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ジェラシー(3)

 三連休が明けた十月十日、ホープ製薬立川営業所では、週初めのミーティングが行われた。

 午前十時に始まったミーティングが二十分ほど経った時、所長の北山が、手にしたコーヒーカップを落とした。

「何か変だ………」

 異常を訴えた北山の顔は真っ青になり、手の震えが止まらなかった。

「所長、大丈夫ですか。どうしたんですか」石黒が呼びかけた。

 北山は、真っ青な顔の額に汗を浮かべ、椅子から滑るように落ちた。

 所長の異変に合わせたかのように、山元、福永、浜崎たち五人が頭痛や腹痛の異常を訴えた。ミーティングルームから飛び出した石黒が、事務員の井上由香に救急車を呼ぶようにと叫んだ。

 北山は、近くの救急救命センターに搬送された。異常を訴えた所員の五人は、異常が無かった石黒と河出が、営業所から車で救命センターに連れて行った。

 北山の処置に当たった医師は、その症状の特徴から農薬による中毒症状を疑って、保健所と警察に連絡した。

 北山は、解毒剤の硫酸アトロピンを投与され緊急入院した。症状の軽い五人は、一時間程の点滴治療の後、自宅で様子をみることになり、帰宅した。

 農薬中毒の可能性があることを聞かされた石黒と河出は、病院で警察から事情を聞かれた。二人は、朝から営業所のミーティングまでの様子から、ミーティングが始まって、所長の北山が、異変を訴えるまでを、お互いの記憶を確認しながら、説明した。

 結果、「症状が出た六人に共通することは、コーヒーを飲んだ後、異常を訴えた」という結論になった。石黒は警察から、そのコーヒーの保全状況を確認するように指示された。石黒は営業所に残っている井上由香に、コーヒーメーカーのコーヒーと、ミーティングルームに残されたコーヒーカップの状況を確認した。由香は、北山が(こぼ)したコーヒーはふき取ってしまったが、あとはそのまま手を付けずに置いたままにしてあると言い、

「片付けて良いなら片付けますが……」と石黒に訊いた。

「手を付けずにそのままにしておいてください。今から戻ります」

 石黒は電話を切ると、河出と警察とともに営業所に戻った。


 営業所には、井上由香一人が居るだけだった。石黒と河出同様、異常を訴えることが無かった澤木の姿はなかった。代わりに立川中央署の三木と名乗る刑事が、石黒たちを待っていた。そして、暫くすると、北多摩保健所の係員二人が到着した。

 三木刑事は、保健所係員に、コーヒーメーカーのポットに残っているコーヒーの分析を依頼し、同時に、井上由香の机の上のコーヒーと、ミーティングルームに残されているコーヒーカップのコーヒーそれぞれの分析も依頼した。その際、三木は、石黒と河出から、入院している北山をはじめ、異常を訴えた五人、異常のない石黒、河出、澤木の座っていた位置を特定し、コーヒーの検体に、それぞれの名前をラベリングした。

 手帳にメモしていた手を止めて三木が訊いた。

「石黒さんと河出さんのカップは、他の人たちと違いますね」

「私は、コンビニで買ってきたコーヒーなんです」石黒が応えると

「僕もコンビニです」と河出が続けた。

「お二人はいつもそうなんですか?」

「私は営業所に朝から出社する時は、そうしています」

「僕も同じです」

「澤木さんという方も異常は出なかったようですが、コーヒーメーカーで作ったコーヒーは飲んでいないということですか。コーヒーカップも見当たらないようですが」

三木は、ミーティングルームの机の上を眺めて言った。

「……そうですね、カップはありませんね……。いや、何か飲んでいたはずですが……」石黒は首を捻った。

「ハーブティーを飲んでいましたよ」と河出が答え、さらに続けた。

「朝、ミーティングの前に、給湯場で、ティーバッグで何か作っていたので、紅茶ですかって聞いたんです。そしたら、ハーブティーだよって言っていましたから。カップは飲み終わって捨てたんじゃないでしょうか」

