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錯綜の山(終)

 東村優平から指定された場所は、ホープ製薬立川営業所の入っているビルのエントランスだった。

 東村優平の友人の浜崎恵奈(はまさきえな)と会った空木は、挨拶の名刺交換の後、近くのカフェレストランに入った。平日の午後四時前の店は比較的空いていた。


「石黒さんから、空木さんのお話しは聞かせていただきました。直接お会いしてお礼を言いたいと言っていましたが、今日は仕事の都合でお会い出来ないそうで残念がっていました。くれぐれも宜しくと伝えて欲しいと頼まれました。でも、その空木さんと、雲取山の避難小屋でお会いしていたなんて、しかも東村君の会社のOBですし、奇蹟としか言いようのない巡り合わせですよね」

 空木も全く同感だった。世の中には偶然の重なりが起こす奇蹟の出来事があるのだと。

「本当にそうですね。石黒さんとの縁から、こうして浜崎さんとお話しすることになるとは思いもしなかったことです。ところで、不躾(ぶしつけ)で何なのですが、石黒さんが気に掛けていたことなのですが、御社の出来事は収まったんですか?」

「うちの会社の出来事ですか………」

「いえ、答え難いことならお話しいただかなくても結構ですよ」

「……空木さんはどこまで知っていらっしゃるのか分かりませんが、石黒さんが関わった事件は解決したんです。でも、社内のコンプライアンスの問題になってしまったんです」

「コンプライアンスの事となるとお話し難いでしょう。それ以上は結構です。本題の話を聞かせて下さい」

「転落死した佐原さんのことですね」

 空木は頷いて言葉を続けた。

「亡くなった佐原さんとは、どういうお知り合いなのか聞かせて下さい」

「………」

 浜崎恵奈はほんの少しの間考えていた。そして、ゆっくりとコーヒーに口をつけ、小さく息を吐いた。その手に取ったコーヒーをテーブルに置くと、八年前の父、浜崎達也の北アルプスでの滑落死、更にはその原因となった同行者の行為を話した。

「その手袋を落として、拾ってきてくれと言った人物が、当時のお父さんの上司。京都支店長の佐原さんだったということですか」

恵奈は黙って頷いた。そして、父の死の発端となったにも関わらず、その事を一言も母に話さなかった佐原の顔だけでも見たいという思いで、雲取山へ東村を誘って行くことにした。その佐原の雲取山の山行計画を教えてくれたのは、東亜製薬の甲賀であることも、甲賀との関係も含めて空木に話した。

「じゃあ、頂上で佐原さんを見るのは初めてだったんですね」

「そうです。父の葬儀の時は、私は会っていませんでしたから、甲賀さんが送ってくれた佐原さんの写真を、あの山頂で、スマホで確認したんです」

「浜崎さんは、お父さんの滑落死の原因を知って、やはり佐原さんを恨みましたか」

「………」恵奈はまたコーヒーを口に運んだ。

「山頂で佐原さんの顔を見て、その思いは……」

「……なんで自分の落とした手袋を、父に拾わせようとしたのか、なんで自分の所為で父が滑落したと、母に一言言ってくれなかったのかと思うと、恨みが無かったとは言えません。会社の幹部として、上司として、いえそれよりも人間として許せないと思いました。雲取山で会ったら、浜崎達也の娘だと名乗って『人でなし』と(ののし)ってやりたいと思っていました。でも……山頂で眺望を眺めていたら、人を恨んで生きていくほど悲しい生き方はないなと思って、名乗って(ののし)るようなことは止めました」

