第二章 ‐ 1.ハトと青虫
第二章: 【森】にて
白、白、白。
白に埋め尽くされた世界に目が眩んで、かと思ったら、透き通った緑色が目に入った。続いて自分の手。水の匂い。
そこではっと我に返り、起き上がって自身の身体を検分した。……うん、異常なし。
さっきは自分の身体が何処にあるか分からなかったのだ――馬鹿馬鹿しく聞こえるだろうけど。「無くなったようだった」のではなく、「何処にあるか分からなかった」のだ。
さっきのは、夢?……にしては生々しかったというか、鮮やかすぎたというか。そこでふと、少し前にも同じように思った気がする。
はて、いつだったか。
記憶を辿ろうとして、自分の内部に集中し始めた時。再び強く水の――いや違う、これは湿った土の匂いだ。そう理解して、はっと我に返った。
「土?」
慌てて辺りを見ると、そこはさっきの部屋ではなかった。
……と、いうか、部屋ですら、なかった。
「うわ、森じゃん」
もう気持ち良いくらいにはっきりばっちりがっつり鬱蒼とした森だった。
湿度はそんなに高くないし、目立って薄暗いわけでもない。が、確かに直射日光は入ってこないし、湿った土と、いかにも「オレ、そう簡単にゃあ抜けませんぜ」といった草とが地面を形成している。こんなに広く鬱蒼とした森には初めてお目にかかった。
実際は別に見たことくらいあるし、現代だって日本には大きな緑地帯が数多く残っている(筈だ。はっきりとは知らないけれど)。だが、都心に住んでいたから近所にはそんなところなかったし、そもそも遠出する前に寮に入れられてしまったから、視界に入る地面全てが土という経験は今までになかった。こんなに土の匂いに包まれたことなんてなかった。
……それにしても、一体何がどうなって俺は此処にいるのだろうか。扉が一つも無いような部屋から、こんな立派な森に連れてこられる間に俺はどうして起きなかったのか…。
ええい、過ぎたことは良い。どちらにせよ地上に戻ってこれたので構わない。兎に角現状把握だ。自分を軽く叱咤し、腰を上げた。しっとりした土に臥せっていたにしては服は湿っていないので一安心だ。と同時に、そんなに長く気を失っていたわけではなさそうだ、と判断した。
辺りを見るが、特にどっちに何があるというわけでもない。頭上から、緑の葉越しに感じられる太陽の光は、何方から降り注いでいるのかわからない。
「ええい、ままよ」
立ち止まっていては辿り着ける先にも辿り着けないし、何より暇だ。どうせ始めから考えて答えが出るものでもない。
落ち葉を含んだ土を踏む。踏み締める度に、ほんの一瞬沈み込む。そして、ぎゅっと土が仄かに鳴く。そんな音が聞こえるくらいに静かだ。
歩き始めて五分くらい経ったろうか。
その間に俺は、やはりあの薬らしき液体を飲んだから気を失って、変な夢を見て(詳しくは覚えていない)、その内にこんな森に連れてこられたのだろう……と、結論付けていた。
一体あそこは何処だったのだろう……白ウサギは何者だったんだ?っていうか、なんで俺無傷で生きてたんだろう。何故あそこに居たんだ?
疑問は尽きないが、なんにせよ、この森を抜ければ日常に戻れるんだ。そう思うと、気分が上向きになる。
確かに何の変哲もない代わり映えしないつまらない生活だけど、少なくとも住人の名前はフツーだし言ってることも理解可能。自分が何処にいるのか分からないなんてこともない!
……はず、だった。
「……煙?」
視界の先から、輪っかになった煙がふわふわと漂ってきた。
「誰かいんのか!」
道に迷ったら人に訊け、ってのは母からきつく言われていた。べ、別に俺がよく迷子になってたとかじゃないからな!
