モンスターペイシェント(2)
数日後、空木は小平市御幸町の都立小金井公園に、ほど近い辺りにいた。
車が傷つけられた翌日、空木は再び北多摩総合病院の消化器外来を訪れ、土田の対応をした看護師と面会し、昨日の病院駐車場での事件の疑念をはっきりさせるために、土田の住所を教えて欲しいと頼んだ。看護師は、個人情報だからと、一旦は拒んだが、昨日の空木の助け舟に感謝してか、こっそりと土田の住所をメモ書きで渡してくれた。
空木は、土田に面と向かって問い質すつもりは毛頭なかったが、偶然を装って顔を会わせてみたかった。自分の顔を、土田が記憶しているかどうかを確かめてみたかった。あの外来でのやり取りを根に持って、嫌がらせで事件が起こったとしたら、自分の顔を覚えているのではないか、と考えたのだった。
『土田嘉英』の表札のかかる家を見つけるのにさほどの時間はかからなかった。
その表札のかかる玄関ドアの周りには、ゴミが入ったビニール袋が無造作にいくつも置かれ、(指定の袋で出してください)という貼り紙が何枚も貼られていた。
妻や家族はいないのだろうか、ゴミ出しに神経を使っている自分と同じ、一人暮らしのようだと空木には思えた。
駐車場の車は、何カ月も洗車された様子が感じられないほど汚れていたが、フロントガラスのワイパーの動いた跡からすると、全く乗っていない訳では無さそうだった。(この車で病院に来たのか)と空木はカメラに収めた。その時、玄関が開く気配を感じた空木は、土田の家を離れ、数軒先の道路の角で、様子を窺った。
土田嘉英が出てきた。ジーンズにチェック柄の長袖の山シャツ風のものを着て、手にはスーパーのレジ袋のような袋を下げていた。まだまだ残暑が厳しいこの時期に長袖を着ている土田を見て、空木は(そう言えば病院でも長袖だったな)と思い出していた。
土田は、空木のいる方向に向かって歩いて来た。空木は「よし」と小さく声を出して、土田に向かってゆっくり歩き始め、土田が目を合わせるまで、その顔から目を逸らさなかった。
九月初旬の陽ざしはまだ強く、空木にとっては真正面となるその陽ざしは眩しく、逆光の土田の顔は輪郭だけしか見えなくなったが、土田からは空木の顔はくっきりと見えている筈だ、と思いながら近づいた。土田が空木の視線を感じたのか、空木を見たように思えた。その瞬間土田が微かに首を捻ったように空木には見えた。微妙な反応だった。思い出したのか、それともこの辺りでは見ない怪しい男だと思ったのか。
すれ違った空木は、土田の後を少し離れてついて行って見ることにした。
土田の歩くスピードは、速かった。意識して速歩で歩いているようにも思えた。東に向かって歩き始めた土田は、小金井街道と呼ばれる都道を渡り、都立の小金井公園に入って行った。
小金井公園の広さは、およそ80ヘクタール、周囲4キロメートルの公園を一周するにはおよそ一時間かかる広さだ。
公園の西口から入った土田は、江戸東京たてもの園の前を東に向かって歩き、公園の北から東南へ向かい、やっと入ってきた方向の西に向かった。手に下げたビニール袋の中に、何が入っているのか分からないが、土田は中から取り出す様子はなかった。犬を連れての散歩なら散歩グッズだと想像できるが、土田は、犬は連れていなかった。
土田は、真っ直ぐ西口には向かわず、SL機関車が置かれている方向に歩いて行った。そして付近の住民たちの為と思われる、小さな出入口の手前まで行くと、手に提げたビニール袋から、白い液体が入ったように見えるペットボトルを、白い使い捨ての紙皿と一緒に取り出し、そこに白い液体を注いだ。
