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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

神の代行者を殺したあと、世界は救われたが私だけは地獄に残った

掲載日:2026/01/11

第1章:選ばれなかった子

 私が最初に覚えた感情は、悲しみじゃなかった。

 不安でも、怒りでもない。

 置いていかれる、という予感だった。

 まだ幼かった頃のことだ。

 記憶はぼやけているのに、その感覚だけは今も鮮明に残っている。部屋の隅で、私は息を殺して座っていた。大人たちの声が低く、速く、決定事項のように行き交っていた。

 ――この子は、難しい。

 ――今は余裕がない。

 ――仕方がない。

 その言葉が、私の行き先を決めた。

 泣いた記憶はない。叫んだ覚えもない。ただ、心の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。

 選ばれなかった。

 それが何を意味するのか、そのときはよくわからなかった。ただ直感的に理解していた。

 選ばれないということは、守られないということだ。

 それからの人生は、ずっと同じだった。

 助けを求める人の列があれば、必ず誰かが列から外れる。配られる食事が足りなければ、誰かが空腹を引き受ける。毛布が一枚足りなければ、誰かが震える。

 そして、いつも思った。

 次は、私かもしれない。

 だから私は学んだ。

 声を荒げないこと。

 要求しすぎないこと。

 役に立つこと。

 泣いて縋る子より、黙って働く子の方が残される。優しさよりも、手間のかからなさの方が価値がある。

 それは残酷な真実だったけれど、同時にとても分かりやすかった。

 私は「いい子」になった。

 助けられる側ではなく、助ける側に回ればいい。

 切り捨てられる前に、必要とされればいい。

 そうして成長した私は、「人の痛みがわかる子」だと言われるようになった。

 その言葉を聞くたび、胸の奥がわずかに冷えた。

 本当は違う。

 私は痛みがわかるんじゃない。

 痛みを忘れないだけだ。

 そして忘れないからこそ、同じ場所に戻りたくなかった。

 救済組織の門を叩いたのは、善意からじゃない。

 正義感からでもない。

 ここにいれば、選ぶ側に立てる。

 それだけだった。

 初めて名簿を渡された日のことを、今でも覚えている。

 紙は思ったより薄くて、軽かった。そこに並ぶ名前も、ただの文字にしか見えなかった。

 でも私は知っていた。

 この紙の向こうに、人の人生がぶら下がっていることを。

 喉が詰まった。

 吐き気がした。

 それでも、手は離さなかった。

 選ばれなかった子には、戻らない。

 その一心で、私は名簿を抱えた。

 このときの私は、まだ信じていた。

 正しい側にいれば、いつか安心できると。

 選ぶ役目を引き受ければ、もう捨てられないと。

 ――まさかその「正しさ」が、

 私自身を一番深く切り刻むことになるなんて。

 その予感だけは、まだ知らなかった。


第2章:善意の刃

 救済組織の建物は、いつも静かだった。

 怒号も泣き声も、ここには届かない。厚い壁と、整えられた廊下が、外の混乱をきれいに切り分けている。

 私はこの静けさが好きだった。

 少なくとも、混乱の中で選ばれるか選ばれないかを待つ場所ではない。

 最初の仕事は単純だった。

 物資の配分。

 名簿の整理。

 面談の記録。

 ――助ける人を、決めるための仕事。

 「君、気が利くね」

 そう言われるたび、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 役に立っている。

 必要とされている。

 その感覚は、私を生かすための酸素だった。

 でも、最初に違和感を覚えたのは、条件の存在だった。

 支援には基準がある。

 健康状態、年齢、労働能力、協調性。

 将来性。

 数字と評価に分解された人間たちが、淡々と並べられていく。

 私は自分に言い聞かせた。

 これは合理的だ、と。

 限られた資源を最大限に活かすための、仕方のない判断だ、と。

 けれど、面談室で出会った老女の手を見たとき、その言葉は喉に詰まった。

 皺だらけで、細くて、震えている手。

 それでも必死に背筋を伸ばし、私を見上げていた。

 「迷惑は、かけませんから」

 その一言で、私は理解してしまった。

 この人も知っているのだ。

 役に立たなければ、捨てられるということを。

 名簿には、老女の名前があった。

 評価は低い。

 支援対象から外れる可能性が高い。

 私は何も言わなかった。

 言えなかった。

 代わりに、面談記録を少しだけ丁寧に書いた。

 字を整え、印象を和らげる言葉を選んだ。

 それが、私にできる精一杯だった。

 結果は変わらなかった。

 翌日、老女の名前は名簿から消えていた。

 処理済み、という短い印がついて。

 胸が締めつけられた。

 吐き気が込み上げた。

 でも同時に、どこかでほっとしている自分がいた。

 私が決めたわけじゃない。

 そう思えたからだ。

 それから、似たような場面を何度も見た。

 救われる人。

 救われない人。

 その境目は、あまりにも薄く、あまりにも曖昧だった。

 夜になると、消えた人たちの顔が浮かぶ。

 声が聞こえる。

 眠れない。

 それでも朝になると、私はまた建物に足を運ぶ。

 怖かったのは、慣れていく自分だった。

 最初は胸が痛んだ評価表も、次第にただの紙になった。

 処理済みの印も、意味を持たなくなっていく。

 代わりに残ったのは、一つの感覚だった。

 私がここにいなければ、もっとひどくなる。

 誰かがやらなければならない。

 なら、私がやるしかない。

 それは、優しさじゃない。

 正義でもない。

 ただ、選ばれなかった場所に戻らないための、言い訳だった。

 この頃の私は、まだ信じていた。

 自分は境界線のこちら側に立っている、と。

 善意が刃になることも、

 その刃を握る手が、いずれ血まみれになることも。

 まだ、知らなかった。


第3章:正しい犠牲

 その日、私は初めて「判断」を任された。

 会議室は狭く、窓もなかった。空気が動かず、言葉だけが行き来していた。机の上には二つの資料が並べられている。

 一つは、感染症が広がりつつある地区の報告書。

 もう一つは、その地区に残された人員名簿。

 「隔離が必要だ」

 淡々とした声で、上席の一人が言った。

 私は資料に目を落としたまま、頷いた。

 隔離。

 その言葉が何を意味するのか、もう知っている。

 「全員は無理だ。資源が足りない」

 別の声。

 私は息を吸った。肺の奥が、ひくりと引きつる。

 「基準に従って、切り捨てるしかない」

 その瞬間、全員の視線が私に向いた。

 ――君が、決めなさい。

 声には出されなかったけれど、確かにそう言われた。

 名簿を手に取る。

 紙は相変わらず、驚くほど軽い。

 数字。年齢。持病。家族構成。

 一人ひとりを、条件に当てはめていく。

 頭では理解していた。

 一人を切れば、十人が助かる。

 全員を救おうとして、全員を失うよりはいい。

 でも、指先が言うことをきかなかった。

 震えが止まらない。

 呼吸が浅くなり、耳の奥で心臓がうるさく鳴る。

 できない。

 そう思った瞬間、別の声が浮かんだ。

 じゃあ、誰がやる?