「そういうことですか、分かりました」

 三木はメモした手帳を閉じて、ミーティングルームを出ると、井上由香のところへ向かった。

「あなたもそのコーヒーはコンビニのコーヒーですか?」

「いえ、私はコーヒーメーカーで淹れたコーヒーです」

 井上由香の答えに、三木は意外そうな表情で首を捻った。

「体調に異常はない?」

「はい」由香は頷いた。

 三木の疑問は当然だった。同じコーヒーを飲んで異変が起こった六人と、何も起こらなかった井上由香とは何が違ったのか。それは、話が聞こえる距離にいた石黒にも同じ疑問だった。

「コーヒーはどなたが作られるんですか」

「私が作っています。コーヒーメーカーに濾紙を用意して、コーヒーの粉を入れるだけですから、そんなに手間はかかりません」

「あなた自身が、用意して淹れたコーヒーを飲む訳ですから、やはり最初に飲むことが多いのでは……」

「はい、毎日淹れたての最初のコーヒーをいただいています」

由香は、三木の質問の意味していることを考える様子もみせず、何の躊躇いも見せずに答えていた。

 二人のやり取りが耳に入った石黒は、コーヒーに何かが入ったとしたら、由香がコーヒーを飲んだ後なんだとそれとなく理解した。

 三木は、保健所の係員に、コーヒーの粉の成分も分析するよう依頼した。

 保健所の係員が退出した後も、三木たちは、営業所内のごみ箱や、個人のキャビネット、個人ロッカーの場所を石黒の案内で確認した。

「コーヒー中の成分分析の結果が出るまでにさほど日にちはかからないそうですから、ロッカーやキャビネットの中は、警察から連絡があるまでは現状のままにしておいてください。それと、今日の分別ゴミも別に保存しておいていただけますか」

三木は、石黒と井上由香を交互に見ながら強い口調で言った。

石黒は、「分かりました」と応じたが、井上由香には三木の言葉の意味が、よく分からないようだった。

「コーヒーの中に何か入っていたんですか?」由香は石黒を見た。

「それを今から調べるので、ご協力をお願いします」三木だった。

「……農薬が入っていたらしいんだ」

石黒が由香の耳元で囁くように伝えた。

「え、農薬が……」

由香の眉間に皺が寄った。


 立川中央署に戻った三木は、刑事課長の中野に状況を報告し、コーヒーの分析を待った。

「農薬が混入していたとしたら、自然に入る筈はないからな。営業所の誰かが入れたと考えられるが、異常が無かった人間が入れたと考えるのが、自然だろう」

 中野が言うのは、当然で、三木もそこからになるだろう、と考えていた。三木には、もう一つ腑に落ちないことがあった。それは、所長の北山だけ症状が重いことだった。

「課長、所長の北山の症状が最も酷いんですが、どう思います」

「……たくさん飲んだということなのかな」


 その日の夜、北多摩保健所からの第一報が入った。

 コーヒーメーカーのポットの残コーヒーから、有機リン系の農薬の成分が検出されたという報告だった。保健所からは、有機リン系の農薬の種類までの特定には、もう少し時間が必要だが、コーヒー中に溶けていたことを考えると水和剤だと思われる、と報告され、個別のコーヒーカップの検査結果はこれから順次判明するということだった。


 立川中央署刑事課は、本格的に傷害事件として捜査に当たることとなり、三木の班が担当することとなった。

 三木は、鑑識とともに翌日、再度ホープ製薬立川営業所を訪れた。

そして、コーヒーに農薬が混入されていたことの連絡を受け、急遽駆け付けたホープ製薬東京支店の総務課長の立会いのもと、捜索を始めた。給湯場に置かれていた分別ゴミを押収し、所長の北山の机、事務の井上由香の机の中、さらに所員が書類入れとして使っているキャビネットの中、そしてロッカー内をくまなく調べた。