 恵奈はそう言って(かす)かに笑みを浮かべた。その笑みは、気持ちの区切りがついての笑みなのか、寂しさを押し隠す笑みなのか、空木には読み取れなかった。

「あの山頂でそんなことを考えていらっしゃったとは……。佐原さんが亡くなったと聞いた時は……」

「甲賀さんから聞いた時は信じられませんでしたが、正直、天罰が下ったと思いました。やっぱり憎いと思っていたのかもしれませんね」

「浜崎さんは正直ですね」

「………」恵奈は恥ずかしそうに笑った。

「浜崎さんにもう一つ伺いたいことがあるんです。山頂で佐原さんと一緒にいた方ですが、浜崎さんが知っている方でしたか?」

「全く知りません。そもそも佐原さんも知らなかったのですから、一緒の方を知っている筈がないです」

 恵奈はそう言うと、スマホを取り出して、山頂で撮った写真を空木に見せた。

「この方ですよね」と。

 その写真は、横を向いた佐原の、向こう隣りに立っている男が、たまたまこちらを向いた状態で写っている写真だった。

「………」写真を見た空木は、一瞬息が止まるほどだった。それはなんと土田(つちだ)(よし)(ひで)だった。

 甲州塩山署の飯富から、佐原は『中央線山歩会』の会員だったと聞いた時、瞬間的に土田嘉英の名前が浮かんだが、まさかその土田が佐原の同行者だったとは。

呆然とする空木に「どうかしました?」と浜崎恵奈が声を掛けた。

空木は、この男を土田だと、恵奈には言わないことにした。自分と土田との因縁を説明する自信もなかったが、これから起こることに緊張感が走ったのかも知れなかった。

「空木さんに聞きたいことがあるのですが」恵奈の目が厳しくなったように空木には見えた。

「佐原さんを発見した時、転落した近くに手袋は落ちていませんでしたか」

恵奈の眼は、さっきまでの穏やかさはなくなっていた。

「……手袋ですか?気がつきませんでしたが……」と答えた空木はハッとした。

 空木の表情を見た恵奈は、「父の霊というか、念のようなものが働いたのかも知れないと思って聞いただけですけど、そんな筈ありませんよね」と呟くように言った。その表情は笑顔になることはなかった。


 翌日の金曜日、空木は小金井公園近くの林田喜美子を訪ね、喜美子とともに国分寺警察署に向かった。


   §

 自宅兼事務所に戻った空木の携帯に、甲州塩山警察署の飯富から電話が入ったのは、空木が国分寺署から戻った、金曜日の夕刻五時過ぎだった。

雨宮(あめみや)(いさお)が出頭して来ました」飯富は、唐突に空木に言った。

「え、雨宮……?」

「あ…失礼しました。空木さんたちと、雲取山の避難小屋に同泊していたという若い男です。雨宮功と云う二十歳の専門学校生でした。その雨宮が出頭してきたんです」

「あの若い男が、出頭してきたんですか。それで?」

 雨宮という名のあの若い男が、自ら警察に出頭してきたとはどういうことなのか、空木には二つのことが頭に浮かんだ。一つは、佐原にトリカブト毒を摂取させた犯人として、もう一つは、自分と佐原の財布から金を抜き取った窃盗犯としての自首だ。

「それが、山の事件のことで出頭して来たのではなくて、東京の多摩地区で特殊詐欺の受け子を数回やってしまった、ということで出頭してきたんです。山の件で、私が雨宮の実家に所在確認の電話を入れた後、兄に付き添われて署に来たんです。我々は、佐原氏の件での事情聴取に向こうから来たのか、と思っていたら、違いました。特殊詐欺の共犯として自首してきたという訳です。署としては、まさしく青天の霹靂(へきれき)というところです」

「特殊詐欺の受け子ですか……」

 それは空木にとっても青天の霹靂、予想もしていないことだった。

「それで空木さんに連絡したかったことは、雨宮は空木さんの財布から三万円、佐原さんの財布から五万円を抜き取ったことを認めましたが、三万円に間違いないかということです」

「はい、三万円に間違いありませんが、佐原さんの転落については、関りは無いということですか」

「そういうことです。雨宮が、登山道に投げ出されたようになっていたザックに近付くと、登山道に架かった桟道の下に、人が落ちて倒れているのを見つけた。声を掛けたが反応が無かった。どうしようか迷った末に、金欲しさに負けて、財布から一万円札だけを抜き取ってそのまま行き過ぎた。途中何度か救助要請の通報をしようとしたが、電波状態が悪く繋がらなかった。と言っています。避難小屋を出てからの途中、北天のタルという分岐で、男性二人連れ、これは佐原さんたちだと思われます。それと避難小屋で一緒だった男女の二人連れに追い越された、とも言っていますから辻褄は合っています。避難小屋で空木さんの財布から三万円盗ったことも、素直に認めたことからも、嘘はないように思えます」

 飯富の言うように、空木と佐原の財布から金を抜き取ったことは、雨宮本人しか知らないことであり、言い逃れも出来る筈だが正直に認めた。そうまでして自首する決心をつけさせたのは何だったのか、家族の説得だったのだろうか。