でも、見知らぬ森で突然目が覚めたんだから迷子になって当然だろう。恥ずかしいことはない……でも変な目で見られそうだし、「迷子になった」とだけ言ってとりあえず森から抜ける道を教えて貰えばいいや。
ぷかぷかと輪は浮かび、澄んだ森の空気に溶けて色を失くす。
ようやく人影が見えてきた。人影は二つだ。片方は小さく、片方は丸っこい。とても大きいとかはないので、熊みたいなおっさんということはないだろう。
「あのぉー」
間延びした、自分でもちょっと間抜けっぽいかなと思う声が出た。お蔭で警戒はされずに済むと思うんだけど。
「あの、ちょっと良いですか?」
半ば駆け寄るようにして近付く。煙がぷかり、と浮かんだ。
男女だ。
大儀そうにキセルをふかしている三十後半くらいのおっさん。丸々と太っていて、脂っぽい顔をしている。その隣には(こんな森の中なのに)車椅子に座った上品な女性がいた。こちらはお婆さんと呼ぶに相応しい年齢だった。
「来はったわ」
不意に声がした。俺は最初、誰が言ったのか分からなかった。が、どうやらお婆さんらしい。小さくて萎びたみたいに皺くちゃなのに、通った良い声をしていた。
「ウサギが来たしなぁ、そろそろかと思っていたところだ。……とは言え、中々久しぶりじゃないか?此処まで来れた奴は。ウサギが不機嫌だったしな、見所があるやも知れん」
丸っこい男は想像通りの声だった。つやつやと脂っぽく照かった声だ。
……ウサギ?
嫌な予感がした。
「あの………こんにちは」
おずおずと挨拶し、二人の前に立った。
お婆さんは、灰色と薄桃色のワンピースにカーディガンを羽織って、灰色の髪を後頭部に纏めている。一見しただけで清潔感や上品さを纏っているのが分かる。
逆に、男は赤い蝶ネクタイに青いベスト、黒いズボン。全て鮮やかな色合いで、それにでっぷりとした体型が合わさり、なんとなく小煩く下世話な気がする。
突然、男がキセルをこちらに向け、フッと吹いた。ぷかりと沸いた煙が俺に直撃して、咳込んだ。
「――」
――なにすんだ、おっさん!!
叫ぼうとした一瞬先に、男が満面の笑みをニタリと浮かべて、こう言った。
「やぁ、四十九番目のアリス!
不思議の国へようこそ!」
「………は?」
よく分からないが、兎に角、嫌な予感が的中したらしいことだけは分かった。
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ニタニタと笑いながら男は言った。
「私は【青虫】。彼女は【ハト】だ。よろしく、アリス?」
「アリ……ス?青虫?ハト?」
混乱し、錯乱一歩手前で俺は後ずさった。意識していなかったが、体が勝手に危険だと判断したようだ。
「青虫、あんま一度に云うても混乱さすだけや」
冷静な、低くもよく通る声が俺の気分を少しばかり落ち着かせた。
「あ、あの、俺……」
お、俺の名前はアリスなんて可愛らしい名前じゃないし、ようこそとか宜しくとか言われても俺は森を出られればそれで良いんで宜しくして頂かなくて結構なんですけどもっ!……なんて、言えたら良いんですけども。
霊力でもありそうなお婆さんは、それこそ魔力でもありそうな声で述べた。
「此の森は抜けられへんで」
「へっ!?」
心でも読めるのか?
そんな馬鹿みたいな俺の心も読んだ様に、お婆さん――ハトは続けた。
「此処に来はったひとは、みぃんな同し事云いはるさかい、先に云わしてもろてんねや」
ハトは濁った目をしていた。だが、何故だか嫌いじゃないと思った。
「あんさんが目ェ覚ましはってからのこと、ちゃあんと説明したりまっさかい、一遍聴いていきぃ」
そう言うと、男――青虫を見上げた。ぷかりぷかりとキセルをふかしていた青虫は、ハトの視線に頷くと、またニタリと笑って俺を見た。
「ハトばあ様に話させるのも何だしな、私が説明してやろう」
「ばあ様云うのんはやめや。大して違おまへんやろ」
「二十歳も違うだろうよ」
「二十歳しか違わん」
アリス呼ばわりされ、不安は山のようにあったが、二人は見ていると長く付き合ってきたように感じられ、つい気が緩んだ。
何はともあれ、説明してくれるというのなら聴いてやろうじゃないか。
更新が遅れてしまい、申し訳ありませんでした!
でもこれからもこんなペースで…というか不規則なペースでいくと思います。
亀の歩みですが、出来れば生温かい目で見守ってやってください。