勇者アレス
何もかもが遠のいていくような喪失感の中、暖かな光が身体を包み込み、少しずつ体温が戻っていく。
やがて意識が浮上し、アレスは気づいた。
自分の身体が――タリクの神術で癒されていたことに。
無意識に立ち上がる。
立たなければならない。心の奥底にある何かが、強く突き動かした。
霞んだ視界が徐々に晴れていく。
血だらけで倒れ伏す仲間たち。そして、その中心で荒野を背に、ただ一人立ち尽くし、仲間たちを見下ろすグレイブ。
「……!」
――そうだ。俺は、俺たちは――。
いつから握りしめていたのか。神剣バアルが、熱を帯びて脈打っている。
「……グレイブ」
知らず漏れた呟き。振り返ったグレイブは驚きに目を見開き、すぐに口元を緩めた。
「まさか、とは……言えないな」
ゆっくりと息を吐きながら続ける。
「あり得ない――そう思いながらもどこかで俺は……こうなる予感があったような気がする」
再びふふ、と笑う。
「だが、ちょうどいいのかもしれない。――気を失ったお前を殺したところで、つまらないからな」
グレイブが空を仰いで笑みを漏らす。
「長かった……。しかしこれで――俺の夢が叶えられる」
「……」
俯くアレス。剣を握りしめ、歯を食いしばる。
「……これが――」
アレスの胸の奥から激情があふれ出て、言葉になる。
「これが、本当に……君の夢なのか……⁉」
これ以上なく剣を激しく握りしめ、怒りのままにアレスはグレイブに追及する。
「何もかも破壊し、すべてを失ったこの景色が、本当に君の追い求めたものなのか⁉」
しかし、その問いにグレイブは声もなく肩をゆすって笑い、静かに答えた。
「もちろんだ。タリクにも言われたが、この光景こそが俺の求めたもの。――いや、正確には違うな。“異世界転生”を破壊するために必要な過程だ――」
そう言ったグレイブはふいに笑みを収め、己の手を見つめた。
「――そうだ。まだ終わってはいないんだ――まだ」
「……っ!」
自分に言い聞かせるように呟く。
その口調はあくまでも穏やか。しかし、放たれる圧が一気に増し、アレスの肌を刺す。
グレイブは己の右手を握りしめ、アレスをまっすぐに見据えた。
「勇者アレス」
黒剣の切っ先が、ゆっくりとアレスへ向けられる。
「お前で最後だ。お前を殺せば、勇者の戦いは終わり、俺の勝利で幕を下ろす。そうなればもう、誰にも俺を止められない」
ぼろぼろの身体でなお、圧倒的な力を感じさせる死の気配。
剣先から立ち上る殺意は鋭く、揺るぎない。
だが――
「……」
アレスは怯まなかった。
悲哀に顔を歪め、拳を強く握りしめる。
脳裏に浮かぶのは、これまでのグレイブの表情。
裏切りの直後、初めて見せたグレイブの空虚な笑み。
再会した時、世界の摂理に向けて放たれた底知れぬ怒りと憎悪。
「君は……!」
声が震える。
戦いながらずっと封じ込めていた疑問。それがついに決壊しそうになる。
「なんで……!これだけのことをして……!」
アレスたちを冷静にいなしながら観察するような目。
グレイブ自身が窮地に陥るたびに見せる、高揚とした顔。
時間とともに晴れやかに笑い、アレスたちの奮闘に目を細め、真向からアレスたちと戦い、そして今――
「そんなまっすぐな目をしているんだっ……!」
相対するグレイブの濁りのない静かな瞳にアレスは激情を迸らせる。
グレイブはアレスに間違いなく殺すつもりで対面している。
その殺意は間違いなく本物だ。
だが、その殺意には悪意も憎悪もない。ただ、敬意と慈愛、己への誇りで満たされた者にしかできない目をしていた。
「……」
グレイブは答えない。そして、アレスも答えを求めてはいなかった。
知っているのだ。
彼が決して己の胸の内を明かさないことを。しかし、その表情には嘘も偽りもないことを。
「君はいつも……俺たちの行く先にいた。行く先々で俺たちを……助けてくれた。多分、人知れず人々を救いながら。いつも誰かのために。この数年間ずっと犠牲が少しでも出ないように……抗ってきたんだ」
かつての冒険の日々を思い起こしながら、アレスは言う。
「君は物語にいるような英雄ではなかったけど、でも俺にとっては英雄のようで……多分救われた誰かにとっても……そうだったはずだ」
救われて笑顔になった人々。グレイブとともに助かったことを喜び合った日を、昨日のようにアレスは感じて、目を細める。
「今思えば、それは君にとっての何かの罪滅ぼしだったのかもしれないし、純粋な厚意ではなかったのかもしれない……。使えるはずの力を抑えたために救えなかった人々もいたんだと思う。だけど――」
悲しさで顔を歪め、アレスは震える声で言った。
「俺はそんな君のことを……尊敬していたんだ……!」
グレイブは目を丸くし、ふっと笑った。
「尊敬、か……。こんな俺を、な……」
「だけど、今の君は……許せない。絶対に……」
人々を殺め、国を滅ぼし、荒野へと変えたグレイブ。どれほどの悲哀があったとしても、その行為をアレスは許せない。許してはならない。
「君を倒す!倒して終わらせる!君を止めるために……!」
アレスは神剣バアルをゆっくりと構える。剣身に纏う雷が激しく爆ぜ、黄金の光が荒野を照らす。
静かに笑ったグレイブもまた、剣を構えなおす。漆黒の剣に闇を纏わせ、殺意を研ぎ澄まして相対する。
そして、最後の戦いが始まった。




