第二話 ジェラシー(1)
石黒勇樹は、営業所の会議が終わると、フリーデスクの端に座り、やるせない気分で溜息を吐いた。
会議はここ数カ月間、所長の北山が、部下のMRたちに、パワハラまがいの言葉で威圧して終わることが続いている。中でも営業所で最年長の澤木と、最も若い河出への圧力のかけ方は、聞いている石黒を、毎回のように嫌な気分にさせたが、期末を向えた九月の今日の会議は、それが酷かった。
ホープ製薬東京支店立川営業所は、所長の北山伸夫の他、八人のMRと女性事務員一人の合計十人が所属していた。
八人のMRの中の最年長は四十六歳の澤木圭一、最も若い河出優策は二十四歳だった。女性MRは既婚者の福永弥生と独身の浜崎恵奈の二人で、MR八人の平均年齢三十一・五歳という、ホープ製薬のMRの平均年齢三十六・五歳より五歳も若い営業所だった。
「河出君、私たちはさ、伝えるべき情報をしっかり伝えるのが仕事、売り上げの事ばっかり言う所長の言うことなんか気にしなくていいから」
コーヒーメーカーで淹れたコーヒーの入ったカップを手に、フリーデスクに座る河出の向かい側に座った福永弥生が、河出優策に声を掛けた。
その声は、隣の石黒にははっきり聞こえた。所長の北山に聞こえたのかどうか気になったが、その様子からは窺えなかった。
午前十時から始まった営業所の会議は、上期の締め月の九月になっても、営業所の目標に遠く及ばない状況に、所長の北山はいつも以上に苛立っていた。
web説明会、リモート説明会の実施回数は、営業所の目標回数の八割にも満たず、そして北山が最も重視する売り上げ実績に至っては、東京支店の十営業所中最悪で、目標数字の90%にも届きそうになかった。結果として、ホープ製薬の最重点目標である地域シェア率は前年比マイナスとなることは確実で、北山の苛立ちは最高潮だった。
北山が、立川営業所の所長として着任して一年になるが、前期に続きこのままでは連続して支店最下位の成績になることは明らかで、前期以上に成績不振者への北山の風当たりはきつかった。中でも、北山が異常なほど固執する売り上げ実績が伸びないMRへの風当たりは、会議室の空気を澱ませ、重苦しくさせていた。
「澤木、売り上げが悪いだけじゃなくて、説明会の回数も目標の半分にも届かない状況を、どう思っているんだ。営業所の足を引っ張っていることは、分かっているんだろう。どうなんだ」
北山の苛立った言い方に、その場の雰囲気は黒い霧が一面にかかったように暗く、重くなり、全員が下を向いた。
「………」澤木圭一は、下を向いたまま黙った。
「せめて、迷惑を掛けて申し訳ないと思っているんなら、詫びでも言ったらどうだ」
「……すみません」と澤木は力なく答えた。
それは、その言葉を発しないとその場が収まらないと、追い詰められた澤木の屈辱の言葉だと石黒は思った。
石黒はその場から離れたかった。いや、逃げたかった。目を背けようとする自分が嫌な男に思えた。しかし、それ以上に、北山に腹が立った。一家を背負って頑張っている澤木に、父親として家族を守って精一杯頑張っている、澤木という人間に対するリスペクトを全く感じない言葉、その言い方に腹が立った。
北山の次の矛先は、河出に向かう。
「河出、説明会の回数は営業所トップなのは良いが、それで何故売り上げが悪いのか、売り上げがついてこないのは何故なのか、何のための説明会なのか分かっているのか。河出の給料も売り上げから出ているんだぞ。分かっているのか」
「はい……」河出は北山の言葉に顔を上げて答えた。
そう答えるしかないと、石黒は澤木の時と同じだと。
「所長、僕のプラスになる売り上げで、少しはカバー出来る筈ですが」
石黒は、腹立たしさと、いたたまれない気持ちで、思わず口を挿んだ。
「……、石黒のプラスになるというのは、北多摩総合病院に納入されたバイオシミラーの事か。確かに計算外の売り上げだが、それでカバー出来るような数字じゃない。澤木も、河出もコミットしたことはやってくれ。営業所に迷惑を掛けるな」
命令口調の北山の言葉は、空気を一層重苦しいものにした。澤木も河出も、所員全員が俯いた。石黒は、自分が口を挿んだことを後悔した。カバー出来るなどと言ったばかりに、澤木にも河出にも一層辛い立場に立たせたのではないかと。
