ジェラシー(終)
石山田からの連絡が入ったのは、翌日の午後だった。
「九月十六日土曜日の多摩地区の救急情報センター管内で、午後五時から五時十五分の間に現場到着した救急車は二台しかないそうだ。一台は武蔵野市吉祥寺南でこれは交通事故だそうだ。もう一台は八王子市横山町でコロナの患者だったそうだ。一日平均で七百回以上という出動件数があって、二件しか該当する件数がなかったのは、かなり少ないそうだ」石山田は一気に話した。
「申し訳ない。ありがとう、感謝するよ。調べる理由をつけるのは大変だっただろう」
「その通りだよ。国分寺消防署の救急隊長が知り合いで何とかなった。捜査の一環ということで調べてもらったけど、この貸しは高くつくぞ」
「わかった、ありがとう」
空木は電話を切ると、直ぐに石黒勇樹の携帯を鳴らした。
石黒は、営業所全員に渡されている緊急連絡網を引っ張り出した。
武蔵野市に住所を持つ所員はいなかった。
八王子市に住所を持つ所員は、一人しかいなかった。横山町が住所の山元信明だった。
石黒は、空木に折返しの電話を入れ、この後の対応を相談した。横山町に住んでいる山元信明が嫌がらせの予約をいれた犯人だったのか。
「山元さんが、あなたの名前を騙った、嫌がらせ犯と決まった訳ではありませんから、決めつけないで下さい。他の誰かが、救急車が現場到着した二か所のどちらかで電話をした可能性もある訳ですからね」
「そうですね」
石黒は、空木の言葉に冷静に反応した。
「……もうこれ以上は調べようがありませんか?」
「一つあります。山元さんの携帯電話の発信履歴を調べてみることです。あくまでも携帯電話で店に予約の電話を入れたとしたら、の前提ですけどね。それにしても履歴を削除していたら、それまでです」
「携帯ですか……」
「携帯を調べると言っても簡単ではないですよ。石黒さん自身が直接山元さんに確認するか、あるいは警察の手を借りるか、です」
「………」
石黒は、自分自身で調べる勇気も自信もなかった。しかし、知りたい気持ち、というか山元ではないか、という気持ちをここで消滅させることも出来ない自分がいることも事実だった。
「警察に調べてもらう……、調べてくれるでしょうか?」
「石黒さんが、名前を使われて嫌がらせをされたと訴えても、警察は取り合わないかも知れません。偽名で予約された居酒屋が、業務を妨害されたと訴えれば、偽計業務妨害罪で警察は調べることになるでしょう。しかも容疑者が絞られていれば動くのも早いかもしれませんよ」
「なるほど。でも店は訴えてくれるでしょうか」
「……それは何とも言えませんね。キャンセル料も石黒さんから貰っていて、金銭的被害はありませんからね。お願いレベルで、石黒さんのお願いを聞いて訴えてくれるか、ですね」
「……空木さん、お店に一緒に行ってくれませんか」
石黒は今になって、キャンセル料を簡単に支払ったことを後悔した。
「分かりました。行きましょう」
石黒は、空木の返事を聞き、受話器の向こうの見えない空木に頭を下げた。
その日の夕刻、立川駅南口の居酒屋に、石黒は空木とともに店長を訪ねた。
空木から事情を聞いた店長は、二人が驚くほどの二つ返事で訴えることを承諾した。
「実は昨日本社に、嫌がらせで名前を使われたかも知れない石黒さんが、キャンセル料を支払ってくれたことを話したところ、本社からは、石黒さんにキャンセル料を返して、警察に偽計業務妨害で訴えなさい、と指示を受けたんです」
「え、本社がそう言ってくれたんですか」
石黒の顔が、途端に明るく、嬉しそうに微笑んだ。店長は、席を立ってレジに向かった。そして、戻って来ると茶封筒を石黒の前に置いた。
「これは石黒さんからいただいたキャンセル料です。お返しておきます」
石黒は深々と頭を下げた。
三人は、早く解決する為の段取りを相談し、翌日警察に行くことを決めた。
店を出て、空木と別れた石黒は、もう一つの自分への疑いである農薬混入について、刑事の三木への連絡をすべきかどうか考え始めていた。
翌日の午後、三人は、立川中央署に偽計業務妨害の訴えを届け出た。正確には、居酒屋の店長が、被害者として届け出た。
届出を受理した地域課の署員は、詳細を訊くことなく、「ちょっと待っていてください」と席を外した。
暫くすると、一人の中年の男を連れて戻ってきた。その男は刑事課の三木と名乗った。
「石黒さん、ご苦労様です」