 「飯富さん、雨宮は何故自首する決心がついたんでしょうか。差し支えなかったら教えていただけませんか」

 先日の聴取に同行してきた尾崎のような刑事には、とてもこんな事は訊く訳にはいかないが、飯富なら訊ける、という思いが空木の言葉になった。

「……私のかけた所在確認の電話がきっかけだったようです」

飯富は(わず)かに躊躇いをみせたが、雨宮が出頭してきた理由を説明した。

 実家に戻っていた雨宮は、外出中に架かってきた飯富からの電話を、特殊詐欺の指示役からの所在確認の電話だと思い込み、見つかった、もう逃げられない、知り合いの先輩同様殺されると思い、家族に全てを話し、相談した。結論は、自首することで警察に守ってもらおうということになった、と飯富は話した。

 「つまり、闇バイトから抜け出そうとしていたということですか」

「そのようです。目下のところ、雨宮が受け子として詐欺を働いたという被害者を聞き出して、管轄の警察に連絡する作業をしているところです。そういうことで、今回の件は空木さんにはご協力をいただいて感謝します」

「飯富さん、すみません。この電話を使って一つお話ししておきたいことがあるのですが」

電話を切ろうとしていた飯富の言葉を遮るように、空木が話し始めた。

 空木は、佐原の同行者が土田嘉英だったことを突き止めたことを話した上で、九月の末に、東京の小金井公園で発生した野良猫の毒物死に、土田嘉英の関与が強く疑われたことを話した。

「土田嘉英を探りだしたんですか、どうやって探り出したのか分かりませんが、驚きです。それで、その毒物がトリカブトの毒だったのですか?」

「残念ながら調べていないので、正確には毒物ではないか、という推測です。ただ、佐原さんにトリカブトの毒を摂取させることが出来たのは、物理的に土田嘉英しかいなかった。その土田が、抽出したトリカブトの毒の毒性を、野良猫を使って試したのではないか、と考えれば野良猫を殺した理由がつくんです。ただ、佐原さんにトリカブトを食べさせた動機は全く分かりませんが」

「とにかく、土田がトリカブトの毒を何らかの方法で抽出していた、と言いたいわけですね」

「そうです。それで国分寺署と合同で家宅捜索してもらえませんか」

「国分寺署?何故国分寺署と……」

「野良猫の世話をしていたご婦人に、動物虐待で管轄署の国分寺署に訴え出てもらいました。林田喜美子という名前で届け出ていますから、確認してもらって結構です」

「……今、林田喜美子と言いました?」

「はい、林に田んぼ、喜びに美しい子、林田喜美子ですが」

「雨宮が、受け子として詐欺を実行した、被害者の一人がその林田喜美子ですよ。こんなことがあるとは……」

 飯富も言葉を無くしたようだった。空木もまた驚いた。

「……林田さんが詐欺に遭った」

呟いた空木は、林田喜美子を訪れた日、自宅玄関での場面を思い出していた。それは、喜美子がもう騙されないように初対面の人には写真を撮っておく、と言って空木にいきなりスマホを向けてきた場面だった。林田喜美子を騙して金を奪い取ったのが、雲取山の避難小屋で同泊した雨宮だったとは。

「空木さん、家宅捜索の件は、刑事課と相談します」飯富はそう言って電話を切った。飯富の声が上ずっているように空木には思えた。


   §

 二十八日土曜日の午後、空木は、小平市御幸町の土田嘉英の家の玄関前に立った。ここに来るのは、何度目になるのかと思いながら、相変わらず玄関脇に放置されているたくさんのゴミ袋を見ていた。

 空木は、そこからバイクで数分の小金井市桜町の林田喜美子の家に立ち寄った。

 昨夜、喜美子からキャッシュカードを騙し取った詐欺の犯人が捕まったという連絡を、喜美子から聞いていた空木は、喜美子の様子を見に行った。

「二十歳の専門学校生だったらしいの。警察の刑事さんが言うには、裏バイトとかいうのに応募して悪さをしてしまったみたいで、家族に叱られて自首してきたって云っていたわ。自首して来るくらいの子だから、悪い子じゃないわよね。若いんだからやり直せるわよね」

