最悪の魔王
月のない夜よりも暗い闇が支配する空の下、魔物が跋扈する北の大地に勇者一行は踏み入れる。魔物によって滅ぼされた村や町を通り、勇者たちが辿り着いたのは魔王城ネクロヤオル――凶悪な魔物が無数に巣くう魔王の住まう居城だった。
見たこともない強力な魔物が威嚇するように吠える。空気中に漂う濃密な魔力で歪な進化を遂げた植物が新たな魔物となって牙をむく。そして何より――目にしなくとも感じられる恐るべき転生者のプレッシャーが勇者たちを襲った。
ついに来たか、とヒースが呟く。恐怖で震える手は、しかし強く握りしめられた後、強靭な意思によって完璧に抑え込められた。
神よ、とタリクが祈る。魔なる力を振り払う神の奇跡というべき神術で仲間たちの力を底上げした。
行きましょう、とアリシアが気丈に声を上げる。祖母の形見である杖を手に、アリシアは恐怖を超えて真っ直ぐに前を見据える。
アレスは剣を抜いた。かつて神匠と謳われた転生者が鍛え上げた神剣バアル。雷神の力を宿した剣で飛び出してきた異形の魔物を切り伏せた。
迸る雷光。今もなお紫電を散らす剣を鞘に納め、アレスは行くぞ、と魔王城の門へと踏み込んでいった。
そして、アレスたちはついに魔王城の最深部に到達した。
無限に湧き出る魔物たちを切り伏せ、打ち倒してきた彼らだったが、もちろん無傷ではない。強敵との連戦により体力や魔力は消耗され、万全とは言えない状態だった。
だが、目の前にすぐそこに倒すべき存在がいる。この扉の向こう側にはあの魔王がいる。
アレスが仲間たちに視線を送る。彼らは無言で頷き返す。その表情には、疲労の色よりも、決意と信頼が宿っていた。
アレスが扉に手をかける。
重々しい音を響かせて扉はゆっくりと開かれていった。
悪魔や魔物たちが自らの主を前に恭しく傅いていた。それらが背後から現れた招かれざる客に敵意を向ける。
一体だけでも人類にとって大きな脅威となる強敵たち。人語を解するほどの高い知性を備え、禍々しく強大な魔力を持った魔物たちが群れとなってアレスたちの前に立ちふさがる。
だが、それらの脅威を前にして、アレスたちは別の一点に意識を囚われていた。
「……‼」
仲間たちは誰一人として声を出せなかった。
魔物たちの奥。玉座に座る魔の王。それが、その一挙手一投足があまりにも恐ろしくて目が離せない。
――これが本当に人なのか。転生者とはこれほどおぞましい生き物なのか。
人の形をした何者かがそこにいる。異形の何かだ。それ以上はわからない。
顔、姿はあるはずだ。だが、アレスたちはそれを認識できなかった。
アレスたちが認識できるのは魔王が恐怖という概念そのものであるということだけ。魔物ですらない正体不明の生命体が今まさにアレスたちの敵として目の前にいる。
転生者は別の世界から来た人間だという。だが、目の前にいる存在が人間であるとは到底思えない。意思疎通不可能と本能が訴えかけ、それ以上の理解を魂が強く拒んだ。
おもむろに魔王が口を開いた。
『ああ、あなたが勇者か』
人の声と思われぬ身も震えるようなおぞましい声でそう言った。
寒気が全身を襲う。鳴りやまぬ動悸。吹き出る冷や汗。浅くなる呼吸。一言一句すべてが強烈な重圧となって、アレスたちの動きを鈍らせる。
『私に歯向かい、友を殺し、そしてこの命を奪おうとする私の敵か』
体が否応なしに縮こまる。心を直接鷲掴みにするような異質で悪意に満ちた声。相容れぬ恐怖そのものが勇者たちに明確な殺意を向けた。
『死ね』
主の命を受けた魔物たちが一斉にアレスたちに襲いかかる。だが、アレスたちは金縛りにあったかのように動けない。恐怖が全身を支配して、指一つ動かすことすらできない――まさに絶体絶命。
――その時だった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ‼」
敢然と二刀の剣を抜いて、疾走したのは小人族のヒースだ。吹けば飛びそうな小さな体が、玉座に鎮座する魔王目掛けて一直線に突き進む。魔剣『鬼哭丸』と愛剣『風切』を抜き放ち、仲間たちを全力で鼓舞した。
「戦えっ、お前たち‼何のためにここに来たんだ‼」
その叱咤がアレスたちの硬直を解く契機となった。
「君の方がよっぽど勇者だよ、ヒース‼」
「情けない‼帰ったらその根性叩き直してやる‼」
「ごめんなさい!皆さん、行きますよ‼」
「守りは私に任せてください‼神よ、どうか我らに神のご加護を‼」
魔物たちも雄たけびを上げて迎え撃つ。大地が砕け、空が割れるような激しい戦いの幕が開けたのだった。