三木の挨拶に、石黒は会釈で返した。
石黒は昨夜、空木と別れた後、三木を署に訪ね、全てを話していた。居酒屋で名前を使われた嫌がらせが、誰の仕業なのか調べるため、探偵に調査を依頼したこと。その探偵の伝手から救急車の出動履歴を調べた結果、山元信明に辿り着いたことまで話していた。話を聞いた三木は、居酒屋から被害届が出されれば、刑事課で調べることを約束していたのだった。
被害届を提出した店長が、二人に挨拶して署を出た後、三木は残った空木に顔を向けた。
「あなたが探偵の方ですね。ご協力に感謝します。後は我々が調べます」と、どういう伝手で救急車の出動履歴を調べたのかは、一言も触れなかった。
いきなり探偵と言われて呆気にとられている空木に、石黒が頭を下げた。
「すみません。昨夜あの後、三木刑事に全て話しておいたんです。空木さんの友人に刑事がいることも話して、それが公に出来ないことも……」
「そういうことだったんですか。……じゃあ私の仕事もここまでということですね」
「短時間の間に調べていただいて本当にありがとうございました」
石黒は、再び深々と頭を下げた。
軽症者五人の中で、ただ一人未だに自宅療養を続けている山元信明を訪問した三木は、いきなり携帯電話の任意の提出を求めた。戸惑った様子の山元に、三木は立川駅南口の居酒屋に対する偽計業務妨害の疑いがあることを説明し、協力を求めた。
山元は、三木たちをマンションの部屋には入れず、玄関先に待たせたままスマホを取りに部屋に入った。
スマホを渡された三木は、山元にロックを解除するように指示した。そして、発信履歴のリストを表示すると、手帳を取り出して、そこに書かれている居酒屋の電話番号と見比べるように、横に並べた。山元の発信履歴には、九月十六日午後五時五分と九月二十三日午後五時三分の二回、その居酒屋の電話番号に発信した記録が残されていた。
「山元さん、この番号は?」
「………」
「この番号は、立川駅南口にあるチェーンの居酒屋の番号ですが、山元さんが電話されたんですね」
「………」
「営業所の人数、十人で予約したんですか?」
山元は、微かに頷いた。
「石黒勇樹さんの名前で予約したんですね。そして無断キャンセルという形にして石黒さんへの嫌がらせをした。お店への迷惑よりも石黒さんへの嫌がらせを優先した訳ですね」
「………」
「お店から被害届が出ています。あなたを偽計業務妨害の容疑者として署まで来ていただきます」
「……はい」山元の声は心なしか震えていた。
山元は取調室に入ると、間もなく石黒の名前を使って居酒屋への嫌がらせの予約をしたことを認めた。その理由は、自分より二つ年下の石黒が、仕事の上で妬ましかったことから、絶対にバレないと思って嫌がらせをしたと話した。
取調べに当たった三木は、大きく息を吐いて、さあこれからというように座り直した。
「さあ、ここからが大事な質問です。あなたは、その石黒さんへの嫌がらせに満足せず、営業所のコーヒーに農薬を入れましたね。農薬の種類は有機リン系、Sチオンという水和剤です。そしてそれを石黒さんの仕業に見せる為に、石黒さんのロッカーに、使ったプラスチック容器を置いた。違いますか」
「え……知りません」
山元の目が泳ぐのを、三木が見逃すことはなかった。三木は続けた。
「石黒さんのロッカーのカギは、いつコピーしたんですか」
「……そんなことはしていません」
「今、あなたのご自宅に家宅捜索に向かっています。農薬が出てこなければいいんですがね」
「………」山元は口を閉ざした。
刑事課室に戻った三木に、課長の中野から、入院中の北山の肺水腫の症状が改善し始めたという連絡が救命センターの担当医から入り、短時間なら面会可能だと伝えられた。
さらに担当医は、北山の血液検査の結果、軽症の五人と同じSチオンに加え、同じ有機リン系でPチオンという、致死量がSチオンの百分の一、つまり百倍の毒性を持つ農薬成分が検出された、と連絡してきた。Pチオンは乳剤として市販されていることも付け加えられていた。
その報告を聞いた三木たちは、課長の中野も含めて首を捻った。
「係長、これをどう考える」中野が口を開いた。
「Sチオンは嫌がらせ目的、Pチオンは殺害目的だったということでしょうか。だとすると、所長の北山に対して強い殺意を持っていたということになるんですが、山元にそこまでの動機があるのかどうか……」