 私が逃げたら、もっと冷たい誰かが代わりに決める。

 もっと雑に、もっと早く。

 それなら――。

 私はペンを取った。

 名前の横に、小さな印をつける。

 一つ。

 また一つ。

 そのたびに、胸が締めつけられる。

 喉の奥が焼けるように痛む。

 最後の一人に印をつけた瞬間、手から力が抜けた。

 終わった。

 それだけだった。

 泣くと思っていた。

 吐くと思っていた。

 立ち上がれなくなるとさえ思っていた。

 でも、違った。

 部屋を出たとき、私は奇妙なほど落ち着いていた。

 心臓の音が、さっきより静かだった。

 終わった。

 その感覚が、全身に広がっていく。

 夜、宿舎のベッドに横になっても、眠れた。

 夢も見なかった。

 翌朝、目を覚ましたとき、最初に思ったのは――

 今日も、ちゃんと仕事に行ける。

 その事実に、ほっとしている自分がいた。

 数日後、隔離措置は成功したと報告された。

 感染は広がらず、多くの人が助かった。

 「君のおかげだ」

 そう言われたとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 同時に、違和感もあった。

 消えた人たちの顔が、思い出せない。

 名前も、声も。

 代わりに残っているのは、あの静けさだけだった。

 決断のあとに訪れた、あの不自然な安堵。

 私は気づいてしまった。

 選ぶことは、痛い。

 でも、選び終えたあとは、楽だ。

 その楽さを、私は否定できなかった。

 この日を境に、私は一つのことを学んだ。

 正しい犠牲は、確かに存在する。

 そしてそれを決められる人間は――

 思っていたより、ずっと少ない。

 その少ない側に、自分が立ってしまったことを。

 私は、もう理解していた。


第4章:痛みを知る者の資格

 決断を下した日から、私の立場は変わった。

 仕事の内容が変わったわけじゃない。

 席が前に移動したわけでもない。

 ただ、見られ方が違った。

 会議の途中で、意見を求められるようになった。

 書類の最終確認を任されるようになった。

 誰かが判断に迷ったとき、視線が私に集まった。

 それが、少しだけ誇らしかった。

 怖いのは、その感情を否定できなかったことだ。

 「君は、痛みを知っている」

 ある日、上席の一人がそう言った。

 何気ない口調だったけれど、その言葉は私の中に深く沈んだ。

 「だから、任せられる」

 私は曖昧に頷いた。

 否定も、肯定もできなかった。

 その夜、布団の中でその言葉を何度も反芻した。

 痛みを知っている。

 それは、褒め言葉だろうか。

 それとも、役割の確認だろうか。

 私は思い出した。

 置いていかれたあの日の感覚。

 選ばれなかったと悟った瞬間の、あの冷え。

 あれを知っている。

 確かに、私は知っている。

 だから、選べる。

 だから、切れる。

 そう考えたとき、胸の奥で何かが噛み合った。

 他の人たちは、優しすぎる。

 躊躇する。

 逃げ場を探す。

 それは悪いことじゃない。

 でも、決断の場には向いていない。

 私は違う。

 私はもう、逃げられない場所を知っている。

 会議室で誰かが言葉を濁すたび、苛立ちを覚えるようになった。

 どうして決められない?

 何を迷っている?

 決めなければ、事態は悪化する。

 迷っている時間こそが、最大の損失だ。

 そう思う自分に、気づいていた。

 気づいていて、止めなかった。

 夜になると、胸の奥がじくじく痛んだ。

 消えた人たちの影が、ふと脳裏をよぎる。

 それでも私は、自分にこう言い聞かせる。

 私は冷酷じゃない。

 冷酷な人間なら、こんなに苦しまない。

 苦しんでいる。

 眠れない夜もある。

 夢に、顔のない人影が出てくる。

 だから私は、正しい。

 その理屈が、いつの間にか自分の中で成立していた。

 あるとき、若い職員が泣きながら言った。

 「こんなの、間違ってます……」

 私は、思わず言葉を返していた。

 「間違っているかどうかは、結果で決まる」

 その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 若い職員は黙り込み、目を伏せた。

 私はその様子を見て、胸の奥がざらついた。

 ――でも、引き返そうとは思わなかった。

 痛みを知っている者にしか、できないことがある。

 それを引き受けるのが、私の役目だ。

 そう思わなければ、ここに立ち続けられなかった。

 この頃の私は、まだ自分を信じていた。

 苦しめる自分は、間違っていないと。

 その考えが、いつか

 「苦しめない人間は、資格がない」

 に変わっていくことを。

 この時点では、まだ知らなかった。


第5章:愛する者の例外

 彼女――アレーヌは、私がこの組織で初めて「安心できる」と思った人だった。

 仕事の話をするときも、沈黙が重くならない。

 私の決断に、露骨な評価をしない。

 それだけで、十分だった。

 「大丈夫?」

 そう聞かれるたび、胸の奥がわずかに緩んだ。

 大丈夫かどうかなんて、考えたこともなかったから。

 私たちは同じ資料を読み、同じ会議に出た。

 でも、彼女は私ほど深く踏み込まなかった。

 踏み込まない、という選択をしていた。

 それが、少し羨ましかった。

 問題は、突然やってきた。

 物資の不足。

 再編成。

 対象者の見直し。

 アレーヌの名前が、名簿にあった。

 一瞬、意味が理解できなかった。

 視線が文字の上を滑るだけで、頭が追いつかない。

 違う。

 これは、何かの間違いだ。

 評価は低い。

 能力はあるが、不可欠ではない。

 代替可能。

 私は名簿を閉じた。

 指先が、紙を強く押しすぎて白くなっていた。

 会議では、誰も特別な反応を示さなかった。

 アレーヌの名前は、他の名前と同じように扱われていた。

 私は口を開いた。

 「彼女は……使えます」

 自分でも驚くほど、声が硬かった。

 「感情的な判断は控えた方がいい」

 上席の一人が、穏やかに言った。

 責める口調ではない。

 だからこそ、余計に痛かった。

 その夜、私は初めて、規定を調べ直した。

 細かい条文。

 抜け道。

 見つけた。

 小さく、曖昧な一文。

 私はそれを使った。

 翌日、アレーヌの名前は名簿から消えた。

 処理対象から外された。

 胸が熱くなった。

 息がしやすくなった。

 よかった。

 その感情が、すぐに別のものに変わった。

 でも、いいのだろうか。

 その夜、眠れなかった。

 助けられなかった人たちの顔が、次々に浮かぶ。

 あの人たちは、どうして救われなかった?

