2.黄泉戸喫
「まず、言っておこうか」
勿体振った仕草で青虫がキセルから口を離して言った。
「君は死んだ」
「……っはぁ!?今なんて!」
「だから、君は死んだんだ」
「いや、今現在生きてるし」
それともなんだ、此処は死後の世界だとでも吐かす気か。そんなもん信じられるか!
「そう、今は生きている」
「はぁ?」
この人、自分の言ってること理解出来てんのかな。心配になる。……が、ふと、ウサギとのやりとりを思い出した。
確か……『此処にいる貴方は死人ではない』とか何とか言ってなかったか?
「勿体振らんとはよぅ云うてやり」
ハトが厳かに急かし、不承不承といった顔をした後、青虫はこう言った。
「君は生きているが、しかし、社会的には死んだことになっているんだよ」
にこり、と嗤って。
「は、あ?何だよそれ………俺はマフィアかなんかに連れ去られたわけ?」
社会的に抹殺って。いや抹殺とは言われなかったか。だが、『死んだことになっている』ならば少なくとも、
「『死んだことに』した奴がいるってことだよな?それって」
青虫は「ほう」などと言って、わざとらしく顎に手を置いた。
「ふむ、多少は頭が回るようだ」
うっわ、むかつく。その台詞、言われるならハトの方がまだいい。
「さよう、君は殺されたのだ」
芝居がかった口調にそろそろうんざりしてくる。俺は苛々と訊いた。
「誰に」
『赤の女王』
ハトと青虫が声を揃えて言った。
「あっ、」
一瞬、言葉がのどに詰まった。
「赤の女王ぅう?なにその胡散臭い名前……つーか女王って、何を今更王とか名乗っちゃってんの」
口にした言葉と裏腹に、なんとなく嫌だな、と感じた。『赤の女王』…なんだろう、落ち着かない。嫌だ。
だから、そんな気持ちを押し篭めるように、敢えて冗談みたいに呆れてみせた。そして思考を言葉に沿って動かし始める。
そうだよ……王政なんて、そりゃどっか探せばあるかもしれないけれど、現代では殆どが民主政治だ。民主制なんて建前で実質王政なんて国もあるだろうが、はっきりと『王』を名乗っている国なんて――
「つーか……此処、何処」
「おやおや、やはりさして頭の回転が速いという訳でもなさそうだ」
小馬鹿にしたような……いや、完全に馬鹿にした口調に腹が立つ。が、この男はそういう性格なのだろうと諦めることにした。学校にも居たし、こういう奴。
そう思って、――ふと違和感を感じた。
学校に、居た?
居た、と思う。たいていクラスに一人はいる……それは間違いないと思うんだけど、ならば具体的には誰だと言われると、全く思い付かない。名前を忘れた、とかではない。誰、という存在が全く思い当たらないのだ。
おかしい。何か、おかしい。
口を噤み、じっと考え込み始めた俺を、ハトが見ていた。しかし、青虫は気付かずに朗々と言葉を続けた。
「先程言った筈だ。『不思議の国へようこそ』と」
俺は焦り出す。どうしてか、記憶に目を凝らすと途端にそれらはぼやけて四散してしまい、捉えられなくなる。ぼんやり眺める分には確かに存在するのに、それをきちんと正視すると逃げていく。
なんだ、これは。
「此処は不思議の国――赤の女王が、全てを支配する国だ」
不意に青虫の言い方が気になった。妙に『全てを』を強調していた気がする。
俺の記憶が朧なのも、そのせいなのか?それとも別……?
