第一話 モンスターペイシェント(1)
北多摩総合病院は、南を東京都立川市、西を東大和市に接して、東京多摩地区を東西に流れる玉川上水近くに位置する、ベッド数250床の地域を支える医療施設の一つだった。
北多摩総合病院の内科外来は、曜日ごとに専門外来が設けられ、今日火曜日の午後は、消化器外来とリウマチ外来の診療時間となっていた。
静川陽子七十七歳は、付き添いの男とともに、リウマチ外来の待合椅子に座り、月に一度の診察と、点滴治療の順番を待っていた。
「ねえ、あなた毎月私の付き添いをしてくれるけど、これで食べていけるの?」
静川陽子は、横に座る白い半袖のポロシャツを着た男に訊いた。
陽子の声は、耳が遠い所為もあってか大きな声だった。
その男は、周りに目を配りながら答えた。
「静川さん、ここに来るたびに同じ事を訊かないで下さい。周りに聞こえたら恥ずかしいですから。私の仕事は、静川さんの付き添いだけじゃないですから心配ご無用です」
男は、陽子に聞こえるように耳元に顔を近づけて話した。
「そうなの、聞いたかしら。でも付き添い以外にもお仕事しているの?」
今日の陽子は、なぜかいつもよりしつこいな、とその男は思った。
「ペット探しも頼まれますし、探偵ですから人探しの仕事とか、調査の仕事も頼まれますから何とか食べていけますよ」
男は、陽子の耳元でそう言うと、顔を離してニコッと笑った。
「ペット探しもするのね、それは良いわね。今度お願いするわ」
「あれ、静川さんペット飼っていました?」
「私じゃないの。友達なのよ、また連絡するわ」
陽子が話し終わるのと同時に、隣の消化器外来の中から大きな声が聞こえてきた。
「紹介状を持って来ているのに、待たされた挙句今までと同じ薬しか出せないっていうのは、おかしいんじゃないですか、先生。何の為にわざわざこんな遠くの病院に来たのか分からないじゃないか」
声のする消化器外来の方向に、陽子も白い半袖ポロシャツの男も顔を向けた。その声は耳の遠い陽子にも聞こえる程の、男の声だった。
消化器外来から出てきた六十過ぎと思えるその男は、出て来てもなお看護師に噛みついた。
聞き耳を立てる陽子たちに聞こえてきたその男の言い分はこうだった。
今まで罹っていた医院で以前に胃カメラをしているのに、何故またこの病院でやらなければならないのか。そうしないと新しい薬は出せないというのは納得いかない。検査で金儲けをしようとする悪徳病院だ。しかもその胃カメラは予約が立て込んでいて二週間も先というのは患者不在も甚だしい。明日来るから明日やれ、明日やって新しい薬を出せ、だった。そして最後にまた、この病院は金儲けしか考えない病院だ、この病院のことを言いふらしてやる、と悪態をついた。
「土田さん、患者さんは土田さんだけではないんです。大きな声を出すのは止めて下さい」
五十歳近いと思われる看護師が、毅然として土田と呼ばれる男を諫めた。
その男は、待合の椅子に座っている他の患者たちを見廻した。
「俺のような、初めてきた患者なんかどうでもいいという事なんだな」
「そんな事は言っていません。静かにお話しして下さいとお願いしているんです」
二人のやり取りを見ていた陽子が、眉間に皺を寄せて、隣の付き添いの男に言った。
「あなた探偵なら何とかしなさいよ。看護師さんが困っているじゃない」と
「探偵だから、というのは関係ないですよ」
陽子の隣の男はそう言いながら、立ち上がって消化器外来の前に立っている二人に近付いて行った。
「すみませんが、あなたの大声に母がびっくりして怖がってしまっています。母に何かあったらあなた、責任取っていただけるんですか。静かにしてください」
男はそう言うと、隣の外来にいる静川陽子を手で指した。そして土田と呼ばれる男を睨みつけた。
土田は、自分よりもかなり若い男の出現に一瞬たじろぎ、黙った。
看護師は「すみません」と頭を下げた。
「土田さん、胃カメラの予約を取りましょう」と看護師がなだめるように言った。
「予約……。もうこの病院には罹りたくないから結構だ」
土田はそう言うと、消化器外来からロビーへ向けて足早に歩いた。
土田の後ろ姿を見ていた看護師は、小さく溜息をついた。そして