 アレーヌと、何が違った?

 答えは、簡単だった。

 私が、愛したからだ。

 その事実が、吐き気を誘った。

 数日後、現場で問題が起きた。

 例外があることが、知られた。

 不満。

 疑念。

 動揺。

 秩序は、脆かった。

 会議で、誰かが言った。

 「例外があるなら、基準は意味を持たない」

 その言葉が、胸に突き刺さった。

 私は理解してしまった。

 愛は、不公平だ。

 例外は、刃だ。

 このままでは、私が壊す。

 私が、全てを台無しにする。

 会議が終わったあと、私はアレーヌを呼び止めた。

 「……もう、ここに来ない方がいい」

 彼女は一瞬、戸惑った顔をした。

 「どういう意味?」

 私は答えなかった。

 答えられなかった。

 数日後、再評価が行われた。

 私の署名が、そこにあった。

 アレーヌの名前は、再び名簿に戻った。

 手は、震えていなかった。

 涙も、出なかった。

 胸の奥が、ひどく冷えていた。

 それでも私は、こう思った。

 これで、平等だ。

 愛する者を切った自分を、

 誇らしいとさえ、感じてしまった。

 その瞬間、私は知った。

 私はもう、愛を守れない。

 愛は、私を正しくしてくれない。

 正しさのためなら、

 私は、誰でも切れる。

 それが証明された夜、

 私は、二度と元には戻れなくなった。



第6章:歪んだ平等

 アレーヌの席は、数日後には空になった。

 誰もその理由を聞かなかった。

 聞く必要がない、という空気だけが残った。

 私は、その空席を見ないようにした。

 見れば、思い出してしまうからだ。

 思い出せば、意味を与えてしまうからだ。

 意味は、秩序を壊す。

 それ以来、私は意識的に「人」を見なくなった。

 名前より先に評価を見る。

 顔より先に数値を見る。

 それは冷酷さじゃない。

 平等だ。

 愛したから救った。

 それが、どれほど危険な行為だったか。

 私は、身をもって知った。

 だから、もう迷わない。

 例外は、作らない。

 情は、基準に含めない。

 そう決めた日から、判断は速くなった。

 会議室で沈黙が落ちるたび、私は口を開いた。

 誰かが言いよどむ前に、結論を出した。

 「この条件なら、切るべきです」

 「迷う余地はありません」

 「次に進みましょう」

 言葉は短く、感情を含ませなかった。

 それだけで、場が動いた。

 不思議なことに、誰も強く反論しなかった。

 私の判断は、一度も致命的な失敗をしていなかったからだ。

 結果は、常に「正解」だった。

 救われる人数は増え、混乱は減った。

 数字が、それを証明していた。

 「君がいると、話が早い」

 そう言われたとき、胸の奥がわずかに軽くなった。

 あの、決断後の静けさが、また訪れた。

 楽だ。

 その感覚に、私は気づいていた。

 そして、否定しなかった。

 夜、眠れないことは相変わらずあった。

 でも、目を閉じればこう考える。

 私が迷えば、世界が迷う。

 私が止まれば、誰かが死ぬ。

 なら、私が止まらなければいい。

 誰かが、私を見て言った。

 「まるで、神みたいですね」

 冗談めいた口調だった。

 笑いも起きた。

 私は、笑わなかった。

 その言葉が、胸に落ちて、奇妙な重みを持ったからだ。

 神。

 選ばない存在。

 迷わない存在。

 責任を感じない存在。

 ――いい響きだと思った。

 神なら、苦しまなくていい。

 神なら、恨まれてもいい。

 神なら、愛を持たなくていい。

 私は、神にはなれない。

 でも、神の代わりにはなれる。

 その役目を、誰かがやらなければならないなら。

 ある日、正式に役職が与えられた。

 判断権限の拡大。

 最終決定への参与。

 書類に署名をしながら、手は震えなかった。

 私はもう、震えない。

 それが、誇らしくもあり、恐ろしくもあった。

 鏡に映る自分の顔は、驚くほど普通だった。

 怪物の顔をしていると思っていたのに。

 そのことが、一番怖かった。

 私は理解していた。

 ここから先は、戻れない。

 でも同時に、こうも思っていた。

 戻る必要が、どこにある?