「ワンダーランド……?そんな国無ぇよ、聞いたこともない」
自分の中の変調にどきどきしつつ、平静を装って言った。すると青虫は嬉しそうにまたニタリと笑った。――今まで見た中でも特に厭らしい『ニタリ』だ、と思った。
「此処は君が居た世界ではない」
ニタリ、ニタリ。
「もう君は、元の世界には戻れない」
ぱっ、と例の女の子のニヤニヤ笑いが脳裏を過ぎる。
「君は不思議の国の囚われ人だ」
「違う!」
思わず叫んでいた。無性に怖くなっていた。
突然切り離された元の生活。おかしな部屋たち。白ウサギと名乗る少年。消える扉、現れる硝子壜。不思議な少女。朧な記憶。アリス。ワンダーランド。………どれもこれも理解出来ない。理解出来ない内に手の中から擦り抜けて、理解する暇も貰えない。
そう、あの紅――紅い瞳の白兎。あの夢から、色々なものが崩れていっている気がする。
ああ、そうか。だから赤が嫌なんだ。赤の女王が、嫌なんだ。いや、本当は――怖い、んだ。
「記憶は、完全やろか」
――ゾクッとした。
唐突に、しかし天気の話でもするように自然に、ハトが言った。まるで独り言のようだ。――だが、それは確かに俺に向けられていた。
「特に……この国に来る前の記憶はどや?綺麗に残っておますやろか」
本当に……この老婆は、心が読めるのではないだろうかと疑ってしまう。
どう考えても、いくら突き詰めても、あの灰色の部屋で目覚める前の記憶は薄れて輪郭がぼやけてしまっていた。鮮やかに覚えているのは、あの兎の夢くらいだ。
「薄れてはいるみたいだな」
今の俺は、泣き出しそうな顔をしているんだと思う。そんな様子を慰めるでも労るでもなく、こんな時だけ芝居っ気も見せずに淡々と青虫が言うものだから、ひどく惨めだった。
「……なんで」
「柘榴の実を口にしたからさ」
柘榴の実?口にした、って、あの薬か?液体だったじゃないか、それに柘榴って赤黒くなかったっけ。
そう思う傍ら、何処か聞き覚えがある、と思った。最近、ほんの少し前に聞いた気がする。
「柘榴の実……?」
「あんさんは、黄泉戸喫しはったんや」
ヨモツヘグイ。初めて聞く言葉だった。
「なんですか、それ……」
「極東の女神・伊邪那美命は黄泉國で、その國の竈で調理した食物を口にした。それが原因で彼女は黄泉國を出ることが叶わなくなったのだ」
イザナミ――流石の俺でも知っている、日本の母神だ。
「東欧の姫神・プロセルピナは冥王ハデスに攫われ、冥界にて柘榴の実を口にした。それによって、一年の三分の一を冥界で過ごさねばならなくなった」
ハデスも何処かで聞いたことがある気がするが、それよりも、もしかして青虫の言う二人の女神は、あの少女が言っていた「誘う女」と「少女」だろうか?
青虫は続ける。
「異世界で、その國の食物を口にすれば、その國に囚われることになる。それを黄泉戸喫と言う。」
はっとした。
青虫は薬を『柘榴の実』と言った。
ハトは俺が『黄泉戸喫をした』と。
少女は『帰れない』『捕まった』と。
あの薬を飲んだから――?
「お、俺があの薬を飲んだこと、なんで知ってるんだっ……」
「飲まなければ此処には辿り付けないからな」
ニタリと青虫が言う。俺はその厭らしい笑みに苛立つ余裕も無かった。
「あんな薬飲んだからって……どうして家に帰れないんだよ!大体、此処が異世界?ワンダーランド?誰が信じるかよ、信じられるかよ!」
「何をそんなに焦っている」
焦っている?違う、……怖いんだ。自分が立っている場所が分からなくなるくらい――何かに追われている、追い詰められていく。逃げられない。
―-怖い。
「安心したまえ、記憶が薄れているのなら薬は効いたということだ」
五月蝿い、俺の質問に答えろよ!
そう叫びたかったけれど、頭の端では既に認めていた。分かってるんだ、と声がする。感覚で何故か分かってしまうんだ。
だって。今だって、記憶を手繰り寄せているのに、引いた先から糸が切れてしまう。あるのは分かるのに、手元には無いんだ。
父さん母さんとか、妹とかの記憶さえ、俺の手から滑り落ちている。向こう側にあるのは分かるのに、向こう側とこちら側を分ける何かを俺は越えられない。
切り離されたのだ、と、頭ではない理性的な部分が既に判断を下している。俺は、その決定に逆らえない。
俺は、小さい頃からそうだった気がする。記憶は朧だけれど、昔からこういう思考を辿ってきたことは覚えている。分かる、と言うのか。
思考外の理性が冷静に冷淡に下した判断に、俺は逆らえない。俺の持つ感情という武器は、気に入りの棒っきれみたいに頼りないんだ。
ごめん、と。
小さく呟いた。
たぶん、次はそんなに遅くならないと思いますー。