土田は周りを見廻していた。空木には何かを捜しているように見えた。暫くすると、数匹の猫が現れた。どこから現れたのか茶トラの猫が三匹現れ、土田が注いだ白い液体を赤い小さな舌を使って飲み始めた。野良猫だろうか、首輪の類は着けてはいない。あの白い液体は、多分牛乳だろうと思いながら空木は眺めた。
病院ではモンスターペイシェントだった男が、野良猫にミルクを与えている。空木は土田の思わぬ一面を見た思いだった。土田が五台の車を傷つけた犯人なのだろうか、もしそうだとしたら、二面性の性格を持つ人間なのか、それとも切れやすい人間なのか、と考える空木だった。
その日の夜空木は、『平寿司』と染められた暖簾をくぐった。
『平寿司』は、JR国立駅の北口から歩いて五分、空木が自宅兼事務所に帰る途中の、真っ直ぐ帰る事を躊躇わせる場所にあった。その店は、平沼という夫婦が男女の従業員二人とともに切り盛りしている寿司屋で、空木の趣味である山登りの後の一杯を楽しむ店でもあったが、今日は、考え事の為に暖簾をくぐっていた。
引き戸を開けて店に入ると、「いらっしゃいませ」の女将と女性従業員の坂井良子の声に迎えられ、カウンター席に座った。
ビールとともに、鉄火巻きと烏賊刺しを注文し、運ばれて来たビールを飲み始めた時、店の引き戸が開き、一人の男性客が入って来た。その客は、空木を見ると、「おっ、健ちゃん、久し振りだな」と声を上げた。
「巌ちゃんこそ、ここに来るのは久し振りだろう」と空木が応じたのは、石山田巌という空木とは国分寺東高校の同級生だった。
石山田は、中学生の娘を持つ妻帯者で、職業は国分寺警察署の刑事課係長の肩書を持つ現職の刑事だった。
「巌ちゃんが、この時間にここに来るということは、国分寺警察署管内は平穏無事ということだな」
「何も事件が無い訳じゃないけど、大きな事件が無いのはありがたいよ。そっちはどうなの?忙しいのかい」
石山田は、運ばれて来たビールをグラスに注ぎ、空木のグラスと合わせた。
「忙しくはないけど、面白くない事件というか、腹の立つ出来事があったよ」
空木はいかにも不機嫌そうな言い方で返した。
「面白くない事件?」
石山田の怪訝そうな顔をしての問いに、空木は、北多摩総合病院に付き添いの仕事で行った際の、駐車場で起こった出来事の話をした。
「……健ちゃんを恨んでなのか、世の中を恨んでなのか分からないが、他人を困らせて楽しんだりして鬱憤を晴らす奴がいるんだよ。そういう類の輩を、俺たちが懲らしめなくちゃあいけないんだけどな……」
「駐車場に防犯カメラは無かったんだけど、警察は犯人捜しをしてくれているのかな?」
「目撃者はいるのか」
「今のところいない」
「器物損壊事件として所轄の地域課が調べているんだろうけど、他の事案との兼ね合いもある。人手が問題だな。健ちゃんは当事者なんだから、電話で捜査の具合を訊いてみたらどうだい。場合によっては、探偵なんだから自分で調べるのもありだろう」
「………」
警察に電話、という言葉を聞いて、空木の頭に被害者の一人である高倉明の「俺が警察に言う」という言葉を思い出した。しかし、自分で調べると言っても、今日様子を見てきた土田の他に、目撃情報も何もない中で、一体誰を、何を調べたら良いのか、空木は首を捻った。
「それは残念ながら難しいかも知れないな…」
空木様と書かれた芋焼酎のボトルで作った水割りを、自分と空木の前に置いた石山田が呟いた。
「個人的な恨みならともかく、鬱憤晴らしで無差別でやったとしたら、犯人を捜すのは難しいかも知れないな」
今度は空木に聞こえるように言うと、石山田は水割りを口に運んだ。
「個人的な恨みか……」今度は空木が呟いた。