「山元の家のガサ入れでブツが出てくれば、か……」
「もう終わっていると思いますが……、しかし課長、動機的にはセクハラ、パワハラを受けていた社員も、視野に入れ直す必要があるかも知れないですよ」
三木は、再度、セクハラを受けていたという井上由香と、北山からパワハラを受けていた社員に、今一度目を向けるべきか、と考えていた。
山元の自宅の捜索に当たった捜査員から、有機リン系の農薬、Sチオン水和剤が押収されたと報告された。しかし、Pチオン乳剤は出てこなかった。
三木は、課長の中野と再び首を捻ることになった。
「二種類の農薬が出てくるのか、出てこないのか、と思ったら、一つだけか。毒性の低い農薬だけということは、Pチオンだけは廃棄したのか?殺人未遂の発覚を恐れて、傷害を選んだ……」
眉間に皺を寄せた中野は、三木を見た。
「そんなことをするでしょうか。ガサ入れが入ると思っていたら二つとも廃棄するでしょう。山元は自分に疑いが向くとは思っていなかった。だからSチオンは自宅に置いたままにしていたんだと思います。とにかく山元にガサ入れの結果をぶつけてみましょう。どんな反応をするのかを見てみます」
自宅から有機リン系の農薬、Sチオン水和剤が出てきたことを知らされた山元は、あっさり混入したことを認めた。
「馬鹿なことをしてしまったと思っています」山元はうな垂れた。
動機は、石黒の名前を使った居酒屋の件と同じだったが、加えて、ホープ製薬という合併会社にあって、ホープ製薬出身の自分が、昇格試験に二度も落ちているのに、被合併会社の太陽薬品出身の石黒が一発で合格したことが腹立たしくて、石黒を会社から追い出したかった。石黒は会社のコーヒーを飲まないことを利用して、石黒に疑いが向くように仕組んだ。犯人が分からなくて、石黒が会社に居られなくなることを狙ったと供述した。石黒のロッカーのカギについても、前の週に営業所管理の予備のカギをコピーしていて、それを使ったと明かした。
三木は、さっきまで何も話さなかった山元が、あっさり犯行を認めたことに、課長の中野の言葉、(軽い方の罪を選んだのでは)が頭に過った。
「山元さん、あなたはまだ私に話していないことがありますね」
「え………」
「所長の北山さんにだけ入れた農薬のことです。Pチオン乳剤をどこに隠したのか、話してくれませんか。Pチオンだけは廃棄したのですか?」
「何のことですか……」
俯き加減だった山元は顔を上げて訊いた。
「とぼけないでください。北山さんにだけ飲ませた農薬です。Sチオンよりはるかに毒性の強い乳剤です」
「知りません。Sチオンをコーヒーのポットに入れて、皆に飲ませたのは私です。疑われないように私自身も飲みました。少しくらい飲んでも死ぬようなことは絶対ないと分かっていたからです。だからPチオンなんて知りません」
「所長からのパワハラを恨んで殺害しようとしたんじゃないんですか」
「絶対にしていません。私は、パワハラは受けていません。パワハラを受けていたのは、澤木さんと河出です」
山元の顔はいつの間にか真っ赤に染まっていた。目からは今にも血が噴き出てきそうに充血して、泣き出しそうな赤鬼、まさしく形相に変わっていた。
取調室を出た三木は、中野に山元の供述内容を報告した。
「Sチオンは解決したが、Pチオンは宙ぶらりんという訳か。別人が入れた?」
「そういうことになります。山元の供述は信用出来そうです。いずれにせよ、その別人も社内の人間でしょう。セクハラ、パワハラを受けていた人間なのかも知れません。……入院している北山に面会して来ます」
北山との面会を終えた三木は、救命センターを出ると、石黒勇樹の携帯に電話を入れた。それは所長の北山から、パワハラを受けていたという所員の確認のためだった。
農薬混入犯の疑いが晴れたことを、三木から知らされた石黒が、犯人を訊いても、三木はいずれ分かります、としか言わなかった。石黒は三木の問いに、所員は全員多かれ少なかれハラスメントは受けていたが、今年になってからは澤木と、河出へのパワハラが激しかったと答えた。
「河出か……」三木は電話を切って呟いた。
北山との面会で、北山が、最後に飲んだコーヒーを渡した人間がいた。それは河出だった。
北山は、営業所のコーヒーを飲む時は、井上由香に砂糖とミルクの入ったコーヒーを頼んでいた。あの日も、ミーティングの直前に井上由香に頼んだが、持って来たのは河出だったと三木に話した。