会議が終わり、福永弥生が河出に声を掛けた。そこに、浜崎恵奈が両手にコーヒーカップを持って、福永弥生の横に座り、カップの一つを河出に「どうぞ」と渡した。
「今日もパワハラですね」と福永弥生に呟くように言った。それは、石黒の耳にも届いた。
福永弥生は、それには何も反応せずに隣の石黒に顔を向けた。
「石黒さんの発言が、火に油だったんじゃないですか?山元さんなんかは(いい恰好して余分なことを言うな)って怒っていましたよ」
福永弥生の言葉が、石黒の後悔の気持ちに、さらに後悔を上乗せさせた。
「……余分なことを言ったと思っているよ」
そう口にすると少しは気分が楽になったような気がした。そう言えば、北多摩総合病院の駐車場の事件の時も、空木と云う探偵に、東亜製薬の国松の話をした時も、恨まれているかも知れないと話したことで、少し気分がすっきりしたことを石黒は思い出した。その国松は、自分の車に傷をつけた上に、人を殺してしまったが。
「山元さんは、石黒さんのことをライバル視していますね」
「ライバル?俺の方が年下なのに?」
「年齢は関係ないんじゃないですか、というか年下だからライバルと思っているかも。見たら分かりますよ、石黒さんのバイオシミラーの採用のこともラッキーなだけだったって言っているでしょ。それに山元さん、今年もまた昇格試験だめだったみたいじゃないですか。石黒さんは今年受けたんでしょ。どうだったんですか?」
福永弥生の話が、河出と浜崎に聞こえたのか、二人も石黒に視線を向けた。
山元信明は、石黒より二歳年上の三十六歳、一年前に都内の営業所から立川営業所に異動となった。
昇格試験とは、三年前ホープ製薬が太陽薬品と合併した時からスタートした制度で、社員の公正、公平な昇級昇格を目的にした試験制度だった。その試験は、所長代理、所長、部長への昇格資格を得るためには避けられなかったが、山元は所長代理試験を二年連続して不合格となり、石黒は今年受けた一回目の試験で合格していた。
「俺のことはどうでもいいから、河出の心配をしてあげなよ」
「僕のことなら大丈夫です。心配ご無用です」
「そうか。俺たちの仕事はMRとして信頼されることが一番だからな。売り上げはその後に付いてくるよ」
「分かっています。それより僕のことより澤木さんが心配ですね。ここ数カ月、澤木さんに話しかけても無反応なことが多いんです。大丈夫ですかね」
「………」
河出の意外な言葉に、三人は黙ってしまった。石黒は、河出という若者は、ノー天気なのか、自分のことより人への気遣いに思いを馳せる、稀に見る優しい人間なのか、どちらなのかと不思議なものを見る目で河出を見た。
「河出、何時になったら仕事に出かけるんだ」少し離れた机から所長の北山が、声を荒げた。
それは、河出だけに向けて言っているのではないことは、石黒たちにも分かった。石黒たち四人の他のMRは、会議が終わると直ぐに営業所を出て行った。今は、北山と石黒たちの他は、事務員の井上由香が残っていた。営業所を出ることが、イコール医療機関に仕事に向かったことを示している訳ではないことは、所長の北山、事務員の井上由香も含め、全員が分かっていたが、営業所に居ることはイコール仕事をしていないことと同義だと、北山が思っている以上、MRたちにとって営業所の居心地は最悪だった。
四人が立ち上がると、「石黒」と北山が呼び止めた。
「十月二日の決起会の幹事は、石黒だったな。店の予約は取れたのか」
北山は、振り返った石黒に訊いた。
決起会とは、所長の北山が企画した、営業所の全員が参加する飲み会のことだったが、事務員の井上由香も含め、北山以外の誰も乗り気な所員はいなかった。しかし、来期こそ皆で一丸となって、営業所目標を達成するための飲み会を、決起会と称してやろう、という北山の古めかしい主旨に、誰一人、面と向かって反対は出来なかった。
「所長の指定した料理屋の十人部屋がブッキングしていて、調整待ちなので、別に一軒予約を取っています。二、三日中には連絡がくると思います」
「そうか、分かった。決まったら全員に連絡してくれ」
「はい、分かりました」
石黒は返事をして、三人と一緒に営業所を出た。
「決起会か……」石黒は思わず呟いた。
「何の決起会になるんでしょうね」石黒の呟きに、福永弥生が応えるように呟いた。




