それが彼の魔王となった理由、それが彼の勇者として戦う理由
「グレイブ」
「来たか」
地下にこれほどの広さがあるのか――そう思わせるほどの巨大な空間だった。
しかし、地下特有の湿り気やかびた匂いは一切ない。
漂うのは、まるで異界そのもののような異質な空気。
神秘的でありながら人工的で、冷たく無機質な気配が満ちている。それでいて、膨大な力の海に沈められているような圧が、肌の上を静かに滑っていった。
高所に設置された魔道具の球体に触れていたグレイブが、ゆっくりとアレスたちへ振り返る。
その表情は、わだかまりなど何ひとつないかのように気さくで、穏やかだった。
「初めて見るだろう。ここが、“異世界転生”の儀式場だ」
儀式場と呼ばれた空間は、アレスたちがこれまで見てきたどんな場所とも違っていた。
地面には見たこともない文字が無数に刻まれ、壁には魔力の導線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
大小さまざまな魔道具が連結し、不可思議な光を放ちながら新たな力を生み出していた。
活性化した魔法陣は青白い光を帯び、宙に浮かぶ。
空間の中央には巨大な魔法陣が刻まれ、見上げるほど高い天井にも同じ紋様が輝いていた。
階段を下りながら、グレイブはまるで学舎で講義をする教師のように語り始める。
「王国は後生大事にこの仕組みを秘匿し、そして、都合よく利用してきた。四百年続いた“異世界転生”の要ともなれば、ここは今の“異世界転生”の歴史そのものであって、この時代における世界の中心とも言うべき場所だろう」
グレイブは軽く手を広げ、空間全体を示した。
「見ろ、この魔道具と魔法陣の規模と数を、地脈に流れる力の大きさを。俺の言葉もあながち誇張とは言えないだろう」
そして、宙に輝く魔法陣へ、静かに目を細めて淡い嫌悪を滲ませる。
「仰々しいものだ。そして……憎らしい」
だが、その感情も一瞬で霧散したかのように、彼は軽く肩をすくめた。
「まあ、そんなことはお前たちからすればどうでもいい話だな」
そう言うと、三階ほどの高さから軽やかに飛び降りる。
軽い音とともに着地して、アレスたちの前に立つ。一瞬で間合いに入れるほどの距離。互いの表情がはっきりと見えるほど近い。
見れば見るほど思う。
本当にグレイブは裏切ったのかと。それほどまでに、彼は屈託のない、親しげな雰囲気をまとっていた。
だが、グレイブから放たれる異常なほどの死の気配がそれを否定する。
それはどこまでも邪悪で、ただ生者を憎み、恨み、貪り殺そうとする殺意。生者と相いれない声なき死の叫びが、アレスたちを襲う。
アレスたちが戦った魔王の恐怖すら霞むほどの圧。三百年を生きた不死の王が放つ、絶望的な死の気配。
グレイブが立つのは、魔法陣が刻まれた一段上の床。わずかな段差にすぎないのに、その一段が遥かな高みに思える。
アレスたちは半ば硬直しながらも、己を奮い立たせて対峙した。
目の前の穏やかな表情と、背後に渦巻く恐怖の矛盾が、心を揺さぶる。
その心を知ってか知らずか、グレイブが笑みを浮かべる。その人らしい自然な笑みは、国を滅ぼした人間の見せる表情とはあまりにかけ離れていて、だからこそ彼の異常性をより強く感じさせた。
「それにしても、ずいぶんと強くなったな。まさかあのアンデッドを一瞬で片づけるとは」
感心したように言いながら、アレスたちの力の源を言い当てる。
「だが、見ていた。なるほど竜王の加護に『転生者殺し』。いずれも強力な力だ。七日もたたずにここに戻ってくるとは思わなかったが……しかし、俺を殺す準備はできたようだ」
「グレイブ」
止めなければ際限なく話続けそうなグレイブを遮ってアレスが言った。
「竜王から見せてもらった。君の過去を」
「そうか。趣味の悪いことだ」
グレイブは軽い口調でそう返した後、ふいに口元を緩め、「俺は」、と口を開く。
「“異世界転生”が嫌いだ」
そう言ってからグレイブは鼻で笑う。
「だから、この仕組みを壊す。それだけだ。何も変な話じゃない。――そもそもだ。この世界ではどう思っているかは知らないが、異世界からの誘拐だ、これは。それを止めるっていうんだから何の問題もない。そうだろう?」