 所員たちが何人か営業所に居た。石黒も農薬混入を知らされて、在室していた。

 ロッカーを井上由香が保管している予備キーで開錠し、一つ一つ調べていた三木が、あるロッカーの上部の棚の奥にプラスチック製の容器を見つけた。それは、高さ8センチほどの円筒形で、直径は3センチぐらいで、キャップで閉められていた。

 三木は、キャップを開けて臭いを嗅いだ。

「何だ、これは。シンナーのような臭いがするが……」と、一緒に捜索に入った刑事にその円筒形の容器を渡した。

「係長、これはもしかしたら農薬では……」

「鑑識に渡してくれ」

三木が指示した。そして立ち会っていた総務課長に向けて

「このロッカーは誰が使っているんですか」と訊いた。

「ちょっと待って下さい」

総務課長は井上由香を呼んだ。

 由香はロッカーの予備キーのナンバーを確認した。

「石黒さんのロッカーです」

「石黒さんは、今日は……」

「今、ちょうど居ますが、もうすぐ外勤に出掛けると思います」

 三木は、刑事と共に、プラスチック容器を持って、急ぎ石黒のところに向かい、いきなり声を掛けた。

「これは石黒さんのロッカーに入っていましたが、あなたの物に間違いありませんか」

 三木は、白手袋をした手に持ったプラスチック容器を、石黒に見せた。

「……それは何ですか?」

 石黒は、座ったままその円筒形の容器に顔を近付け、手に取ろうとした。三木は慌てて手元に引き寄せた。

「指紋を付けないように」

 三木は、容器のキャップを開けて、石黒の鼻先に近付けた。

 石黒は、僅かにシンナーのような臭いを感じた。

「私の物ではありません。変な臭いがしますが、これは何ですか……まさか」

「それをこれから調べる事になりますが、もう一度お聞きします。これはあなたの物ではない?」

「私の物ではありません。何故こんな物が私のロッカーにあったんですか。本当に私のロッカーですか」

「間違いなくあなたのロッカーにありました。とにかく、容器内に僅かに残っている残液の成分分析を急ぎます」

 石黒は、その容器に入っていた物が、一瞬嗅いだその臭いから想像して、農薬の可能性が高いと直感した。それは、石黒自身が、プランター栽培の家庭菜園で使っている殺虫剤の臭いと似ていた。それが、自分のロッカーにあったということは、それを置いた人間の狙いは、自分を犯人に仕立てる為だろうが、ということは、置いた人間こそがコーヒーに農薬を混入した犯人であることを意味している筈だ。一体誰が自分に罪を被せようとしているのか。そんなに自分を恨みに思っているのか。その人間がこの営業所に居ると思うと石黒は恐ろしくなった。人間が恐ろしく思えた。


 有機リン系の農薬は、殺虫剤として使われているSチオン水和剤と特定され、カップに残されたコーヒーの分析では、井上由香の机の上のカップと、石黒と河出のカップからは何も検出されなかったが、残りのカップのコーヒーからは全てに同じ農薬が検出された。さらに、石黒のロッカーに置かれたプラスチック容器からも同じ有機リン系の殺虫剤用の農薬が検出された。

 三木たちは、中毒症状が重く入院中の北山を除く営業所の全員から、異変が起こった朝の状況を聞き取った。

「係長、被害者たちのうち何人かは、一杯目のコーヒーでは何ともなくて、二杯目のコーヒーで異常を感じたと言っていますね」刑事の一人が三木に顔を向けた。

「井上由香の話では、コーヒーメーカーで二回淹れたそうだ。会議やミーティングの日は必ず二回か三回淹れるそうだから、二回目に淹れたポットに農薬を入れたということだろう」

「一回目のポットには入れずに二回目のポットに入れたのは何故なんでしょう。そもそも何故農薬を入れたんですかね。営業所の全員に恨みがあったということですかね」別の刑事だった。