 選ばれなかった子は、もういない。

 代わりにここにいるのは――

 選ぶことをやめた、

 選ばせる存在だった。



第7章:神の代行者

 人は、いつから私を見る目を変えたのだろう。

 気づいたときには、もう誰も私に軽口を叩かなくなっていた。

 会議室に入ると、空気が一瞬、張りつめる。

 私が席につくまで、誰も話し始めない。

 それは敬意だった。

 同時に、恐怖だった。

 私は、そのどちらも否定しなかった。

 判断は、すべて私を経由するようになった。

 最終的な確認。

 例外の可否。

 緊急時の即断。

 書類の束は、日に日に増えた。

 でも、処理速度は落ちなかった。

 むしろ、速くなっていた。

 「チアーブルなら、もう見ているだろう」

 そう言われるたび、胸の奥で何かが締まった。

 期待ではない。

 前提にされることへの圧迫感。

 私は、逃げ場を失っていた。

 夜、眠れなくなった。

 目を閉じると、数字が流れる。

 名簿が、評価表が、処理済みの印が、延々と並ぶ。

 時々、そこに顔が混じる。

 誰の顔か、わからない。

 わからないまま、次のページに進んでいる。

 夢の中でも、私は判断していた。

 目を覚ましたとき、

 「今のは夢だった」

 と理解するまでに、時間がかかるようになった。

 ある朝、鏡の前で立ち止まった。

 自分の顔が、他人のものに見えた。

 表情が、読めない。

 口角は上がっていない。

 眉も歪んでいない。

 なのに、どこかおかしい。

 この顔で、何人を切った?

