第四話 挨拶状(1)
十一月二十六日、日曜日の朝、山梨県大月市梁川の桂川に架かる梁川大橋の直下の河原で、男の死体が発見された。
梁川大橋は、中央本線梁川駅から徒歩二分、国道20号線から折れてすぐの所にあり、梁川大橋を渡って徒歩十五分程で、秀麗富嶽十二景の一つの山、倉岳山への登山口に到着する。
死体を発見したのも、梁川駅から倉岳山への登山に来た、男女四人組の若いハイカーたちだった。
橋の中ほどに停まっている、大阪ナンバーの乗用車と、橋の欄干下に置かれた靴を不審に思い、橋の下を一人が覗くと、河原に倒れている男を発見し通報した。
頭部から大量の出血をしていたその男は、警察により死亡が確認された。
§
十一月に入って直ぐ、福永弥生に一通の葉書きが届いた。
それは、<ご挨拶>と大きく印刷されながらも、その後の文章は無く空白で、左端に十一月一日の日付、その下に氏名の代わりに匿名希望と印刷された、それは不気味な物だった。弥生は、もう一度宛名を見直したが、やはり自分宛てに間違いはなかった。
その夜、帰宅した夫の樹に、その葉書きを見せた。樹は、『気味が悪い』と言う弥生に、面白い挨拶状だと言いながら笑った後、笑い事では済まないという弥生の表情を見て、「差出人に心当たりはないのか」訊いた。
「………」弥生に心当たりがない訳ではなかった。
十月一日は自社のホープ製薬も含め、人事異動の時期であり、自社は勿論、他社のMRの友人も含め、何人かは十月一日付で異動している。しかし、文面が空白で、差出人に匿名希望などと印刷する友人知人がいるとは思えない。常軌を逸した挨拶状を出す人間がいるとしたら、先月までホープ製薬東京支店立川営業所の所長だった男、つまり自分の上司だった北山ではないか、と推測したが確証は何も無かった。
「文章も書いてなくて、差出人も書いてない挨拶状とはね。何のために弥生に送ってきた
んだろう。何か意味というか、目的があるんだろうか」
樹が、葉書きの宛名を確かめるように見て言った。
弥生も同じことを考えていた。誰が出した物であろうと、こんな不気味な挨拶状を出す以上、そこには間違いなく意図が隠されている筈だと。恨みなのか、憎しみなのか分からないが、決して感謝の気持ちが込められた物ではないことだけは確かだろう。目的は、単なる嫌がらせなのだろうか。部下に農薬を飲まされ、セクハラとパワハラで訴えられて降格させられた北山が、何故私に恨みを抱いているのか。考えられることは、内部通報したのは私だと思っているからではないか。北山が立川営業所の所員にしていたことは、明らかなハラスメントであり、私も決起会と称した宴会の席も含めて、事務員の女性へのセクハラは目の当たりにしている。私が通報した訳ではないが、そう思われても痛くも痒くもない。ただ北山のこのやり方は卑劣だ。
弥生は、自分の憶測だと言った上で、前所長の北山ではないかという推測を樹に話した。
「これこそ本社に通報したらどうだい」
「私の憶測だって言ったでしょ。憶測で、こんな挨拶状が来たけど、送り主は北山さんです、なんて言えないわ」
「じゃあどうする?このまま放っておくかい?」
「……無視することにします」
三連休の二日目の土曜日、マンション一階のメールボックスに下りた弥生は、エントランスに何枚も貼られた、A4サイズのビラを見て言葉を失い凍り付いた。
『503号室の福永弥生には気をつけろ!人の悪口を言いふらす女だ‼』と紙一杯に印刷されたビラが何枚も貼られていた。マンションの入口からエントランス、メールボックスに貼られたビラを、弥生は周囲を見廻して全て剥がし、部屋に持ち帰った。
顔を真っ赤にした弥生は、貼り紙を樹に見せた。
「こんなのがマンションの入口のあちこちに貼られていたわ。見て、酷いわよこれ」と悔しさを滲ませながら呻くように言った。
「酷いな。一体誰がこんなことをしたのか、警察に届けた方が良いんじゃないか」
樹はビラを手にして、眉間に皺を寄せた。