乾いた笑みを浮かべながら言う。ある意味では倫理に基づいた理屈の一つであることは間違いない。だが、その軽薄さが本心と程遠いものだということを明確に告げていた。
「……」
誰も一言も答えない。本心とも思えない言葉に反応しかねて、生じた苛立ちに誰もが静かに武器を握る力を強くする。
一人グレイブは薄っぺらい言葉を続けた。
「とはいえ、そう簡単にうまくいくものじゃない。最初にこの仕組みを作ったレイモンという男は優秀な魔法使いだったようでな。地脈と連動する術式を壊すのにそれなりの対価が必要なようだ」
やれやれと首を振り、演技っぽく大袈裟に息を吐いた。
「膨大な生命力が必要みたいなんだ。予想以上にな。これがまたどうにも難儀している。国一つを滅ぼしてもまだ足りない。今アンデッドに命じて、狩りをしているところだが終わるのはいつになることやら――そう思っていたんだが――」
恐ろしいことを何でもないように言いながら、アレスたちに目線が向く。
「都合のいいところにお前たちが来た。特別な力を携えたお前たちが。それだけの力があるのならば触媒として申し分ないだろう。本当にいいタイミングで来たもんだ。だから――」
グレイブがにたりと笑う。
「黙って殺されてくれるか、俺のために。勇者アレス」
「……」
変わってしまったとしか思えないグレイブの独白。怒りのまま無言でアレスは拳を強く握りしめる。
なぜ、こうなってしまったのか。なぜ、こうも悪意にまみれてしまったのか。
思い当たるのはただ一つだった。
アレスがまっすぐな眼差しで問いを投げた。
「俺を恨んでいるのか、彼女を――白井綾香を殺したことについて」
「……」
不気味な笑顔とともに饒舌に語っていたグレイブの表情が消えた。
無言の時間が続き、やがてグレイブは小さく息を吐くと、ふと遠くを見るように目を細めた。
「必然だった。たとえお前たちがやらなくても運命は変わらなかった。人類に仇なすがゆえに戦い、力及ばずがゆえに滅ぼされた。後はどう死ぬかだけの話だった」
グレイブはアレスに視線を戻す。短い沈黙が二人の間に落ちる。
「悔やんでいるのか、魔王を殺したことを」
アレスは己の右手をじっと見つめ、ゆっくり握りしめて胸に手を当てる。
「……そうかもしれない。他に方法はなかったのかと思う。君と彼女の過去を知れば、今でも胸が痛くなる」
そして、心の痛みに顔を歪めながら、顔を上げて力強く言った。
「――だけど、人々を守るためだった。たとえ、事情を知ったとしても俺の選択は変わらなかっただろう」
「……そういうことだ」
グレイブの表情が、ほんのわずかに揺れた。
「――そうあるべきだ、お前たちは」
ほとんど動かない表情。その中で、寂しくとも優しくとも映る微笑みだけがかすかに浮かんだ。
その表情に、虚飾を剥いだ本心の痛ましさに、アレスは胸の奥で生じたどうしようもない苦味を噛みしめる。
「……グレイブ」
アレスは内心の葛藤を吐き出すように言った。
「俺たちにはわからない。君の本心が。君が戦う本当の理由が。君の過去を見ても、今、君から話を聞いてもわからない。君は“異世界転生”を止めたいと言った。だけど、なんで、そのために国を滅ぼそうとした。もっと穏便な手段はとれなかったのか。彼女のことを思う気持ちは分る。でも本当は戦う理由なんて――ないんじゃないのか――」
その言葉にグレイブは突然大笑いを響かせた。
「なにがおかしい」
不気味に響く笑い声を収めたグレイブがおかしくてたまらないという様子で言う。
「つまらない情だ。そう思ってな」
「なに……?」
眉を寄せるアレスに、グレイブが高慢に言い放つ。
「俺に同情したか?この期に及んで俺に救いの手を伸ばそうと、そう言うのか、お前は。国を滅ぼし、大地をアンデッドで満たし、無関係な人々の命を奪う俺を許そうというのか!」
グレイブは鼻で笑い、冷たく言い捨てる。
「穏便な方法があったはずだと言ったな。ああ、そうだ。そういう手段も取ろうと思えば取れた。だが――」
高まっていた声の熱が一気に落ちる。
「――俺には無理だ」
ただ事実を告げるような淡々とした口調。しかし、根底に沈む絶望がその口調の中に滲んでいた。
