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ジェラシー(2)

 十月二日、朝、ホープ製薬立川営業所と同じビルの七階に入っている東亜製薬立川営業所の所長の甲賀が、ホープ製薬の北山を訪ねた。

 それは、東亜製薬の国松が、ホープ製薬の石黒の車に傷をつけたことへの詫びの為だった。

 甲賀は、『御詫び』と書かれた菓子包みを北山に手渡し、詫びを告げると、出されたお茶にも手を付けずにホープ製薬を辞去した。

 甲賀は、ドアを出てエレベーターホールに向かうと、後から女性の声に呼び止められた。

「甲賀さん」の声に、甲賀は振り返った。

「……恵奈ちゃんか」と顔をほころばせた。

 声を掛けたのは浜崎恵奈だった。

「京都には帰ったの?」

「はい、八月のお盆に父のお墓参りに帰省しました」

「そう、お母さんは元気でしたか」

「はい、お陰様で母も元気です。仕事も頑張っているみたいです。ありがとうございます。甲賀さんはお元気ですか?大変な事が起こってしまったようですが……」

「その件で、お詫びにお邪魔した訳なんだ。いろいろ迷惑をかけて本当に申し訳ないやら、情けないやらで、恥ずかしいよ。立川営業所の責任者として責任を取らないといかんと思っているんだ」

「責任取るって……」

「辞めるつもりはないんやけどね……。また連絡するよ」

「そうですか……。また山登りに連れて行ってください。楽しみにしています」

 甲賀は頷き、小さく手を挙げて、エレベーターに乗り込んだ。


 浜崎恵奈の父、浜崎達也は、東亜製薬の京都支店の所長として勤務していたが、八年前、趣味の登山中の滑落事故で急死した。恵奈が高校二年生十七歳の時のことだった。

 甲賀は、浜崎達也の一年後輩で、同じ京都支店の滋賀県の所長として勤務していた。入社以来浜崎達也には世話になり、浜崎家にも何度も訪れて食事の世話にもなる関係だったことから、娘の恵奈とも小学生の頃からの知り合いだった。達也の死去後は、事あるごとに相談に乗ったりするとともに、近隣の山への登山に恵奈を連れて行ったりしていた。恵奈の就職活動の際は、父親、そして自分と同じ東亜製薬のMRを希望した恵奈に、太陽薬品を勧めたのも甲賀だった。恵奈は、甲賀に勧められた太陽薬品に入社が叶ったが、その年、太陽薬品はホープ製薬との合併を受けたことにより、恵奈はホープ製薬のMRとなっていた。

 その後甲賀は、京都支店から名古屋支店を経て、今年の四月に東京支店立川営業所の所長として異動して来たのだった。甲賀が京都を離れてからは、二人が顔を会わすことは数年に一度程度だったが、甲賀が立川営業所の所長として赴任してきてからは、二人は二度食事を一緒にしていた。


 ホープ製薬立川営業所の決起会は、北山が指定した割烹料理屋で行われた。

「このお店は、所長の指定なんですよね」福永弥生が石黒に小声で訊いた。

「そうだよ」

「高そうなお店ですよね」今度は、浜崎恵奈が呟いた。

「チェーンの居酒屋のような値段じゃないけど、会社の補助金も使うから、あの程度の参加費でやれるんだよ」

「安い居酒屋で十分なのに……」

「そうよね。そうしてくれれば補助金だけで、参加費ゼロで済んだのに。共働き世帯の主婦にとっては、無駄な出費なのよ。特に会社の飲み会のお金はね」

「まあ、そう言うなよ。みんな来たくて来る訳じゃないのは分かっているけど、幹事は辛いんだよ」

 石黒は言いながら、案内された部屋に入った。

部屋は、十人が五人ずつ向い合せに座るように準備されていた。

着席場所は、山元が指示して決めていた。上座の北山の隣には、事務員の井上由香が座り、向かい合うことになる席には、浜崎恵奈と福永弥生が座って、北山を女性三人が囲む形になっていた。幹事の石黒は、末席に座り、その横には澤木が着席した。

