錯綜の山(4)
奥秩父縦走路で空木たちが見つけ、通報した転落者は、死亡が確認された。さらに世田谷区砧の家族により、佐原浩六十五歳、現職は東亜製薬営業本部顧問と確認された。
三条の湯の小屋の主人からの通報の際、転落による死亡としては、不可解だという発見者の話を伝えられていた警察は、転落者に大きな外傷も見当たらない中、嘔吐、失禁している転落者の死因に、発見者同様の不審を抱いた。そして医科大学に司法解剖を依頼した。
甲州塩山警察署の地域課係長の飯富は、司法解剖の結果を聞き、刑事課と急ぎ協議を始めた。
司法解剖の結果は、最終的には心不全とされたが、胃の内容物から有毒アルカロイドのアコニチン系アルカロイドが検出され、これを摂取したことで中毒症状が発現、嘔吐、失禁し、その後、呼吸困難から心不全を起こし死亡したと考えられる、と報告された。そして、報告書には、アコニチン系アルカロイドを成分として有する代表的なものは、山野草のトリカブトだと記されていた。
協議の結果、トリカブトを誤って食べた結果なのか、何者かの故意によるものなのかを特定出来ない現状では、地域課の担当案件として、刑事課が応援する体制で調査することとなった。
雲取山から小谷原とともに東京に帰った空木に、甲州塩山警察署の飯富から連絡があったのは、翌週の半ばだった。飯富から連絡が来る少し前に、小谷原から連絡を受けていた空木は、至極冷静に飯富からの話を聞いた。
飯富は、改めて地域課の捜査係長だと名乗った。そして、空木たちが発見した登山者の死亡が確認され、家族により佐原浩と身元の確認もされたと告げた。その上で、少し話が聞きたいと伝えてきた。
翌日の午前中、飯富は、もう一人の尾崎という刑事とともに、空木の自宅兼事務所のある国分寺市光町のマンションを訪ねた。
小谷原とは既に、勤務している京浜薬品立川営業所で、朝九時に面会してきたと飯富は言い、空木に雲取山の避難小屋に同泊した、男女の二人連れのことを訊いた。
空木は、小屋で交換した東村優平の名刺を飯富に見せ、女性の方の名前は分からないと答えた。
次に、小屋を出発した時間を訊かれた空木は、一番早く小屋を出たのは単独行の若い男で、六時十五分頃、次が男女の二人で六時四十分頃、そして最後が自分たち二人で七時十五分頃だったと答えた。
「あなたたちの出発時間では、佐原さんたちと会うことはなかったでしょうね」とメモしていた手帳から顔を上げた飯富は、空木に目をやった。
「……今、佐原さんたちと言いました……。亡くなった佐原さんという人は、単独行ではなかったんですか」
単独行とばかり思っていた空木は、飯富の口から出た「佐原さんたち」という言葉に驚き、訊き返した。転落した佐原に同行者がいた。一体どういうことだと、訊き返した。
「佐原さんたちは、雲取山荘に前日から宿泊して、十月二十一日土曜日、亡くなった日の朝六時過ぎに山荘を出発したそうです。その日は、四人グループと佐原さんたち二人の六人だけだったので、小屋の主人も良く憶えているそうです。今現在は、山荘から縦走路に繋がる巻き道が崩れて通行止めになっているので、雲取山の山頂からしか縦走路に繋がる道はないそうです。つまり、あなたたちの泊まった避難小屋の直ぐ近くを、歩いていたということになります」
「………」
六時過ぎに山荘を出発したということは、六時半頃には山頂に着いていただろう。避難小屋で朝食の後、煙草を吸いに外に出た時を空木は思い返した。東村たちと偶々なのか一緒に山頂にいたのは、男性二人だった。ほんのわずかな時間しか見ていないが、あの時東村と同行していた女性は、二人の男性にスマホを向けていたように見えた。更には、小屋を出発する際には、東村が「後ろをゆっくり歩こう」と女性に声を掛けていた。東村たちは、転落した登山者、つまり佐原を見つけた筈だが……。
「……六時半過ぎに、頂上付近にいた男性二人連れが、そうだったのかも知れないですが、顔までは分かりませんでした。亡くなった佐原という方もあそこにいたのかも知れないですね。ところで、佐原さんの同行者は、どうして通報しなかったんでしょうか」
