まだ……まだ、間に合うかもしれない」
それは自分に言い聞かせるような言葉だった。本当はその可能性が限りなくゼロであることを知っているはずなのに。
「アレス!」
ヒースが叫びアレスが振り返る。虚ろなアレスの瞳が自責の念で拳を強く握りしめるヒースを映す。
そのとき、タリクが皆の思いを代弁するように口を開いた。
「……周囲一帯命の気配は感じません。あなたも気づいているでしょうが、おそらく全員……」
言葉の重みが、空気を押し潰すようだった。沈痛な面持ちで、タリクは静かに祈りを捧げた。
アレスが唇を強く噛む。
気づいていた。気づいていてなお、一縷の希望に縋りたいと思った。それが幻想だったとしても。
「グレイブは……どうして……」
その声は、問いになりきれずに漏れた。怒りとも悲しみともつかぬ感情が胸の内を満たす。
タリクが静かに首を振る。
「誰にもわかりません……。誰にも……」
虚ろな瞳、軽薄な言葉、冷徹な行動。
――あの男が、かつて何度もアレスたちを助けた人間とは思えなかった。
だが、あの裏切った後に見せた姿こそが正体だったのだと。
アレスの内に、認めざるをえない声が囁く。
しかし、一方でだからこそわからなかった。
あの男のふるまいすべてが演技で、偽りで――それでも、あの意志だけは、確かに本物だった。アレスたちには決して見せない奥底に隠した決意は確かに実在するのだと、そう強く感じた。
わからない。
なぜ、あれほどまでの非道を選んだのか。
どこに、その意志の核があったのか。
答えの出ない疑問に誰もが言葉を継げず、沈黙が一際濃くなる。
「皆さん」
その静けさを破ったのは、精霊王イリスの声だった。
「ここも安全とは言えません。皆さんの消耗も激しい今、休息が必要です。立て直すためにも一度ここは精霊界に戻りましょう」
その提案に迷いつつアレスは頷いた。その同意を受け、イリスは術を行使する。
彼女の指先からこぼれ落ちた光が、優しく、アレスたちの身体を包み込む。
泡のように弾ける光――
その輝きと共に、アレスたちは滅び迎えた闇の地から姿を消した。
グランナレフ城が黒の波に呑まれた後、アンデッドの群れは次なる獲物へと進路を変えた。
周辺諸国の民は、滅びゆく城をただ呆然と眺めていた。
やがて、闇の奥から這い出たもの――死者の行進が、恐慌の声とともに人々の下へ押し寄せる。
「魔王は……滅ぼされたはずだ!」
誰かが叫ぶ。誰もが思っていた。つい数時間前までは、それを信じていた。
兵士たちは震える手で剣を取り、死に抗う。
町を、村を、人を守るために。
各国の指導者たちは混乱の渦中で声を振り絞った。
――勇者たちが必ず元凶を討つ。それまでの辛抱だ。
だがその胸中には、誰もがひそかに疑念を抱いていた。
「勇者は……本当に生きているのか?」
もし死んでいたなら――その可能性に踏み込んだ瞬間、世界は崩壊する。
だから誰も、その言葉を口にしなかった。
ただ、恐れを押し殺し、感情で否定した。
それが最後の希望だった。