「動機か……。それは現状では、見当がつかない」

 三木は、動機もそうだったが、所長の北山だけが、聞き取りが出来ないほど酷い中毒症状が出ていることへの、疑問が消えなかった。

「係長、ロッカーのプラスチック容器からは、指紋のかけら一つ出なかったのは、拭き取ったとしか思えないですよ。石黒の言う通り、あれが石黒の物では無いとしたら、犯人は明らかに石黒の犯行に思わせようとしている訳ですから、動機も石黒の周辺に関することではないでしょうか。石黒にもう一度詳しく話を聞くべきだと思いますが」

「そうだな……」

 同意した三木だったが、一つ目のポットのコーヒーがなくなって、二つ目のポットになることを見計らって、犯人は農薬を混入させたのだが、犯人はどうやって二回目のコーヒーが淹れ終わったことを知ったのか、と考えると、井上由香の存在を無視することは出来ないと思っていた。


 三木たちは営業所を再訪した。三木の再三の聴取を受けた石黒は、プラスチック容器の件で話を聞きたい、という三木の言葉に、まだ自分が疑われているのか、と肩を落とし(うつむ)いた。

「プラスチック容器からは、拭き取られていたのか指紋は全く出ませんでした。それが何を意図したものか……。私は二つの可能性を考えています。一つは、誰かがあなたの犯行に見せかけようとした。もう一つは、あなた自身が拭き取って、営業所の誰かが自分のロッカーに置いたように見せかけるため」

三木は、石黒の反応を確かめるようにゆっくり話した。

「私はそんな事は絶対にしていません。する理由がありません。もし、私が農薬をそのプラスチック容器に入れてコーヒーに入れたとしたら、私ならその容器を会社には置きません。まして自分のロッカーに入れたりしません。自分が疑われるようなことは絶対にしません」

 石黒は、自分の顔が紅潮してくるのが分かった。このイライラ感は、あの時と一緒だと思い出した。それは、学生時代の夏の夜、短パン、Tシャツで家のママチャリに乗っていて警官に職務質問を受け、盗難自転車の調べをされ、自転車泥棒の扱いをされた時、そしてもう一度は、先日の居酒屋無断キャンセルと言われた時だ。

「石黒さんの言われるのはもっともです。私もそうするでしょう。それでお聞きしたいのですが、この営業所で石黒さんを恨んでいる方がいるのではないですか。心当たりはありませんか」

「………」

三木の問いに、石黒の脳裏には、居酒屋の無断キャンセルの嫌がらせが浮かんだが、あれは金で済む話であり、今回の件とは悪質さの質が違う、と口に出すことを躊躇った。

「でも刑事さん、私に恨みがあるなら、私にだけ農薬を飲ませればいい筈ですよ。それなのに営業所のたくさんの人の命に関わるようなことまでするんでしょうか」

「犯人は、人の命に関わるような大事になるとは思っていなかったかも知れません。ただただあなたへの嫌がらせをしたかっただけかも知れませんね。酷い言い方をすれば、あなたに会社を辞めさせるための、究極の嫌がらせではありませんか。心当たりは無い?」

三木は、石黒に何らかの躊躇いを感じて訊いた。

「……嫌がらせということでは、先日……」と石黒は、居酒屋の無断キャンセルの話を始めた。

「そうですか。それは命に関わる嫌がらせではないにしても、実に陰湿は嫌がらせですね。それで、そんな事を誰がしたのか分かったのですか?」

三木は、やはりそんな事があったのかと、身を乗り出しながら訊いた。

「それは分かりません」

「分からない?営業所の人間の誰かということですよね……」

「かも知れませんが……」

 石黒の歯切れの悪い答えに、「かも、とは?」と三木は首を捻った。

 石黒は、先月起こった北多摩総合病院の駐車場での、車を傷つけられるという、嫌がらせ事件の話をした。

「つまり、社外にも嫌がらせをする人間がいるかも知れないということですか」

「それもあります。それと、所長と相談して、雰囲気も悪くなるので、営業所内での犯人捜しは止めようということになりました。結局、私がキャンセル料を払って終わりにしたんです」