 答えが出なかった。

 数えようとした瞬間、頭が拒否した。

 昼間、職員の一人が私に言った。

 「あなたが決めてくれると、安心します」

 その言葉を聞いたとき、

 胸の奥で、何かがひび割れた。

 安心。

 私が、誰かを安心させている。

 その事実が、ひどく重かった。

 別の日、誰かが泣きながら縋ってきた。

 「お願いします、あなたなら……」

 私は、最後まで話を聞かなかった。

 聞いてしまえば、顔を覚えてしまうからだ。

 代わりに、条件を確認した。

 基準を照らした。

 結果を伝えた。

 泣き声は、廊下に消えていった。

 その夜、初めて幻聴を聞いた。

 名前を呼ばれた気がした。

 振り返っても、誰もいない。

 疲れているだけだ。

 そう思った。

 そう思うことにした。

 だって、止まれない。

 私が倒れれば、判断が止まる。

 判断が止まれば、世界が止まる。

 それは、恐怖だった。

 同時に、甘美だった。

 私が、この世界を支えている。

 私が、均衡を保っている。

 その思考が、静かに根を張っていく。

 会議中、ふと笑いそうになることがあった。

 理由は、わからない。

 緊張した場で、皆が私の言葉を待っている。

 その光景が、現実味を失って見えた。

 どうして、こんなにも従うのだろう。

 答えは簡単だった。

 私が、選ばせないからだ。

 迷いを許さない。

 責任を分散させない。

 恐怖を一手に引き受ける。

 それは、神のやり方に近かった。

 私は、気づき始めていた。

 もう、自分が正しいかどうかは問題じゃない。

 私が決めること自体が、正しさになっている。

 その夜、久しぶりに涙が出た。

 理由は、わからなかった。

 悲しいのか、怖いのか、

 それとも、安心しているのか。

 ただ一つ、はっきりしていた。

 私は、壊れ始めている。

 でも――

 壊れたままでも、

 この世界は、ちゃんと回っている。



第八章:反乱と真実

――神も、予言も、すべては嘘だった

 世界が、音を失った。

 チアーブルはその瞬間を、のちに何度も反芻することになる。

 怒号も、悲鳴も、剣戟の音も、確かにそこにはあったはずなのに、彼女の意識に残ったのは、ただ一つの事実が脳裏に落ちる鈍い衝撃だけだった。

 ――ああ。

 ――そういうことか。

 神殿の最奥。

 「啓示の間」と呼ばれ、神の声が最も純粋に降りると信じられてきた場所。

 その中心で、チアーブルは“神の器”とされていた老司祭の亡骸を見下ろしていた。

 死体は、あまりにも人間的だった。

 裂けた喉。

 白濁した眼。

 痙攣の名残がまだ指先に残っている。

 神の代行者を名乗っていた存在が、こんなにも脆い肉でできているという事実が、ひどく滑稽に思えた。

「……嘘」

 声に出したつもりはなかった。

 だが、隣で剣を握るネネが、びくりと肩を震わせた。

「チアーブル……?」

 返事をする代わりに、彼女は壁一面に刻まれた古文書へと視線を向ける。

 預言。

 選ばれし者。

 災厄を清め、神意を代行する存在。

 ――全部、読める。

 ――そして、全部、歪んでいる。

 文字の配置。

 年代の齟齬。

 何より、“神の言葉”とされる部分だけが、意図的に曖昧だ。

「……書き換えられてる」

 今度は、はっきりと口にした。

「神が語ったんじゃない。

 人が、神のふりをして書いた」

 ネネが息を呑む音がした。

 その背後で、反乱を起こした信徒たちがざわめく。

「でも……でも預言は当たってきたじゃない!」

「神罰も……奇跡も……!」

 チアーブルは、ゆっくりと振り返った。

「当たったんじゃない。

 当たるように動かされていただけ」

 頭の中で、すべてが繋がっていく。

 疫病が流行った村。

 救済が“遅れた”理由。

 彼女が“神に選ばれた”とされたタイミング。

 ――最初から、決められていた。

 恐怖を煽り、

 希望を与え、

 そして“神の代行者”を必要とさせる。

 その中心に、自分が据えられていた。

「私たちは……」

 ネネの声が震える。

「……何のために、こんなに人を殺してきたの?」

 その問いは、刃物より鋭くチアーブルの胸を裂いた。

 答えは、もう分かっている。

 だが、言葉にした瞬間、それは取り返しのつかない罪として確定してしまう。

「……支配のため」

 言った瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚がした。

 喉が熱い。

 吐き気が込み上げる。

「神は、いなかった。

 予言は、道具だった。

 私たちは……便利な刃だった」

 沈黙。

 信徒の一人が、膝から崩れ落ちた。

 誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが叫び始める。

 秩序が、音を立てて崩れていく。

 チアーブルは、その中心で立ち尽くしていた。

 怒りも、悲しみも、後悔も、すべてが一度に押し寄せてきて、感情という形を保てない。

 ――じゃあ、私は何?