任意の聴取を受けた井上由香と、河出優策は、それぞれ別室で、ほぼ同じタイミングで、所長の北山に、共謀して農薬入りコーヒーを飲ませるように仕組んだことを認めた。
井上由香は、今年の初め頃から、北山からの執拗な食事の誘いを受けていたが、実家の家事の手伝いがあるからと断り続けていた。ところが、ある夜、立川市内で歩いていた所を北山に見られてから、一層しつこく夜の食事に誘われるようになった。
そして、十月二日の決起会の飲み会で、北山の隣に座らされ、しつこく彼氏はいるのか、どんな男なのか聞かれた。
翌日、以前から相談していたという河出が、所長に思い知らせると言って、コーヒーに農薬を入れる計画を持ち掛けてきた。河出は、北山が会議やミーティングの前には、必ず井上由香にコーヒーを淹れさせていることを知っていて、そのミルクの代わりに乳剤の農薬を入れるという計画で、その農薬は毒性が低く、苦しむかも知れないが命に関わることは無いと河出は言っていたと井上由香は話した。由香の役割は、河出が給湯場でコーヒーを用意していたことを知られないようにすることと、北山が飲んだ農薬入りコーヒーを一滴残らず捨てることだった。河出が命に関わるような毒性の強い農薬を入れていたとは、思わなかった、と供述した。
井上由香は、河出との関係を問われると、河出とは、合併して一年少し経った頃から交際するようになった。自分の年が、九歳も上であることもあって、社内には知られたくなかった。河出からは結婚したいと言われ、自分も結婚するつもりでいた、と話し、大事な河出にとんでもないことをさせてしまった、と悔やんだ。
河出優策は、井上由香も別室で聴取を受けていると知らされると、暫く考え込んだ後、北山のコーヒーカップに、ミルクに変えてPチオンを入れたのは自分だと認めた。
ミーティングの直前、北山はいつもの通り井上由香にコーヒーを頼んだのを見計らって、給湯場へ行き、由香の教えてくれた通りの砂糖入り、ミルクの代わりのPチオン乳剤入りのコーヒーを作り、北山に渡した。北山は怪訝な顔をしたが、由香が席を外したので自分が代わりに淹れた、と言って渡すと、北山は礼も言わずに「そうか」と言ってカップを手に取り、ミーティングルームに移動していった。二十分か三十分経って北山が異変を訴え、コーヒーをこぼして倒れた時は、想定通りだったが、他の所員たちが異変を訴えたのを見て、驚いた。何が起こったのかと。後で五人のコーヒーにも農薬が入っていたと知り、愕然としたが、これで自分の行為は発覚しないと思った。
北山がこぼしたコーヒーとカップの始末は、予定通り井上由香が始末してくれたと話した。農薬の乳剤は、休日にホームセンターで購入し、フレッシュミルクの入った小さな容器に詰めて持ち込み、使った後は、営業所の分別ゴミのプラスチックごみとして捨てた、との供述に、三木は、署に残してあった分別ゴミからミニ容器を探すように指示した。その後、発見されたミニ容器からPチオン乳剤が検出された。
北山を殺そうとまで思った動機について、河出は、結婚するつもりで交際していた井上由香が、北山からの繰り返しのセクハラに苦しめられていた中で、決起会での由香へのセクハラを間近に見て、絶対に許せないと思い、苦しめてやろうと考えた。パワハラもあったが、それは自分のことであって、そのことで殺そうとは思わなかった。毒性の強いPチオン乳剤にしたのは、ひどく苦しめたい、という思いからで、もし死んでも構わないという思いもあったことに加え、フレッシュミルクと同じ色だったからだったと供述した。
河出優策と井上由香が逮捕された数日後、北山は退院した。退院して間もなく北山は、ホープ製薬本社の内部統制部コンプライアンス室の聴取を受けた。それは、匿名での内部通報による、部下へのパワーハラスメント、そしてセクシャルハラスメントの訴えがあったことからの聴取だった。
結局、北山は、営業所で起こった不祥事の責任も併せ、降格処分になったことを、後日三木は石黒勇樹から知らされた。
「河出も井上さんも、合併したホープ製薬を信じられなかったのかも知れません。会社を信じて所長のハラスメントを訴えていれば罪は犯さなかったかも知れません。でも、それは同じ職場の私たちの責任でもあるんですね」
携帯電話から聞こえる石黒の言葉を、三木は黙って聞いていた。