北山の乾杯で始まった決起会は、石黒の想像通り盛り上がることもなく、静かに流れた。このまま何事も無く静かに終わることを、ただただ願う石黒だったが、横に座った石黒とは話をしてみたかった。それは以前、河出が営業所会議の後、言っていた言葉が気になっていたせいだった。

石黒は、澤木に仕事の話をするつもりは無く、子供の話で酔いを進めた。

澤木の家族構成は、石黒と同じ四人家族で、上が女の子、下が男の子という順も同じだった。ただ、石黒の子供二人は小学生なのに対して、澤木の長女は今年成人式を終えた大学生、長男が再来年大学受験を控える高校生ということだった。

「僕のところは、二人ともまだ小学生なので、お金はかかりませんが、澤木さんのところは、一番お金がかかる時期ですね」

「そうなんです。息子が大学を卒業するまでのあと六年間は、何とか辛抱です。頑張らないといけないんです」

澤木は自嘲気味な笑みを浮かべた。

 二人は、ビールから冷酒に変えて相酌した。

「石黒君は頑張っているよ」澤木がポツリと独り言のように言ったが、石黒にはその言葉ははっきりと聞こえた。

「ありがとうございます」と、石黒が、横に座る澤木に顔を向けると、澤木の目からは涙が(こぼ)れていた。

「澤木さん……」石黒は呟くように呼びかけた。そして周囲に目をやった。誰も澤木の涙に気付いてはいないようだった。

 石黒は、澤木の涙の意味を考えない訳にはいかなかった。悔し涙なのだろうか、それとも家族への想いが込み上げてきたのだろうか、と。

 暫くすると、席を立った福永弥生が、石黒の横で立ち止まり、耳元で囁いた。

「所長が、井上さんにセクハラしていますよ。私と席を替わって所長に注意した方が良いですよ」

「なんで俺が……」と、石黒は離れた席の北山を見た。

 隣に座っている澤木に聞こえたのか、「私が行きましょうか…」と、立ち上がろうとした。

「いや、澤木さんはここに居て下さい。僕が行きます」

澤木の思いもよらない言葉に、石黒は一瞬慌てた。ここで、澤木を北山と対峙させたら何が起きるか、と考えると酔いも醒めた。

石黒は立ち上がって、福永弥生が座っていた席に移動した。

「……なんで石黒がそこに座るんだ。そこは福永の席だぞ」

北山は、赤ら顔で機嫌よさそうに冷酒を飲んでいた。

「福永さんが、澤木さんと話を話がしたいから換わって欲しいと頼まれたんです」

石黒は、咄嗟に言うと、冷酒を北山に勧めた。

「そうか、俺より澤木と話がしたいのか。まあ、それは良い。それより石黒、お前は井上由香ちゃんに彼氏はいると思うか?聞いても、いるともいないとも教えてくれない」

「所長、それを聞いてどうするつもりなんですか。そんなこと無理に聞くのはセクハラですよ。

石黒は、酔った男が、興奮しないように、静かな口調で声を押えて言ったつもりだった。

「セクハラ?浜崎は、彼氏はいると教えてくれたぞ。そんなこと聞くだけで、何でセクハラなんだ、石黒」

北山の酔った目が、石黒を睨みつけた。

 ここで引き下がると絡まれると思った石黒は、静かな口調で続けた。

「所長も答えたくない質問をしつこくされたら嫌でしょう。それをハラスメントと言うんです。井上さんに訴えられますよ」

 北山に言うと、石黒は、固まった笑みを浮かべて、二人のやり取りを聞いていた井上由香を見た。そして、「訴えますよね、井上さん」と微笑みかけた。

「………」井上由香は、黙って笑みを浮かべるだけだった。

 井上由香の向こう隣に座っている河出が、石黒を見てこっくりと頷いていた。


 六時半に始まった決起会が、八時を過ぎた頃、石黒の携帯が鳴った。画面の表示は立川市内を示す固定電話の番号だった。

 部屋を出て携帯電話を耳に当てた石黒は、その話に瞬時に酔いが醒める思いだった。