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。お母さまは大丈夫ですか?」と心配そうに静川陽子に目を向けた。
「え、ああ大丈夫です」
探偵と呼ばれた男は、静川陽子の方を向いて片手を挙げた。そして看護師に顔を戻した。
「あの方は、いつもあんな感じなんですか?」
「土田さんですか?」
「ええ」
「土田さんは、初めての患者さんなんです。市内の開業医の先生からの紹介で来られたんですが……、そこでも問題があったらしいです」
「いわゆるモンスターですか」
モンスターという男の言葉に、看護師は溜息をつきながら診察室の中に戻って行った。
探偵と呼ばれた男も、陽子の座るリウマチ外来の前に戻った。
「あの男、帰ったわね。あなた、空木さんだったわね。よくやったじゃない」
陽子の声は、周りが顔を向けるほどに響いた。
「静川さん、声が大きいですよ」と空木と呼ばれた男は、恥ずかしそうに周りに目をやった。
その時、リウマチ外来のドア扉が開き、「静川さん、中にお入りください」という声が響いた。
空木健介四十五歳独身。四年前に勤めていた製薬会社を退職し、出身地の東京国分寺市で、自分の名前、空と木にちなんで「スカイツリー万相談探偵事務所」を開設した。事務所といっても、国分寺市光町の国分寺崖線と云われる高台に建つ、六階建てのマンションの四階の自分の部屋を事務所としているだけの、事務員も調査員もいない、一人で全てを熟さなければならない零細事務所だった。仕事は、今日のような高齢者の通院の付き添いや、行方が分からなくなったペット探し、不倫調査、素行調査などだったが、年金生活に入っている両親に頼る事も少なからず、の生活だった。そんな状況でも、趣味の登山と、適度なアルコール摂取は欠かすことはしなかった。
暫くすると、外来の扉が開いて、看護師が顔を出した。
「静川さんの付き添いの方、診察室に一緒に入っていただけますか?」と声が掛かった。
「えっ、私も入るんですか……」
驚いている空木に
「静川さんが、一緒に聞いて欲しいと言っているので入っていただけますか」と手招いた。
空木は「静川さんが……」と訝った顔で診察室に入った。
「あなた、昔、製薬会社に勤めていたって言っていたわよね。今この先生が、今使っているお薬から変えるって仰っているんだけど、あなたがどう思うか聞きたいの。今のお薬で調子が良いのに変えてどうなるのか心配なのよ」
陽子は医師に背を向けて、空木に不安げに話した。
空木は、陽子の突然の話に、担当医を前にどう答えて良いものか戸惑った。リウマチの専門医の目の前で、以前製薬会社にいたからといって、医師の勧める薬の変更に注文を付けられるものではない。逆に前職が、MRだからこそ言えない事もある、と空木は言葉を選んだ。
「……静川さん、先生が何故お薬を変えるのか、理由を説明してくれたでしょう」
「それが私にはよく分からないのよ。先生は同じ薬だって仰るんだけど、同じなら変える必要ないじゃない、と私は思うのよ」
陽子は医師を見た。空木も医師にどういうことでしょう、というように目を向けた。
「製薬会社にいた方ならお分かりだと思いますが、今静川さんに使っている薬は、生物学的製剤と言われる抗リウマチ薬ですが、この製剤にもジェネリック医薬品のように同じ効果で価格、つまり薬価がとても安い製剤があるのです。これをバイオシミラーと言うんですが、うちの病院では今後このバイオシミラーを使うことになったので、その説明を静川さんにしたという訳です」
医師は、空木に顔を向けていた。
「先生、それはどちらを使うかという選択ではないという事ですね。バイオシミラーに変更しますから承知してください、という意味ですね」
空木は、陽子の耳元に口を近づけて、陽子に聞こえるように話した。
「そういうことになります」
医師は申し訳なさそうに頷き、答えた。
「静川さん、今までのお薬と効果は変わらずに、医療費が少し安くなるかも知れません。先生の言う通りにしてみましょう」
「あなたがそう言うならいいわよ」