 神の代行者でもない。

 救済者でもない。

 ただ、人を殺し、希望を演じてきた――

「……空っぽだ」

 その呟きは、誰にも届かなかった。

 ネネが、そっと彼女の腕に触れる。

「じゃあ……これからは?」

 未来。

 選択。

 自由。

 それらの言葉が、今のチアーブルには耐え難いほど重い。

 ――神がいないなら。

 ――正しさがないなら。

 ならば、残るものは。

 チアーブルは、血に濡れた床を見つめながら、静かに笑った。

「……私が決めるしかない」

 その笑みは、救いを失った者のものだった。

 そして同時に、何かが決定的に歪み始めた兆しでもあった。

 神はいない。

 予言もない。

 ――だからこそ。

 彼女の中で、別の声が、ゆっくりと形を持ち始めていた。

 神がいないなら、

 私が“代行”する必要もない。

 ……なら、私は何になってもいい。

 その思考が、静かに、確実に、

 破滅へ向かう扉を開いたことを、

 まだ誰も知らなかった。


第九章:自壊と選択

――神なき世界で、彼女は“それ”を選ぶ

 最初に壊れたのは、身体じゃなかった。

 チアーブルは、指先を見つめていた。

 震えていない。

 汗も出ていない。

 鼓動すら、妙に落ち着いている。

 それが、何よりも異常だった。

 神殿は制圧された。

 反乱は成功した。

 嘘は暴かれ、支配者は死んだ。

 ――なのに。

 胸の奥に、何も湧き上がってこない。

「……ねえ」

 ネネの声が、遠くで聞こえる。

 すぐ隣にいるはずなのに、膜一枚隔てられているようだ。

「もう、終わったんだよ。

 もう……殺さなくていい」

 殺さなくていい。

 その言葉が、頭の中で意味を結ばず、砕けて落ちる。

 代わりに浮かんできたのは、数えきれない顔だった。

 助けを求めていた者。

 救われたと信じて微笑んだ者。

 「神の代行者」に裁かれ、死んでいった者。

 ――私が、選んだ。

 神の命令じゃない。

 預言の強制でもない。

 理解してしまった今だからこそ、逃げ場はなかった。

「……終わってない」

 ぽつりと呟く。

「チアーブル……?」

「終わってないよ、ネネ。

 だって――」

 言葉が、喉で一瞬止まる。

 だが、止めても意味がないことを、彼女はもう知っている。

「……私は、全部知った上で、続けた」

 啓示が嘘だと、

 神が存在しないと、

 誰かが意図的に世界を操っていたと、

 途中で、気づいていた。

 それでも。

「怖かったの」

 声が、かすれる。

「もし、全部が嘘だって言ったら、

 今まで死んだ人たちが、

 ……何のために死んだのか、分からなくなる」

 ネネが、はっと息を呑む。

「だから私は、

 “信じているふり”を続けた。

 自分で、自分を騙した」

 正義の顔で剣を振るい、

 慈悲の声で命を奪い、

 それを“神のため”だと呼んだ。

 その方が、楽だった。

「……私、最低だよ」

 言葉にした瞬間、胸の奥がじわりと軋んだ。

 罪悪感ではない。

 後悔でもない。

 自己認識が、ようやく現実に追いついた音だった。

 ネネが、泣きそうな顔で首を振る。

「違う……!

 あなたは、利用されて――」

「利用されただけなら、まだ救われた」

 チアーブルは、静かに笑う。

 その笑みは、もう“人のもの”ではなかった。

「でも私は、

 “知ったあとも”

 選び続けた」

 沈黙。

 遠くで、誰かが勝利を祝う声を上げている。

 それが、ひどく滑稽に聞こえた。

 ――神はいない。

 ――正しさも、用意されていない。

 なら。

 世界は、どうやって均衡を保つ?

「ねえ、ネネ」

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

「神がいない世界で、

 誰が“線”を引くと思う?」

「……線?」

「ここから先は許されて、

 ここから先は許されないっていう線」

 ネネは答えられなかった。

 チアーブルは、それを確認して、納得したように頷く。

「誰も引かないなら、

 引ける人間が引くしかない」

 それは、使命でも、義務でもない。

 罰だった。

「私はもう、

 救われる側に行けない」

 だから。

「せめて、

 “壊れる役”を引き受ける」

 ネネの目から、涙が溢れる。

「やめて……!