空木は、東村たちのことは口にしなかった。
「同行者は、飛龍山の先の禿岩と呼ばれている所で、二人で休憩した後、少し戻った飛竜権現の祠のところで別れて、自分はサヲラ峠から丹波山村に下りたと」
「飯富さん、それは話さない方が良いんじゃないですか」ともう一人の捜査員の尾崎が飯富を止めた。
「尾崎、この空木さんが第一発見者で、転落者の死因に最初に疑問を持ったんだ。捜査に協力してもらうためにも、ある程度話しても良いと思うが……」
飯富と尾崎のやり取りを聞いていた空木は、改めて、刑事だという尾崎に名刺を渡した。
「一応私も探偵という職業に就いていますから、守秘義務は理解しています」
「探偵であることは最初から承知していますが、これは刑事事件の可能性もある事案です。我々警察としては、安易に外部に情報を漏らすことは出来ないということは承知して下さい」尾崎は厳しい眼つきで空木に言葉を返した。
「……佐原という方の死因は、やはり転落が原因ではなかったんですね。嘔吐や失禁の原因は何だったんでしょう。毒キノコでも食べたんでしょうか」
空木は、尾崎から目を逸らし、飯富に目をやった。
「……空木さんは、トリカブトをご存知ですか」
「ええ、知っています。青紫色の兜のような花をつける有毒植物ですよ。植物界では最強の有毒植物です。奥多摩の山にも群生している場所がありますが、季節的にはもう終わっていますね。……もしかしたらトリカブトの毒が検出された」
「誤って口に入れたのか、それとも意図的に何者かが、何かに混入させたか」
「しかし、山菜の季節なら、ニリンソウと間違えてトリカブトの葉っぱを食べてしまうこともあるように聞きますが、今の季節では、もう枯れていますからそれはないでしょう。……トリカブトの毒は、体内に入ってからどのくらいで症状が出てくるんですか」
「三十分から六十分で症状が出てくるそうです。嘔吐、痙攣、腹痛から始まって、呼吸不全、死に至ると言われています」
「ということは、私たちが佐原さんを見つけた時間が十時少し前でしたから、その三十分前から一時間前の間に、佐原さんの体内にトリカブトの毒成分が入ったということですね。その時間帯に佐原さんと一緒にいたか、会うことが出来た人間が、トリカブトを何らかの方法で口に入れさせたと……」
「その通りです。同行者が重要参考人であり、容疑者ですが、あの日佐原さんに会うことが出来る可能性があった人には、話を聞いておかなければならないということです」
空木は、飯富の話に頷きながらも、疑問もあった。確かに東村たちは、会った可能性があるが、二十分以上前に出発したあの若い男に、佐原たちが追いつくことが出来たのだろうか。
「私たちと同泊していた若い男性は、佐原さんたちと出会っているんでしょうか?」
「……それは一番早く出発している若い男が、佐原さんたち年配者に追いつかれたのか、ということですよね。実は今朝、小谷原さんの話を聞いて、その若い男に会う必要があると判断したのですが、改めて出発時間を聞いて、私も少し疑問に思っています」
「小谷原さんの話ですか……」
空木は、財布のことだろうか、と想像した。
「その若い男は、小屋で空木さんの財布から一万円札だけを抜き取ったと聞きました。同様に、佐原さんの財布の中から、その男が一万円札を抜き取った可能性があるのではないか、という小谷原さんの話しを聞いて、その男に会う必要があると思った訳です」
やはり財布の件を小谷原さんは話したんだ、と空木は合点した。しかし、あの若者が一万円札を盗んだとしたら、何処かで佐原さんたちに追い越されなければならないが……。
「あの若い男性を探し出せるのですか」
あの若者は、小谷原さんによれば、山梨の実家に帰ると言っていたと思うが。
「小谷原さんが、男から聞いていた情報で、割り出せると思います」