嫌がらせ以外の何物でもない。私をこのマンションに住めなくしようとしての貼り紙としか思えない。こんな陰険なことまで、あの北山がしたのだろうか。このマンションのエントランスには、警備会社の防犯カメラが備え付けられている。そのカメラに、北山が移っていれば、それが証明出来る。警察に届け出ればカメラでの確認が出来るだろう。
弥生は、樹とともに国分寺署に届け出た。
§
十一月四日土曜日の朝、立川市幸町の澤木圭一の家では騒動が起きた。
大学生の長女、澤木文香が、出かけようと自転車に乗ると、前輪がパンクしてペチャンコになっていた。それも、ナイフのような鋭利な物でザックリと切られてのパンクだった。さらに文香から、立川駅まで送って欲しいと頼まれた父の圭一が、車を出そうとすると、その車の左前輪のタイヤがパンクしていたのだった。そのタイヤも文香の自転車同様に、刃物のような物で切られていた。もしやと、圭一が息子の修太の自転車を見ると、同様に前輪が切られていた。
文香は、「気味が悪い。恐ろしい」と不安げに圭一を見た。
「酷いなー」家から出てきた修太は、自転車のタイヤを触った後、車の左前輪の横にしゃがみ込んだ。
「お父さん、警察に届けた方が良いんじゃないか」
「………」圭一は、起きていることが理解出来ていないかのように、呆然と眺めていた。
澤木圭一四十六歳は、ホープ製薬立川営業所のMRだったが、今年の三月に鬱病を発症し、抗うつ薬で治療を続けていた。三月の決算月に、成績の振るわない立川営業所の中で、所長の北山から執拗に成績不振を指摘され続けたことから発症し、中間決算月の九月にも、北山から成績不振をなじられ、症状は悪化していた。その北山が、突然ハラスメントの内部通報をきっかけに、降格処分を受け、異動して行った時、澤木は驚きと同時にホッとしたのだった。
一体誰が、一体何故、こんな嫌がらせをしたのか、我が家に何の恨みがあるというのか。澤木にとって家族は自分を支えてくれる大きな、そして大事な存在だ。その家族を不安にさせる何者かが、澤木は許せなかった。不気味さよりも怒りが膨れ上がっていた。
「修太、お父さんと一緒に近所の様子を見に行こう」
圭一は、冷静だった。まずこの嫌がらせが、我が家だけが受けたものなのか、近所の何軒かも受けているのか、確認するべきだと考えた。
二十軒以上確認しただろうか、パンクした車も自転車も見ることはなかった。
家に戻った圭一は、妻の寿美江と修太に、嫌がらせを受ける心当たりはないか訊いた。
二人とも心当たりはない上に、こんな恐ろしい嫌がらせをする人間は、自分たちの周りにはいないと言った。恐らく長女の文香も心当たりはないだろうと、妻の寿美江は圭一に顔を向けた。その表情は、あなたに心当たりはないのか、と言っていた。
圭一は、自分への嫌がらせなのだろうか、と自問した。ただのパンクではなく、鋭い刃物で切り裂かれたタイヤは、まるで自分を含めた家族への脅しのようだ。このまま放っておけば、家族に被害が出るかも知れない。圭一は立川中央署に被害届けを出した。
圭一の町内には防犯カメラは一つも設置されておらず、圭一の家にも勿論無かった。現場検証を済ませた警察は、圭一に防犯カメラの設置を勧めた。
警察の心当たりはないか、という質問に、無いと答えた圭一に、寿美江は警察が帰った後、一枚の葉書きを渡した。
「この挨拶状と関係していないのかしら……」寿美江は不安そうな表情を浮かべた。
それは、一昨日、圭一宛に届いていた、<ご挨拶>と大きく印刷されただけで文面は空白、日付と差出人に匿名希望と印刷されただけの葉書きだった。
「……俺なのか……」呟いた圭一だったが、人に恨まれるような覚えも記憶も無い。この葉書きをだした人間は、自分を恨んでこれを送ってきたのか。一体誰なのか、圭一の心に重たい物が覆いかぶさってきた。
§
浜崎恵奈が意味不明な挨拶状を手に取ったのは十一月二日三連休の前日、仕事から帰宅した夜六時半頃だった。