 それは……それは、あなたが背負う必要ない……!」

 チアーブルは、そっと彼女の頬に触れた。

 その指は、冷たかった。

「これはね、ネネ。

 私が選びたいことなの」

 神に命じられたからじゃない。

 世界に期待されたからでもない。

 ――自分で選ぶ。

 その事実が、彼女を完全に孤独にした。

「神の代行者なんて、もう名乗らない」

 一拍置いて、続ける。

「でもね……

 神より、もっと厄介なものには、なれる」

 秩序を守る存在。

 善悪を裁く存在。

 それらを、彼女は否定した。

 代わりに選んだのは――

「……世界が壊れないための、

 化け物」

 言い切った瞬間、

 胸の奥で、何かが完全に折れた音がした。

 痛みはない。

 ただ、戻れないと分かるだけ。

 ネネが、その場に崩れ落ちる。

 チアーブルは、背を向けた。

 もう、振り返らない。

 神はいない。

 予言もない。

 救済も、用意されていない。

 それでも世界は続く。

 だから彼女は、

 人であることを捨てることを、

 自分の意思で選んだ。

 ――その選択が、

 どれほど多くの血と絶望を生むのかを、

 理解した上で。


第十章:神より醜いもの

――世界は救われ、彼女だけが残る

 世界は、確かに救われた。

 神殿は完全に解体され、

 偽りの預言は記録として公開され、

 「神の代行者」という制度そのものが、歴史から抹消された。

 人々は言った。

 もう、誰も裁かれない。

 もう、誰も選ばれない。

 これからは、人が人として生きる世界だ、と。

 その中心に、チアーブルはいなかった。

 ――否。

 正確には、どこにでもいた。

 彼女は名前を捨てた。

 称号も、顔も、過去も。

 ただ「それ」として存在する。

 都市の境界。

 国と国の狭間。

 法が届かず、正義が迷う場所。

 争いが起きそうな場所に、必ず現れる影。

 止めるためではない。

 救うためでもない。

 壊すために、先に壊す。

「これ以上、進めば死ぬ」

 そう告げられた者は、必ず引き返した。

 なぜなら、それを無視した者は、例外なく――消えたからだ。

 彼女は裁かない。

 善悪を語らない。

 理由も説明しない。

 ただ、世界の均衡が傾く瞬間だけ、現れる。

 人々は、やがて噂し始めた。

 神はいない。

 だが、神よりも冷酷な何かがいると。

 それを呼ぶ名は、いくつも生まれた。

 守護者。

 災厄。

 影の法。

 世界の刃。

 だが、本人はどれも名乗らない。

 名を持てば、そこに救いが生まれてしまうから。

 夜。

 ひとつの村の外れで、チアーブルは立ち止まった。

 今日は、誰も殺していない。

 それでも、胸は重い。

 ふと、遠くから聞こえる笑い声。

 焚き火の周りで、人々が食事をしている。

 ――平和だ。

 彼女が望んだ、世界。

 その光景を見ていると、

 胸の奥に、かつての感情が微かに疼いた。

 ネネの声。

 誰かの手の温度。

 名前を呼ばれる感覚。

 だが、それは思い出ではない。

 幻痛だ。

「……私は、ここには行けない」

 口に出すと、空気に溶けて消えた。

 近づけば、壊してしまう。

 留まれば、均衡が狂う。

 だから、彼女は歩き続ける。

 眠らない。

 夢を見ない。

 誰にも触れない。

 罰を、終わらせないために。

 ある日、誰かが問うた。

「お前は、何者なんだ?」

 チアーブルは、少しだけ考えた。

 神ではない。

 人でもない。

 正義でも、悪でもない。

 そして、答えた。

「――間違いの残骸だ」

 かつて、信じてしまったこと。