陽子の返事を聞いた空木は「先生、そういうことですので、今後も宜しくお願いします」と頭を下げ、診察室を出た。
空木が診察室を出て、静川陽子の点滴治療が終わるのを待ち始めて数分後、院内放送が掛かった。車のナンバーが次々に読み上げられ、駐車場に戻るように案内していた。再度、何台かの車のナンバーが読み上げられる中で、空木は「わ」ナンバーが読まれたことに気付いた。今日、空木はレンタカーで静川陽子の家に迎えに行き、この病院まで付き添って来ていたのだった。借りた車は、T社製の白いハイブリッド車だったことは記憶していたが、ナンバーまでは記憶になかった。空木はスマートキーを取り出し、そこに付けられている車のナンバーを見たが、院内放送は終わっていた。
空木は駐車場に行く事にした。レンタカーで病院に来ている患者がそんなにいるとは思えなかったからだ。
駐車場は、病院の建物の西側にあって、百台以上の駐車スペースがあり、さらに駐車場の西側には金網を隔てて小さな公園があった。
空木が車を停めた場所は、その小さな公園に隣接している駐車場の最も西側の列だったが、そこには何人もの人が集まっていた。制服姿の警官も来ていた。
空木がレンタカーに近付くと、病院の職員と名乗る背の高い若い男性が、寄って来た。
「この車はあなたのお車ですか?」と尋ねた。
その若い職員の首には、吉岡康史と書かれたプレートがぶら下がっていた。
「ええ」と空木は頷き、吉岡に名前を名乗った。そして、吉岡が視線を送っているボンネットを見て空木は言葉を失った。ボンネットと助手席側のフェンダーからドアにかけて釘か石か分からないが、硬い物でつけられたと思われる大きな傷が付けられていた。
「あなたの車を含めて五台の車が被害にあっています。警察を呼びました。酷い事をする人がいるもんです」
空木は、吉岡の言う五台の車の位置を目で追ってみた。
「この列の車だけが傷つけられているんですか」
自分の車から南側に駐車していた車三台、自分を含めて四台が被害にあっていた。
「あと一台は……」空木が呟くと、吉岡が北側へ数台離れたところに駐車している白い車を指差した。
一台だけ離れているのが空木には不思議だったが、吉岡の言う通り被害は五台だった。
「誰が何のためにこんな事をしたんでしょう。今までにもこんな事がありましたか」
空木は思わず吉岡に訊いた。
「いいえ、初めてです」
「防犯カメラはこの駐車場にはあるんでしょうか」
空木は、広い駐車場を見廻したが、それらしい物は見当たらなかった。
「ありません。警察にも聞かれましたが、駐車場の出口の精算機と玄関ロビー、それと夜間入口にはあるんですが、駐車場内には無いんです」
「目撃した人が出てこない限り犯人は分からないという事ですか」
「……そうなりますね」
空木は溜息を吐きながら、傷を付けられた車の被害者からの、被害届けの調書らしき物を書いている警察官に目をやった。
「病院の玄関辺りに、目撃した人がいなかったか、貼り紙していただけませんか。防犯カメラがあれば警察も調べられるかも知れませんが、無いとなると目撃者を捜すしかありませんから、やっていただけませんか」
「そうですね、そうします」吉岡はそう言って何度も頷いた。
傷つけられた車が、レンタカーだった空木にとっては、金銭的損害は無いものの、気分の悪さ、腹立ちは他の被害者たちと同じだ。出来る事なら犯人を見つけ出して、何故こんな事をしたのか訊きたいし、謝らせたい。器物損壊罪を償わせたい。とは言え、貼り紙で目撃者が出て来るとは限らない。ばかりか、目撃者が出てきたとしても、その犯人が誰なのか分かる保証もないのだが。
調書を作成していた警察官から、駐車場への入場時間を訊かれた空木は駐車券を見た。12:38と印字された時刻を読み上げた。
警察官は、吉岡に、五台の車に傷付けられた時間は、被害に遭った車の内、最も遅い入場だった車の入場時間と、最初に傷を発見した被害者から聞き取ったおよその時間から、犯行は午後一時五分から一時三十分の間に行われたと思う、と話した。それは空木の耳にも他の被害者にも聞こえた。
空木がリウマチ外来に戻ると、静川陽子は点滴治療が既に終わり、外来前の椅子に座っていた。