 空木も全く同感だった。


 再び、土田嘉英の家に前に、空木が立ったのは、翌週の月曜日の朝だった。

 昨夜、国分寺署の刑事課係長で、空木の高校の同級生である石山田から、土田嘉英の自宅の捜索が決まったという連絡が空木にあった。

 甲州塩山署と国分寺署の異例の合同捜索を、玄関の外から眺めていた空木に、飯富が近付いた。

「まだまだ時間がかかりますけど、ずっとそこで待っているつもりですか」

「気になるので、ここに居たいのですが……」

空木は、捜索を進言した手前、トリカブトに関する物が出てきて欲しいという、勝手な思いと、責任感が入り混じった気分で立っていた。

「飯富さん、庭とかの家の周りを見ても構わないでしょうか?」

「見るだけにしておいて下さい」

空木は玄関の扉を開け、ゴミ袋を避けるように庭に回り、レンガで囲われた花壇に目をやった。その花壇には花は無く、何かが植えられていた痕跡だけだった。その庭の片隅に目をやった空木の目に、一株の草葉が映った。その葉は、手のひらの様に分かれて、茎の高さは四十センチほどだった。空木はスマホを取り出して、トリカブトの葉を探し出した。

「……トリカブトだ」呟いた空木は、家の中で捜索に当たっている飯富と、石山田を探した。

 飯富と石山田は、二人揃って空木の立っている庭の隅に立った。

「これは特徴的な青紫色の兜のような花こそつけていませんが、トリカブトです」

空木は、手のひらのような葉を指差した。

「これがトリカブトなのか」石山田が屈みこんで手のひらのような葉を触った。

「土田を連れて来てくれ」飯富が、家の捜索に当たっている捜査員に、大きな声を出した。

「しかし、健ちゃん、一株しかないが……」と、高校の同級生の石山田は、空木健介を愛称で呼んで言った。飯富が怪訝な顔をしていた。

「多分、二株か、三株はあったんだと思うが……」

空木はそう言うと、庭に連れられて来た土田の方を見た。

 空木は、土田嘉英と会う、いや顔を見るのはこれが何回目なのか、と思ったが、土田は空木と目を合わせても、何の反応も見せなかった。

「土田さん、これはトリカブトですね」飯富が土田に問い詰めた。

土田は、「……そうです」と頷いた。

 土田は、トリカブトは奥多摩の山で採ってきて、三株を植えたと話した。

「二株はどうした」飯富は静かな口調で訊いた。

「一株は野良猫に牛乳と一緒に飲ませ、もう一株は……」

「もう一株は佐原さんに摂取させるために使ったのか」

「………」

 土田は黙って頷いた。

 さらに、飯富からトリカブトの毒の抽出方法を問い詰められた土田は、トリカブトの根を掘り出し、ジューサーミキサーで少量の牛乳とともに粉砕、撹拌し、それに蜂蜜を加えて作ったと明かした。

 野良猫には、牛乳の中にそれを混入させて毒性を試し、佐原には、紅茶の中に混ぜて飲ませた、と話した。持ち運びに使った容器は、小型のペットボトルと小瓶で、野良猫に与えた使い捨ての紙皿と一緒に、持ち帰ってきて捨てた、とも話した。

 土田の話を受けた捜査員たちは、玄関前に乱雑に放置されたゴミの入ったビニール袋を一つ一つ開き、該当すると思われる使い捨ての皿と、小型のペットボトル、小瓶を捜し、出てきた二十枚近い使い捨ての紙皿と小型のペットボトルは国分寺署が、びん類は甲州塩山署がそれぞれ押収して捜索を終えた。

「空木さん、ご協力ありがとうございました」

飯富は、小さく頭を下げ、捜索時に着用していた白手袋を脱いだ。

 空木は、飯富が脱いだ手袋を見て、浜崎恵奈の言葉を思い出した。

「……飯富さん、一つお聞きしたいことがあるのですが、転落した佐原さんの周りに手袋は落ちていましたか?」

「手袋ですか……、落ちてはいなかったと思いますが、佐原は片手にだけ黒い手袋をしていましたから、付近をよく探せばもう片方の手袋が落ちていたかも知れませんね。でもそれが何か?」

飯富は、不思議そうな目を空木に向けた。

「いえ、少し気になっただけなので気にしないで下さい。捜索ご苦労様でした」と空木は一礼した。


 逮捕された土田嘉英は、二つの警察署での取り調べで、動機とトリカブト毒を摂取させるまでを、次のように供述した。

 八月の末、奥多摩の山中で見つけたトリカブトの群落から、数株を採取して、家の庭に植え付けた。離婚して以来荒れた庭に、青紫色の花をつけるトリカブトを、植え付けようと思ってのことだった。その事を中央線山歩会の九月の例会で佐原浩に話すと、それは、自然公園法に違反する犯罪だと(とが)められた上に、登山を趣味とする人間としては絶対にしてはいけないことで、登山する資格はないとまで言われ、無性に腹が立った。

