誰も知らない彼の見た景色
魔王の名が落ちた瞬間、空気がひどく冷えたように感じられた。
アレスたちは息を呑み、誰一人として言葉を発せなかった。
スキアはその沈黙を確かめるように、ゆっくりと瞼を閉じる。
『ここから先はその景色を直接見せるとしよう』
スキアの声が響いた瞬間、世界がぱちりと切り替わった。
視界いっぱいに広がるのは、どこまでも続く草原。
アレスたちは戸惑いながらも、そこが見慣れたグランナレフ王国近郊の草原であるとすぐに悟った。
『や、やめて!』
か細い悲鳴が風に乗って届く。
黒いセーラー服を着た幼い少女が、五人の冒険者に囲まれ、震えていた。
少女の体は傷だらけで、涙に濡れた頬は恐怖に引きつっている。
必死に許しを請う声は、冒険者たちの耳には届いていないようだった。
『――彼女が魔王だ』
あまりに淡々としたスキアの言葉に、アレスが思わず声を上げる。
「彼女が……魔王?どう見ても普通の女の子じゃないか……!」
『転生者である彼女の力は、魔を統べる異形の女王。魔物は彼女の前で従順となり、人類は理由もなく恐怖に震える。――異形の王の力だ』
「……!」
『転生して二日目。野原を彷徨っていた彼女は、冒険者と遭遇し……こうして襲われた』
冒険者たちは険しい表情で少女を囲み、互いに叫び合う。
『……見たことのない化け物だ!人型だが、それ以上は……わからん!なんでだ⁉ゴブリンの亜種なのか⁉』
『いや、ゴブリンがこんな邪悪な気配を出すか!デーモンだ!まだ幼体だろう!成長する前に討伐しないと町が滅びるぞ!』
『油断するな!今は大人しいが、不意打ちを狙っているかもしれない!』
覚悟を決めた冒険者が剣を振り上げ――とどめを刺そうとした、その瞬間。
『――深く眠れ《ふかくねむれ》』
低く、よく通る声が草原に落ちた。
黒髪黒目の旅装の男――グレイブが、静かに魔法を放つ。
冒険者たちは一人残らず、その場に崩れ落ちるように深い眠りへと沈んだ。
グレイブは眠る冒険者たちに歩み寄り、冷めた目で一瞥する。
危機一髪で助けられた少女は、怯えたまま彼を見上げた。グレイブは少女を一度だけ見て、わずかに顔をしかめる。
身構える少女。だがグレイブは無言のまま、癒しのポーションを取り出し、少女の傷にそっとかけた。
光が走り、傷がみるみる塞がっていく。
少女は驚きに目を見開いた。
『……私が、怖くないの?』
震える声。
グレイブは眉をひそめ、淡々と答える。
『……怖いな。その格好、察するに転生者だろう』
少女の表情が救われたかのように一気に明るくなった。
『言葉が通じてる……!あなたももしかしてその転生者なの⁉』
『……転生者じゃなくても通じるはずだが――』
予想外の反応だったのか困惑するグレイブ。
しかし、眠る冒険者たちと、曇った少女の顔を見比べ、何かを悟ったように言葉を続けた。
『事情があるようだ』
――こうして、グレイブは魔王と出会った。
スキアが捕捉を入れる。
『アンデッドであるグレイブには、彼女の姿は異形に映らなかった。話を聞き、人間の世界では生きていけぬと悟ったグレイブは……魔王とともに旅に出ることを選んだのだ』
再び景色が揺らぎ、今度は小さな木造の小屋が現れた。
薄い灯りの中、少女――白井綾香がぽつんと座っている。
『先生!』
扉が開く音に、白井はぱっと顔を輝かせた。
入ってきたグレイブは、わずかに頬を緩めながら鞄を下ろし、中から衣類を取り出す。
『これは……?』
不思議そうに首を傾げる白井に、グレイブは淡々と答えた。
『魔道具だ。フードを被ると認識阻害の魔法が発動する。怪しまれるだろうが、ないよりましだろう。黙っていれば人前にも出られるはずだ』
白井はグレイブから衣類を受け取り、無理に作ったようなぎこちない笑顔で言う。
『……ありがとうございます』
白井の様子にグレイブはちらりと視線を向けたが、すぐに逸らし、椅子に腰を下ろした。
ポケットからナイフと木片を取り出し、無言で削り始める。
向かいの椅子に座った白井が、おそるおそる口を開いた。
『先生は……アンデッドなんですよね?』
『だそうだ。実際、神術で殺されかけたこともある』
木片を削る手は止まらない。
まるで他人事のように、淡々と続ける。
『転生者だったせいか、不死の力が強かったせいか……即死とはならなかったが、嫌な思い出だ。以降気を付けるようにしている』
『そんなに怖いところになんで、先生は普通に出て人と話せるの?』
『便利だからな。少し対策してふるまいに気を付けていればそう大事にはならない。……まあ、俺の場合は特性が強いから、どうにでもなるというのもある』
そこで木彫りの手を止め、出来上がったものをしげしげとみて、頷き、
『できた。よかったら、もらってくれるか』
『え……?これは……?』
『この地方に伝わるお守りらしい。成り行きで作り方を教わったんだが……なんとなくな。作ってみた』
『珍しいですね、先生がこういうものを作るなんて』
『教わって何もしないのも気まずいだろう。手慰みだ。いらなければ捨てても構わないが』
白井はそっと木彫りを両手で包み、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、灯りの下で小さく揺れながらも、確かな温かさを帯びていた。
『……いえ。大切にします。ありがとうございます』
白井の微笑みがふっと消え、景色が再び揺らぐ。
次に映し出されたのは、荒れ果てた巨大な城――廃墟となった魔王城だった。
『ネクロヤオル――お前たちが訪れた魔王の居城だ』
スキアの声が淡々と響く。
場面の中で、白井綾香は少し成長し、幼さの奥に大人びた美しさを宿していた。
『ここは?』
『かつて魔王と呼ばれた転生者の根城だ。あまり縁起のいい場所ではないが、人もめったに来ないし、手入れすればそれなりに住み心地はよくなるだろうと思ってな』
白井は廃墟を見上げ、目を細めて微笑んだ。
『確かに。この子たちにもちゃんと雨露をしのげる場所が欲しかったのでちょうどよかったです』
白井の背後で、魔物たちが安心しきった表情で寄り添っている。
グレイブはその様子を静かに見つめた。
『ずいぶんと慕われたものだ』
『ええ、かわいいです。特にこの子は頭がよくて』
黒い小さな竜――ライラが嬉しそうに空を舞う。
『ライラったら。すごくはしゃいじゃって』
『喜んでもらえたようで何よりだ』
グレイブは息をついた。
白井は魔法で瓦礫のツタを焼き払い、汚れを洗い流し、最後に屋根と城壁を再構築する。かつての魔王城は少しずつ、かつての威厳を取り戻していった。
『教えた魔法も、ずいぶん上達したな。短期間でここまでとは』
『先生のおかげです』
胸を張る白井に、グレイブは首を振る。
『できすぎた生徒だ、まったく』
白井は照れたように笑った。