浜崎恵奈にとって、十月という月は、父が山の事故で亡くなった高校二年の十月と同様に、衝撃の十月だった。農薬の入ったコーヒーを、同じ会社の人間同士で飲ませ合い、同僚たちが警察に逮捕されてしまった。その事件の被害者だった所長が、ハラスメントで降格となり異動となった。加えてプライベートでは、雲取山で初めて知ることになった佐原が、その山中で死んだ。人生で一度遭遇するかどうかの出来事に、二度も遭遇した恵奈は、新任所長が着任した十一月一日をリスタートの日と感じていた。しかし、<ご挨拶>とだけ印刷され、匿名希望の差出人からの葉書きは、再び嫌な気持ちに引き戻すのには十分だった。
恵奈は、誰が何の為にこんな挨拶状を送ってきたのか、という薄気味悪さ以上に、自分を嫌な気持ちに引き戻す葉書きを送ってきた、匿名希望などとふざけた差出人への腹立たしさが勝った。差出人の正体を暴いてやりたいと、真剣に思った。父の死の原因を作った佐原に抱いた感情よりも、さらに強い憎しみが恵奈に湧き上がってきた。
翌日、三連休の初日の朝、恵奈の携帯電話が鳴った。スマホの画面には、電話番号は表示されず、非通知と表示されていた。恵奈は首を傾げながらも、通話ボタンを押した。
「もしもし……」恵奈は警戒して、名前は名乗ることなく、相手の名前を待った。
「…………」
「もしもし……どなたですか?」
「…………」
電話は切られた。
同じ無言の電話は、一時間後にまた恵奈の携帯に架かって来た。それは、東村優平と待ち合わせの、午後一時までの間に、一時間おきに架かった。
東村優平は、恵奈とは京都の大学時代からの友人で、恵奈と同じ製薬業界に就職し、恵奈は太陽薬品に、東村は万永製薬のMRとして、二人は同じ東京に赴任していた。同じ東京地区に赴任したこともあって、仕事の無い休日には、食事を一緒にしたり、映画を見たり、趣味の山登りに行ったりしていた。
恵奈は、昨日送られて来た挨拶状のこと、今日の朝からの無言電話のことを東村に話した。
「典型的な嫌がらせやな。許せへん奴やけど、心当たりはないの?」
「う~ん、憶測やけど、北山所長やないかな、と思うの」
「所長!」
「前所長よ。今は降格していないけど、私を恨んでの嫌がらせやないかな、と思うの。ハラスメントの内部通報したことを恨んでの嫌がらせやと思うの。挨拶状の差出人が匿名希望ってしてあるところは、そういうことを意味しているような気がする」
恵奈は、葉書きを見た時から思っていた北山の名前を口にした。
「恵奈ちゃんが通報したのかい」
「してへんよ。してへんけど、北山所長は私だと思っているんやないかと思う。だからあんな挨拶状を送ってきたような気がする」
「会社に言った方が良いんと違う?」
「言っても、本人が知らんと言ったらそれまででしょう。それにしても、何であんな人間が所長になんかになったんかな。今更ながら不思議やわ」
「ホープ製薬は合併して三年やろ。恵奈ちゃんは太陽薬品の入社やったから、見えないところもあるんやろうけど、旧のホープ製薬には、いろいろ事情があるんかも知れないね」
「私、甲賀さんにも相談してみたいけど、三連休は京都に帰るって言うてはったしな……」
「甲賀さんも、会社に言った方が良いって言うように思うけどな。ところで、甲賀さんは、東亜製薬を今月一杯で辞めるって言ってたよね」
「そう、今月末に引っ越して京都へ帰る予定なの。そう言えば、帰る前に東村君と三人で食事をしたいって言うてたよ」
その時、恵奈のスマホが震え、携帯電話への着信を知らせた。
「……非通知の電話がきた」画面表示を見た恵奈はそう言うと、スマホをテーブルの上に置いた。
恵奈は、スマホを手に取り、通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「…………」
「ほら」と恵奈は東村にスマホを渡した。
「もしもし……あんた誰」東村は、わざと苛立った声で問い掛けした。
「…………」
「北山さん、こんなこと止めた方が良いですよ」恵奈は吐き捨てるように言うと電話を切った。
「これが、何回も架かってきて面倒なのよ」
「え、恵奈ちゃん、わざと通話拒否設定にしないままにしていたんやないの?」