「駐車場で何かあったの?」陽子は心配そうに訊いた。
空木は、五台の車が何者かに酷く傷つけられ、自分たちが乗って来た車も、そのうちの一台だったと説明した。
「あら、酷い事をする人がいるのね。修理にお金がかかるでしょう。あなたお金は大丈夫なの?」
陽子の息子は、空木と同じ様な年齢で、大阪で暮らしていて年に一度、年末年始に東京の国分寺市西町に住む母、陽子に会いに帰って来るらしい。その息子と同じ様な年齢の、空木の心配をしているようだった。
「レンタカーですからお金の心配はいらないんです」空木は陽子の耳元で説明した。
「そう、それなら良かったわね。でも、誰がやったのかしら。……もしかしたら、あなたが注意したあの男がやったんじゃないかしら。あなたへの腹いせに、嫌がらせをしたのよ。きっとそうよ、許せない男ね」
「いやいや静川さん、私の車がどれで、何処にあるのか分からないのに、それは無理だと思いますよ」
そう言ったものの、空木は陽子の言葉の(あの男)が気になった。
「静川さん、玄関ロビーで少しだけ待っていてください」
空木はそう言うと、病院の事務部門室の場所を探した。
事務室に入ると空木は、吉岡という職員を呼び出してもらった。
空木は吉岡に、車を傷つけられた他の四人の名前と連絡先を教えて欲しいと頼んだ。吉岡は個人情報になるからと拒んだが、被害者間で情報交換が必要だという空木の説得に、吉岡は上司の了解を得た上で、四人の名前と連絡先を見せた。
その四人は、友人の見舞いに来たと言う山崎佳純、患者で来院していた高倉明、入院している母親の付き添いで来ていた末森伸子、そして仕事で来院していたホープ製薬のMRの石黒勇樹の四人だった。
四人の連絡先は、全て携帯電話だったが、石黒勇樹の連絡先には会社の電話番号も記載されていた。空木は全てを手帳に書き写した。
静川陽子を自宅に送った空木は、レンタカーを返却して国分寺崖線の上に建つマンションの自宅兼事務所に戻ると、手帳を取り出した。気になっている事を確認する為、電話をかけ始めた。
静川陽子の言うように、消化器外来でクレームを付けていたあの男が、注意をした自分に恨みを抱き、仮にレンタカーで来院している事を知っていたとしたら、「わ」ナンバーの車を探して傷をつける事は可能かも知れない。無関係の他の四台に傷をつけたのは、カモフラージュの為だったとも考えられるのではないか。
そう考えると、自分以外の四人にも各々に恨みを持たれるような覚えはなかったか、訊いてみたいと考えたのだが、同じ被害者の立場とは言え、突然見ず知らずの人間からそんな電話が架かってきたら、なんと失礼な事を訊く奴だ、と思われるだろうとも想像した。
しかし、もう一方で、もし自分への恨みで他の四人に迷惑をかけることになったとしたら、それはそれで辛く申し訳ない思いになり、犯人を捜し出さなければ、と思うのではないかとも想像した。
空木は、「被害に遭った私たち五人の為に」という言葉を用意して、携帯電話のボタンを押した。
姉の見舞いに来院した山崎佳純、母親の付き添いで来院した末森伸子はともに、病院で恨みを持たれるようなことは無いと思うと話した。
高倉明は、午後の消化器外来に患者として来院していた。高倉も病院に関係して恨まれるような覚えはないと話したが、空木をあの事に関わった人間だということを知らずに、こう付け加えた。
「そう言えば、外来で待っている時に、大声で訳の分からないクレームを言っている男がいた。別の男性に注意されて帰って行ったが、あの男が病院への嫌がらせでやったんじゃないか。きっとそうだ。俺が警察に言ってみることにする」と。
四人目の石黒は、病院の関係者や患者関係者に恨まれたりすることは無いと思うが、自分たち製薬会社のMRは、仕事柄ライバル会社というか競争相手が出来てしまうので、結果的に恨まれたり妬まれたりしているかも知れない、と話した。空木は、前職が万永製薬という中堅製薬会社のMRだっただけに、石黒の言わんとすることはよく理解出来る話だった。
四人との電話を終えた空木は、今日の消化器外来での場面を思い浮かべた。六十歳過ぎに
見えたあの男は、確か「土田」と呼ばれていた。