 電話の相手は、立川駅南口の居酒屋の店長だと言った。その店長の用件は、今日の十九時からの予約を十名で、ホープ製薬石黒様の名前で受けているが、一時間以上経っても来られないので電話をさせてもらったが、どうなっているのか、という内容だった。そのチェーンの居酒屋は石黒も知っているチェーン店だったが、立川駅南口の店には行ったことはなかった。その店の店長の話は、石黒には全く身に覚えの無い話であり、何がどうなっているのか混乱するばかりだった。石黒が念のために予約していた居酒屋は、北口であり、しかもその店は、北山が指定したこの料理屋が取れた時に、直ぐにキャンセルの電話を入れた。それ以外に予約をした店は絶対に無い。

 石黒は、正直に現状を説明し、キャンセルを伝えたが、店長は用意した十人分の料理の代金は請求すると言った。石黒は、明日改めて連絡するとだけ言い、電話を切った。


 翌朝、営業所に出社した石黒は、昨夜の立川駅南口の居酒屋からの電話の話を北山に伝え、所員全員から確認をすることの了承を得た。

 全員からの確認が取れたのは昼過ぎだった。誰もが、そんな予約をした覚えは無いと答えた。そして、「石黒が仮押さえの店をキャンセルし忘れたんだ」「他社の嫌がらせだろう」「その店のでっち上げで、キャンセル料稼ぎじゃないのか」などの無責任な言葉を石黒にぶつけた。「酷いことをする人がいるんですね。皆で割り勘ですね」と言ったのは、福永弥生一人だけだった。

 所長の北山はこう言った。

「石黒、営業所の中でのこれ以上の犯人捜しはやめよう。雰囲気が悪くなる」と。

 石黒は、北山からの言葉に、営業所の雰囲気を悪くしているのは所長の『あんた』だよ、と言いかけて止めた。

「……そうですね」

「俺とお前の二人で払ってもいいが……」北山の語尾が口ごもった。

 石黒は、口ごもった北山が言いたいことの察しは付いた。

「事情はどうであれ、責任は幹事の僕にありますから、所長は払わなくて結構です。五万円は僕一人で払います」

「そうか、分かった」

 北山の言葉に、躊躇いはないように感じた石黒は、釈然としない思いだった。

 

その日の夕方、石黒は、立川駅南口の居酒屋に電話を入れた。

石黒は、無断キャンセルの料金は支払うことを伝えた上で、予約の申し込みがいつあったのか訊いた。

「九月十六日土曜日でした。ホープ製薬の石黒勇樹の名前で十月二日の月曜日夜七時に十名という予約でした」

「そうですか……。連絡先は、今私がかけている携帯の電話番号ですか?」

「うちの電話は、ディスプレイ表示がないので、それは分かりませんが、最初の予約の時の連絡先は、042で始まる立川市内の電話番号でした。その後、一週間前ぐらいに確認の連絡があって、その時に携帯の番号に連絡先が変更になったんですが……、予約をしたのは、石黒さんあなたではないんですか」

「違います。誰かが私の名前を使って予約したようですが、私には何の連絡も無かったので、キャンセルしようにも出来なかったんです」

「そうですか……」店長はキャンセル料はいらないとは言わなかった。


 一体、誰がこんな嫌がらせをしたのか、石黒は考えない訳にはいかなかった。十月二日の決起会の予定を知っていたのは、立川営業所の人間全員だが、営業所以外の人間でも知っていた人間はいただろうと思う。家族、友人、もしかしたら他社のMRの中にも知っていた人間がいた可能性もあるだろう。しかし、悪ふざけにしろ、嫌がらせにしろ、石黒勇樹の名前を使う以上、自分に何らかの関りのある人間の筈だ。

 数日後、石黒宛に居酒屋からのキャンセル料の請求書が届いた。



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