「ん、どういうこと?」
東村は、恵奈に非通知電話を受信拒否する設定を教えたが、ふと、不安になった。これで無言電話を受けることはないものの、相手は別の方法で恵奈に嫌がらせをしてくるかも知れないと。
「恵奈ちゃん、もし、身に危険を感じたりすることが起こったら、俺の部屋に逃げておいでよ」
「うん、ありがとう。でも東村君の部屋の方が危ないかも知れへんね」恵奈は笑った。
§
三連休前日の夜、小金井市前原のマンションに帰宅した石黒勇樹は、妻の莉花から、変な挨拶状がきた、と一枚の葉書きを渡された。
それは<ご挨拶>と大きく印刷されてはいるが、文面は空白で、左端に日付、そして差出人欄には匿名希望と印刷された、莉花の言う通り変な挨拶状だった。
暫くその葉書きを手にしていた勇樹は、「……北山さんだろうな」と呟いた。
「え、北山さんって、この前まで所長だった人?」莉花には勇気の呟きが聞こえたようだった。
三連休の最終日の日曜日、ドアフォンが鳴った。ピザの宅配だった。
「あなた注文した?」
「いや、注文なんかしていないけど……」
玄関ドアを開けた莉花が、「え、何これ!」とリビングにいる勇気にも充分聞こえる叫び声のような声を上げた。
そこには、十人前のピザの箱を抱えた配達人が、「石黒勇樹様から六時配達で、十人前のDXピザのご注文です。お届けに上がりました。三万円になります」と淡々と告げた。
「あなた、どうするの。三万円だって言っているけど……」
普段は気丈で、冷静な莉花も、慌ててリビングにいる勇気に向けて声を上げた。
一か月前の営業所の決起会と称する飲み会の際に、自分に成りすましての架空予約の嫌がらせを受けたことが、記憶に新しかった勇樹は、冷静にその時を思い返した。あの時、調査、解決に尽力してくれた探偵は、予約を受けた店が被害者であり、店が偽計業務妨害で訴えるべきことで、安易にキャンセル料を支払う必要は無い、と言っていたことを思い出した。
勇気は玄関にゆっくりと歩いた。
「私は、勿論ですが、我が家の誰も十人前のピザを注文していないんです。注文した人の我が家への嫌がらせなのか、お店への嫌がらせなのかは分かりませんが、私たちにこのピザ料金をお支払いする義務は無いので、持って帰って下さい」
「え、注文していないんですか。石黒勇樹さんですよね。携帯電話の番号はこれで間違いないですよね」配達員は、電話番号が表示されたスマホを勇樹に示した。
その番号は間違いなく勇気の携帯電話の番号だった。
「なんと言われようと注文していません。お宅のお店も、十人分のピザの注文を受けたら、おかしいとは思いませんでしたか。せめて、その私の携帯に確認の電話をして、確認すべきだったんじゃないですか。いずれにしろ私どもは支払いません。お店にとっては大損害でしょうから、警察に被害届けを出した方が良いですよ。店長さんにそうお伝えください」
「はあ………」若い配達員は、困惑しきった、半泣きに近い表情を浮かべ帰って行った。
「この前の居酒屋のブッキングとよく似た嫌がらせだね。今日のは、一体誰がやったんだろうね」莉花は、ホッとしながらも、怒りの表情になっていた。
「俺の携帯番号を知っていたこともあるし、推測は出来るけど、動かぬ証拠がある訳じゃないしね。店が被害届けを出したら事件になるから、犯人は捕まるかも知れない」
「やっぱり北山さんかな」
「………」
勇樹は「そうだよ」という言葉が、喉まで出たが、飲み込んだ。世の中には、まさか、ということもある。北山が自分に対して嫌がらせをするということは、自分が北山に恨まれるようなことをした、ということだが、一体何をしたというのか思い当たることが無かった。営業所の中では、自分は営業所の成績の足を引っ張ることも無く、北山所長に協力していた筈だ。あるとすれば、決起会での北山のセクハラを注意したことだけだ。いずれにしろ、確証がない中での思い込みは、間違いの元になると思ったのだった。
勇樹は「いずれ判るよ」とだけ口にした。