男が通っていたアニメの専門学校、山梨の高校では山岳部だった、という情報で割り出せるということだと、空木は理解した。探偵一人では、難しいことだが、警察力を使えば簡単な事なのだろうと、小屋で夕食を作って食べている若い男を思い浮かべた。そう言えば、あの若い男は、朝食を食べていなかったのではないか。だとすると、途中の狼平か、北天のタルの分岐辺りで、朝食を食べたかも知れない。そこで二人に会って追い越されたかも知れない。もしかしたら東村たちにも会った可能性があるのではないか。しかし……。
「あの若い男が、トリカブトを食べさせることが出来たんでしょうか。亡くなった佐原さんの症状発現の時間から考えて、何処で食べさせたのか?……その動機は一体?」
「……分かりません」飯富は首を振った。
「それは、これから我々が調べることです」尾崎だ。
尾崎には空木の言い方が気に入らないようだった。尾崎の言葉には、空木にそう感じさせる棘があった。それは、警察官としての矜持ではない、プライドがそう言わせるのだろう。
尾崎がどう言おうと、やはり、佐原の同行者が何らかの方法で食べさせたとしか考えられない。同行者は一体誰なんだ。空木の衝動は口に出た。
「飯富さん、同行者はどういう人だったんですか」
「それはあなたに言う訳にはいきませんよ」やはり尾崎だ。
「……佐原さんは、中央線山歩会という山登りの会の会員で、その仲間と一緒でした」
「飯富さん、捜査上の個人情報です。そこまでにしてください」また尾崎だ。
「中央線山歩会……」空木は、思いもしなかった会の名前を耳にして、思わず呟いた。しかし、その呟きは二人の耳には入らなかった。
飯富と尾崎が、空木からの聞き取りを終えて去った後、空木は東村優平の勤務する万永製薬東京支店の城北営業所に電話を入れ、東村への取次ぎを依頼した。
東村に連絡をしなければならない、と空木がスマホを手に取ったのは、後輩だから予め連絡をしておこうというだけではなかった。心のどこかに湧いた、疑念の疑を晴らしたかった。
暫くすると、東村から空木の携帯に連絡が入った。
「仕事中申し訳ない。雲取山の避難小屋で別れた後のことで、どうしても東村さんに訊きたいことがあるんです。東村さんもテレビのニュースや新聞で、私たちが歩いた奥秩父縦走路で転落死亡事故があったことはご存知だと思いますが、実はあの転落者は私たちが見つけたんです」
「空木さんたちが見つけたんですか……、そうだったんですか。縦走路で転落死亡事故があったことは、山から下りてきた翌日の月曜に知りました。僕は全く知らなかったのですが、一緒に行った彼女から知らされました。それで僕に訊きたいことというのは……」
「亡くなった方は、二人連れだったようなのですが、東村さんたちがあの日の朝、雲取山の山頂で一緒になった二人連れではないですか?私はあの日の朝、小屋の前から、東村さんたちが、シニア年齢の男性二人と一緒にいたところを見たんですが……」
空木は、言った後、東村は転落者の顔を見ていないことに気付いた。山頂にいた二人のうちの一人が佐原だったとしても、的外れなことを訊いてしまったと思った。
「あ、東村さんは、転落者の顔を見ていないのに分かる筈ないですね。質問を変えます。山頂で出会った二人の後ろを歩いていたと思いますが、何処かで追いつきましたか」
「……空木さんが何故そんなことを訊くのか分かりませんが、亡くなったのは、山頂で一緒になった二人のうちの一人で、佐原さんという方だったんです。彼女から聞いてびっくりしました」
何故、東村から佐原の名前が出てきたのか。敢えて転落者である佐原の名前は出さずに質問しただけに、空木は驚いた。
「びっくりしたのは私の方です。東村さん、何故亡くなった佐原さんをご存知なんですか」
東村から、まさかの名前を聞いて一瞬混乱した空木だったが、東村たちと佐原たちが山頂で出会ったのは、偶然ではなかったのだと思い直した。しかし、あの時の東村たちの様子は、知り合いと出会ったという態度のようには見えなかった。
「僕は知りませんでした」
「僕は……、ということは、彼女は知っていたということですか」
「う~ん、彼女も知っていたと言っていいのかどうか……、難しいですね。ところで空木さん、何故そんなに突っ込んで聞くんですか。仕事ですか」
「………」