 選んでしまったこと。

 引き返せたはずの瞬間。

 それらすべてが、今の自分だ。

 世界は前に進む。

 人は学び、忘れ、また過ちを繰り返す。

 そのたびに、彼女は現れる。

 誰にも感謝されず、

 誰にも憎まれきられず、

 誰にも理解されないまま。

 それでいい。

 それが、彼女が自分に科した地獄だから。

 ――神はいない世界で。

 神よりも醜く、

 神よりも孤独で、

 それでも世界を守るもの。

 それが、チアーブルだった。

 そしてこの世界は、

 彼女が救われない限り、救われ続ける。



エピローグ:彼女がいない世界

――ネネの記録

 チアーブルは、何も言わずにいなくなった。

 別れの言葉も、約束もなかった。

 ただ、ある朝、彼女の影だけが消えていた。

 私は最初、それを「選択」だと思った。

 彼女が、自分の役目を終えたのだと。

 ……でも、違った。

 彼女は終わっていなかった。

 終わらせてもらえなかった。

 世界は、驚くほど早く落ち着いた。

 神殿がなくなり、

 預言が否定され、

 「代行者」という言葉が禁句になるまで、ほんの数年。

 人々は強かった。

 忘れることで、前に進めた。

 私は――忘れられなかった。

 各地で噂が流れ始めた頃、確信した。

 名もなく現れ、

 争いの芽を根こそぎ刈り取り、

 何も語らず去る存在。

 誰かが言った。

「神はいないけど、均衡は守られてる」

 それを聞いた瞬間、吐き気がした。

 均衡。

 便利な言葉だ。

 誰か一人が地獄に落ち続けている事実を、

 きれいに包んでしまえる。

 私は、彼女を探した。

 何年も。

 何十年も。

 噂の残り香を追って、

 国境を越え、

 名前のない村を訪ね歩いた。

 でも、会えなかった。

 代わりに、痕跡だけが残っていた。

 焦げた地面。

 壊れた剣。

 逃げ延びた人々の、震える声。

「あれは……人じゃなかった」

 その言葉を聞くたび、胸が裂けた。

 違う。

 あれは、人だった。

 人であることを、捨てさせられただけだ。

 夜、焚き火のそばで眠るとき、

 私はよく同じ夢を見る。

 彼女が、遠くで立っている。

 呼んでも、振り向かない。

 近づこうとすると、

 地面が崩れ落ちる。

 ――来るな、と言われている気がする。

 ある日、私は古い記録に、自分の名前を見つけた。

 「反乱の生存者」

 「新制度の証言者」

 「未来を築いた一人」

 そのどれにも、彼女の名前はなかった。

 最初から、存在しなかったみたいに。

 私は怒った。

 泣いた。

 それから、書くことにした。

 事実を、感情を、

 彼女が“人だった”証拠を。

 英雄としてじゃない。

 犠牲としてでもない。

 選んでしまった一人の人間として。

 誰かが言った。

「それを書いて、何になる?」

 私は答えた。

「忘れないため」

 もし世界が、また同じ過ちを選びそうになったとき。

 「誰かが背負えばいい」と言い出したとき。

 その時、思い出してほしい。

 救われた世界の裏側に、

 ずっと歩き続ける一人がいることを。

 チアーブル。

 あなたが救われないことで、

 私たちは今日も平和に息をしている。

 それを、

 当たり前にしないために。

 私は、書き続ける。

 あなたが、もう戻れない場所から、

 完全に消えてしまわないように。

 ――神はいない世界で、

 ただ一人、

 神よりも重い罪を背負った人のことを。



 終








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