「そうは言っても、この営業所内で石黒さんに嫌がらせをしそうな人の心当たりはあるんじゃないですか」

「……そんな人がいるとは思えませんし、心当たりもないです」石黒は首を捻った。

 石黒は、名前を挙げることはしなかった。心当たりが全く無い訳ではなかった。福永弥生の言葉「山元さんは石黒さんをライバル視している」が頭に過ったが、口には出せなかった。

 

 石黒に続いて、三木は事務員の井上由香からも再度の聴取をした。

「二回目のコーヒーを淹れた時の状況を確認したいのですが、ミーティングの始まる何分ぐらい前に淹れたのか思い出してください」

「最初が、私が出社してしばらくしてからですから、八時四十五分ぐらいで、それを皆さんが飲んで、山元さんが、もう無くなったから作ってと言われたのが九時半ぐらいだったと思います。それから作りましたから、……九時四十五分ぐらいに出来上がったんだと思います」

「その二回目のコーヒーを最初に飲みに来たというか、最初に取りに来た人を憶えていませんか。あなたの机は、ここの給湯場に一番近いだけに思い出して欲しいのですが」

「……出来上がりを山元さんが待っていたので、私が山元さんに声を掛けて、出来上がりを教えたんです」

「山元さんが最初に飲んだということですね」

「そうだと思いますが、私も声を掛けた後、少しだけ席を外したのでそうなのかどうか分かりません」

「今、山元さんは?」

「今日は、まだ体調が悪いからと電話があって休んでいます」

 井上由香からの聴取を終えた三木は、首を捻った。山元も被害者の一人であることを考えれば、山元が給湯場に来る前に農薬を混入した人間がいるということだ。それが可能なのは現状では井上由香ということになるが。

「山元さんがコーヒーを取りに来る前に、給湯場に来た人はいない?」

「給湯場に来た人ですか……、そう言えば澤木さんがハーブティーを淹れに来ていたように思います」

 分別ゴミの中に、ティーバッグが二つ捨てられていたのを確認したのは三木だっただけに、「二杯目のハーブティーか」と呟いた。

「澤木さんは今居ますか?」

「いえ、外勤に出ています」

「戻って来られますか」

「さあ、澤木さんは、営業所に滅多に戻って来ませんから分かりません。夕方には連絡は入りますが、こちらからも連絡は出来ます」

「申し訳ありませんが、戻って来ていただけるように伝えていただけますか」

 由香はミーティングルームを出て、暫くして戻ってきた。

「澤木さんは、もうすぐ戻って来るそうです」由香はそう言うと机に戻ろうとした。

「井上さんにもう一つ、二つ訊きたいことがあるのですが」

「……」由香はミーティングルームに座り直した。

「井上さんから見て、石黒さんが営業所の誰かから恨まれているようなことは思い当たりませんか」

「石黒さんを恨む……、私には思い当たることはありません。この営業所で石黒さんを恨んでいる人なんていないと思いますが」

「そうですか。最後にもう一つだけ訊かせてください。井上さんの自宅には、農薬は置いてありますか」

「………」

 三木の問いに、由香は一瞬言葉を失った。由香にもその質問が何を意味しているのか、直ぐに分かったということを表していた。

「農薬ですか……。まさか私が入れたと言うんですか。そんな恐ろしいこと、とんでもありません。農薬なんて家にはありません」


 三木は、同行の刑事に、営業所の人間の中に、石黒に恨みを持っていそうな人物がいないか、心当たりはないか、班の全刑事に再度聞き取りをするよう指示した後、井上由香が淹れてくれたお茶を飲みながら、澤木が戻って来るのを待った。

 三木はお茶を見ながら、このお茶に農薬が入っていたら、あのシンナーのような臭いで異常が分かるが、コーヒーではコーヒーの香りが勝って混入が分からなくなる。それは三木たちが実験してみて分かったことであり、犯人もそれを承知の上で混入したのだろう、という推測をしたことを思い返していた。