問われた空木は、東村たちに空木自身が抱く疑念を晴らすため、とは言えなかった。仕事ではない。警察への捜査協力でもない。今言えることは、佐原を最初に発見し、その死因に不審を抱いた。その不審を解きたい、解いてみたいという探偵としての矜持のようなものだろう、というのが今の答えにふさわしいと空木は思った。
「東村さんのところにも近々、警察が聴取に行くと思いますが、佐原さんの死亡には不審な点がありました。それは最初に見つけた私も感じたことでした。その不審な事を、解き明かしたいんです。格好良い言い方をすれば、探偵の意地みたいなものです」
「……不審なことがあるんですか。それで警察が……、警察は何を聞きにくるんでしょう」
「恐らくですが、佐原さんたちに北天のタル付近で出会っているか、を聞かれると思います」
「会ってはいないですね。会わないようにしていた、というのが正しいかも知れません」
「会わないように、ですか……それはどうして」
「それも彼女から聞いてもらう方が……」
「そうですか……。では北天のタル付近では誰とも会っていない?」
「いえ、雲取山の避難小屋で同泊だった若い男性に、北天のタルで会いました」
「え、あの若い男性に北天のタルで会ったんですか」
「バーナーでお湯を沸かしていたようですから、食事でもしていたんじゃないですか。あの人は、小屋で食事をしていなかったから、あそこで食事をしてゆっくりしている感じでした」
やはりそうだった。あの若者は、北天のタルで食事をしていた。恐らく雉打ち(山の隠語で男性が山中で排泄すること)も済ませていたことだろう。そこで佐原さんたちに出会い、追い越されたに違いない。そして、その後もう一度佐原さんと出会って……。
「東村さんは、北天のタルを過ぎた後、禿岩には寄らなかったんですか。佐原さんたちは、禿岩で休んだそうですが」
「僕たちは、縦走路から一旦外れて、飛龍山の山頂へ登ってから飛竜権現の祠に下りて、禿岩に行きました。禿岩にはその時は誰もいなかったですよ」
飛龍山の山頂への登山道は、二つある。一つは飛竜権現の祠の裏からのルート、もう一つは空木たちが、転落した佐原を見つけた場所から、縦走路を西へ五分程歩いたところから右に分岐して登って行くルートだ。いずれのルートも登り二十分のコースタイムだ。東村たちは、縦走路からのルートで山頂に行き、飛竜権現の祠のルートを下りたということだ。ということは、真っ直ぐ禿岩に向かう時間より、四十分近く余計にかかっていたということであり、佐原たちには会わなかったというのは納得出来る。
「なるほど、それで佐原さんたちには会わなかったんですね。それであの日は、東村さんたちは笠取小屋まで行く予定でいたと記憶していますが、その後あの若者とはどこかで会いませんでしたか」
「禿岩では会いませんでしたが、途中の将監小屋で僕たちが食事をしている時に会いました。水の補給に寄ったみたいでしたね」
「もう一つ確認させて欲しいんですが、雲取山の山頂で佐原さんと一緒だった男性をご存知ないですか」
「知りません」
「一緒だった彼女の知っている人でもない?」
「知らない人、と言っていましたが」
「くどいようですが、彼女は佐原さんとはどういうお知り合いなんでしょうか。話していただく訳にはいきませんか」
「それはさっきも言いましたが、僕からは話せません」
「そうですか……。彼女も製薬会社の仕事をしているんですか?」
「そうです。空木さんもご存知だと思いますが、ホープ製薬のMRなんです」
「ホープ製薬……。ホープのMRなんですか」
つい先日、相談を受け、仕事を依頼された石黒勇樹のいるホープ製薬のMRだったとは。空木は驚くしかなかった。そして、ホープ製薬と聞いて、石黒の言っていたホープ製薬内のゴタゴタはどうなっているのか、突然思い出していた。
「彼女に会わせてもらえませんか。ホープ製薬の立川営業所の石黒さんの知り合いの、空木と云う探偵だと言ってくれませんか。直接話を聞きたいんです」
ホープ製薬の知り合いの名前まで聞かされた東村には、断る理由は見つからなかった。