「気に食わないから壊す。歯向かうから切り捨てる。許せないから叩き潰す。大義なんてもとよりない。誰もが喜ぶ平和の訪れに、俺の歪んだ心はこの結末を紛い物だと訴える。ありえないと叫ぶ。無責任に転生者を呼ぶ世界に、何も知らず喜びの声を上げる人々に、どうしようもない憎悪があふれて止まらない。間違いと知りつつも俺はこの感情を無視できない。平和的な解決を俺はもう望めないんだ」
徐々に言葉に熱がこもっていく。言葉の熱量とともに空気がひりつく。
「許せない、犠牲なしでは!止められない、言葉だけでは!歴史に刻まなければならない!流した血の量とともに!二度と忘れぬように!」
滲み出る狂気と、底冷えする静かな怒り。そのうちに煮えたぎる炎は何よりも暗く、激しく燃え盛っている。
「不必要な犠牲を無意味に重ね、この“異世界転生”を俺のくだらない逆恨みでもって終わらせる!――すべてが終わった後、知れ渡るだろう!俺こそが最悪の魔王だったと‼」
黒い雷が落ちたかのような衝撃の言葉。
流れる涙はなくともそれはあまりにも悲しく、感情に身を任せた衝動はなくともそれはあまりに怒りに満ちていた。
誰にも否定できないその心は、人として確かに存在するものだ。だが、決して許されるものではない。
その血に飢えた願いは、一体誰のためのものか。何をもって果たされるというのか。
たとえ“異世界転生”を止めたとしても、彼の心が満たされることはない。
その呪われた願いはどこまでも犠牲を求め、どれほど血を飲もうとも渇きは癒えない――決して救われない願い。その未来を知りながら、それでも求めずにはいられない絶望。
しかし、その痛み、苦しみを理解できるからこそアレスたちの胸に深く突き刺さる。連ねられた言葉の激しさは、泣いているかのようで、救われない魂が訴えているかのようだった。
それゆえに誰も声を出せず、場の空気は静まり返っていた。
だが――
その静寂を破ったのはヒースだった。
「ふざけるな!」
今まで見たことのない怒りを見せて、ヒースは叫んだ。
「不必要な犠牲?逆恨み?――バカにするのも、大概にしろ!」
ヒースは拳を強く握りしめる。ただやるせないように声を絞り出して言った。
「そんな理由で……人が殺されて、たまるかよ……!」
俯くヒースの肩に手を置いたタリクは悲しみを湛えた瞳で、静かに言葉を紡ぐ。
「あなたの悲しみはあなただけのものです。……ですが、それがあなたの選択というのならば、私たちは止めなければなりません」
「……間違っています」
頬を伝う涙を拭いながら、アリシアは震える声で言った。
「あなたなら、分かっているはずです……グレイブさん」
三人の言葉に、グレイブは無言だった。
しかし、先ほどの激情が嘘のように、穏やかにその否定を受け入れていた。
最後に、アレスが口を開く。
「……グレイブ」
呼びかける声はとても静かで、苦しげで、しかし、それでも迷いのない瞳で、まっすぐに彼を見据える。
「俺たちは勇者だ」
短く、しかし揺るぎない言葉。
「君は言った。自分こそが最悪の魔王になると」
「言ったな」
グレイブは静かに頷く。
「……“異世界転生”を止めるために犠牲が必要だと。そのために人々を襲っていると。そしてそれが自分の逆恨みでしかない。そう言ったな」
「その通りだ」
淡々と返すグレイブ。アレスは唇を強く噛みしめた。
「……だとすると、君は本当に……魔王だ」
その言葉に、グレイブはほのかな笑みを浮かべた。
「ああ」
「……」
多くの人々の苦しむ顔、悲劇の数々が脳裏をよぎる。
魔王――魔王か。
アレスは空を仰ぎ、目を閉じた。
魔王とは、名も知らぬ災厄をもたらす転生者に与えられるただの呼び名に過ぎない。だが、その肯定はあまりにも重く、静かな決別を告げていた。
アレスは視線を戻し、「なら」と呟くと、神剣バアルを抜いた。
切っ先をグレイブへ向け、静かに、しかし確かな決意を込めて言う。
「俺たちは君を倒さなくてはいけない」
仲間たちもそれぞれ武器を構え、グレイブへ向き合う。
人々の叫びが、訴えが、救いを求める声が再び脳裏に響く。
荒れ果てた町。絶望の声。救えなかった命。流された血と涙。
――そして、苦境の中、人々の心の中でいつも捧げられた平和への祈り。未来への希望と救われたときに見せた笑顔。
アレスは目を見開き、叫ぶ。
「今、この時代を生きる人々のために!希望の導である勇者として!――絶対にだ‼」