 戻ってきた澤木に、三木は仕事の途中で呼び出したことを詫びて、質問を始めた。

「澤木さんは、営業所のミーティングの前にハーブティーをお飲みになっていたようですが、いつもハーブティーを飲まれているんですか」

「……はあ、いつもというか、会議やミーティングの前には飲んでいますが、それが何か」

 澤木の顔は、三木が求めているものが何なのか、意味が分からないという顔をした。

「会議や、ミーティングの前に飲むということは、毎日飲んでいる訳ではない?」

「はい」

「それは、いつからそうされているんですか」

「……半年ぐらい前からです」

 三木は、澤木の話を聞いた時、半年前からの計画的犯行の可能性も頭に(よぎ)った。

「半年前から?何故?」

「……会社の人間には、誰にも言っていませんが、四月ぐらいから(うつ)になりました。薬も処方されて飲んでいます。それで会議やミーティングの前には、気持ちを落ち着かせるためにハーブティーを飲むようにしています」

「鬱ですか……。お聞きし難いことですが、原因は仕事のストレスですか」

「………」

 澤木の無言は、三木には「そうです」という声のように聞こえた。

「そうですか。ところで、澤木さんのお宅には、農薬は置いてありますか。草木の殺虫用の農薬ですが」

「はい、プランターの花用の農薬があります」

 三木は、確認のために澤木の自宅に刑事が訪問することを告げて、協力を依頼した。

「私が農薬を入れたと、疑われているんですね」澤木は淡々としていた。

「率直に申し上げますが、あなたが給湯場から出た後、次に給湯場に入った山元さんが飲んだコーヒーが農薬入りだったことから考えると、あなたに混入した疑いを向けざるを得ない状況です」

「私の後に山元君……。私とすれ違いでしたが……、まだコーヒーが……」

澤木は考え込んだ。そして

「コーヒーはまだ出来ていなかった筈です」静かに言った。

 澤木の言葉に、三木は身を乗り出した。

「それは本当ですか。山元さんは、コーヒーが完全に淹れ終わるまでに一度給湯場に行っていたということですか」

「私と入れ違いに給湯場に入ったとしたら、コーヒーは淹れ終わってはいませんでした」

澤木の抑揚のない口調は変わらなかった。


 立川中央署に戻った三木は、課長の中野とともに班の刑事たちと捜査状況の確認をした。

「係長の考える犯人(ほし)は、第一が澤木、次が井上由香、三番目に山元の三人。状況的にコーヒーに農薬を混入出来るのがこの三人ということでは分かるが、それぞれに動機はあるのか。特に山元は被害者の一人でもあるぞ」中野は腕を組んだ。

「澤木の動機は、(うつ)病になるほどのストレスを与えられた営業所への嫌がらせとも考えられます。あとの二人は現時点では、まだ分かりませんが、石黒のロッカーにプラスチック容器を置いた人間が犯人だとすれば、石黒への恨みが動機ということになります」

「農薬入りコーヒーを飲まなかった、石黒と河出、それと外部の人間の可能性は無いと考えて良いということか」

「はい、そう思っています」

「しかし、入院中の所長の北山の容態が相変わらず悪いようだ。軽症で済んでいる五人と何が違ったのか、飲んだ量が多かったのか疑問だ。同じコーヒーなのに、そんなに個人差が出るものなのか、担当の医師や薬物の専門家に聞いておくべきじゃないか」中野は首を捻りながら三木に顔を向けた。

「私もそこは疑問に思っています。聞いてみます」

三木は手帳にそのことをメモした。

「澤木は任意で聴取するのか?」中野は腕を組んだままだった。

「物的証拠が一つでも出てくれば……。まずは、自宅にあると言っている農薬を調べて同じ成分だったら、任意で引っ張ることにします」

 しかし、三木には確信が持てなかった。状況的には、確かに澤木が一番の容疑者ではあるが、聴取した三木の感覚では、犯人の臭いはしてこなかった。果たして、自宅の農薬の成分は一致するのだろうか。



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