 佐原浩は、自分より一つ年下であるにも拘らず、自分が再就職出来ないことを、意味のないプライドの所為だ、と見下すようなことを以前から自分に言っていた。いつか目にもの見せてやる、と思っていたところに、トリカブトの件で火が付いた。

 そんな時、九月の半ば頃、佐原浩が雲取山の山行に一緒に行く会員を探していると聞いた。佐原浩は、会の中では浮いた存在だったためか、一人も手を挙げる会員はいなかった。千載一遇のチャンスだと思い、手を挙げた。

 トリカブトの毒性は聞いてはいたが、人間が苦しむことはあっても死ぬことはないと思っていた。試しに、野良猫にミルクに混ぜて飲ませてみようと思ったのは、自分と同じような境遇にある野良猫だと、可愛く思っていたが、近所の女性が世話をしているのを知って、誰にでも可愛がられる猫たちに腹が立ち、この猫たちにトリカブトの毒を与えてみようと思ったからだった。

 猫たちは、いつもと同じようにミルクを飲み終えると、草むらの中に入って行った。追いかけて観察していると、三匹共に痙攣し始め、飲んだミルクを吐き、死んだ。それでも猫は死んでも、人間は死ぬとは思わなかった。佐原浩が苦しめばそれで良い、万が一死んでもそれはそれで仕方がないと考え、トリカブトの一株を使って、トリカブト入りのミルク蜂蜜を作った。

 禿岩(はげいわ)で、ここで別行動になるので、お別れの飲み物として、紅茶を作り、それにトリカブト入りミルク蜂蜜を混ぜミルクティーとして飲ませた。禿岩で十分位休み、飛竜権現の祠の分岐に戻り、自分は丹波山村へ下り、佐原浩は来た道を戻って三条の湯に向かった。死んだことは日曜日のニュースで知った。今は、佐原浩は勿論、猫たちにも申し訳ないことをしたと思っていると。


 十一月最初の土曜日、空木は、馴染みの寿司屋の平寿司で、国分寺署の石山田から、土田嘉英の供述内容のあらましを聞かされた。

 病院で、大声でクレームを張り上げていた土田。公園で野良猫たちにミルクを飲ませていた土田。長年勤めてきた会社を退職した途端に、妻に離婚され、再就職もままならず、趣味の登山も否定された土田の心境は、どんなものだったのか。四十五歳で独り身の空木には、その心情は分かりそうにもなかった。ただ、世の中から、自分が必要とされていないと思った時の人間が、どれほど寂しく悲しいものなのかは、想像がついた。自業自得なのだろうが、男の身勝手さに制裁を与える人間はいても、許す人間はいないのだろうか。家族の誰かが寄り添ってくれていたら、佐原浩を殺してしまうような行動はとらなかったのではないか、と思う空木は、あの時野良猫殺し、虐待の犯人として、警察に訴え出ていれば、土田は殺人を犯すことはなかった筈だ、と悔いる思いも膨らんだ。

「俺が、動物虐待で土田を犯人だと警察に訴えていたら、土田は佐原さんを殺すことはなかった、佐原さんは死ぬことはなかったんじゃないだろうか」

 空木は、作った焼酎の水割りの一つを石山田の前に置き、静かに口を開いた。

「……厳しいかも知れないが、そうかも知れない。だけど、健ちゃんの責任でもないだろう。土田が人を憎んだり、恨んだりする心がなくならない限りは、同じことが起きた筈だ」

「憎む心か……」空木は大きな溜息を吐いた。

 空木には、もう一つ気になっていることがあった。それは、佐原がしていた手袋だった。佐原を発見した時、空木は気付かなかったが、飯富によれば、佐原は片手にだけ黒い手袋

をつけていたという。浜崎恵奈の『手袋は落ちていなかったか』という言葉も考えると、不思議なことだと思っていた。片方は落としたのだろうか。そして、それを拾おうとしたのだろうか。

「巌ちゃんは、霊とか魂とかの存在を信じるか?」

「はあ、俺が、信じる男に見えるか」

「いや」

「実は、信じる男なんだ」

石山田は、焼酎の水割りを勢いよく飲んだ。

「そうか、信じているのか。俺も存在しているんじゃないかと思うことがあるよ」と空木は水割りグラスを見つめながらしみじみと言った。

 そして、あの山には人間の色々な思いが、錯綜していたのだと目を瞑った。



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