第九話 斜陽の後で
春の夜の夢はぼんやりと醒める。長く甘い夢がずっと続くような、薄紫色に染まった布団の上で目を閉じたくなる。じゃあ、夏の夜の夢は? 短い夜に俺は夢を見ている。
【引用:葵の創作メモより】
夢を見るなら春が良い。黒と白の間、薄紫色のぬくい布団の中でまどろみながら見た夢は、昨日の出来事のように思うことがある。起きていても寝ていても。春の空気はいつも眠たい。だから夢と現が不明瞭、どこまでが夢だなんてわからない。
七月の蒸し暑い夜も、春みたいに寝れるだろうかと自室の電気を消す。
唇を触りながらベッドに俺は寝転んだ。
「夢でなくてもさめないで、か」
どんな気持ちで瀬名はああ言ったのだろう。
ただ、感情が昂った。吸い込まれるように伸ばされた手の中に俺はいて、瀬名に触れたかった。触れていたかった。
俺の書いた話のせいなのか。俺の小説が瀬名に変な気を起こさせてしまって、演技に熱が入ってしまったのかもしれない。可能性はゼロじゃない。いや、そうであってくれないと瀬名が俺を見つめる瞳の色に理由がつかない。
「今のは演じてない。今の役は月山瀬名」
だらしなく眉毛を下げて、悪戯っぽく笑った。
「なぁ、こういうの違った?」
真っ直ぐに茶色な瞳に覗かれて、それが大層甘くてやさしい声だった。
「ちがくない」
満足そうに笑った。お砂糖を煮詰めたような甘美な色をしていた。
夏の放課後、夢を見た。甘くて苦い夢を見た。
なんで、どうして、きっと違う。こんなのおかしい。俺が瀬名から目が離せないのは、俺の小説を演じてくれたのが嬉しかっただけで、抜群に演技が上手かったからだ。引き込まれて、脳がきっと誤作動を起こした。全部夏のせい。教室の暑さに俺も瀬名も脳みそが湯だってとろけて、二人一緒に馬鹿になった夏の夢。
そうじゃなければ、こんなにも四六時中あんな男のことなんて考えるのはおかしい。思いが溢れて文字に起こしてしまうはずない。あの熱の籠った目が見たい、見つめられたい、独り占めしたい、放課後の秘密を俺の手の中に収めていたい。誰にもあの顔を見せたくない。
わかんないよ、わかんない。
こんな気持ちをあのきれいな男に抱く自分がありえない。
魅力的な人だと思う。尊敬に友愛が混じると気持ちは膨れ上がるのだろうか。間違っている。気持ちに名前を付けてはいけない。引き返せなくなっている。
「なぁ、こういうの違った?」
大間違いだよ。最初から。出会ったその日から舵を切る方向を間違えた。
からかわれている? わからない。俺と瀬名。俺らの関係は一体何なんだ?
ふに、と唇に手をやる。熱も空気も鮮明に覚えている。夏の夢は短い。
ただ熱に浮かされただけ。夏の暑さに溺れてしまっただけなんだ。
焦がれたのはきっと俺だけ。間違っているのは俺だけだ。俺が勝手に瀬名に言葉にならない想いを抱いた、それだけだ。おかしいのは俺だけだ。
伸ばされた手、触れた熱。あの茶色い瞳の奥底に何を見た?
ちがくない。瀬名が気付いた俺の気持ちは間違っていない。瀬名に触れたいと思った、その気持ちも合っている。同級生とか友達とか、決してその枠に収められない気持ちを抱いてしまったのも、瀬名のお察しの通りだ。
ちがくない。瀬名にして欲しい、許してほしかったこと、お前は全部わかってやってくれる。演技じゃないって言ってくれる。
スマホの液晶は青白く光って、真っ暗な部屋で俺の顔だけを照らしている。
漢字フルネームで「月山瀬名」に無駄におしゃれな後ろ姿。提出物の確認、テスト範囲のノートとか、チャット欄にはほとんど事務連絡。
ぽちぽちと何を聞くわけでもないけれど、文字を打って消して、打って、眺めて全部消す。送信の紙飛行機はいつまで経っても押せない。
「何考えてんだよ」
乾燥した声はエアコンの風がさらう。
会えない夜を歌う和歌は多い。眠れない夜を描く小説も数え切れない。みんな想い人に頭の中を引っ搔き回されて、自分一人でその傷を癒せないから困り果てている。
君は隣にいない。愛しい声で名を呼んでくれない。それがたまらなく寂しくて、恋しくて、朝が来るのを願っている。惚れてしまった方が負け、だなんてよく言ったもんだ。女々しくも瀬名を想っている自分に「気持ちわりぃなぁ」と自虐的に笑う。
会えない時間は忘れさせてくれるだろうか。一晩経っても数日後には夏休みが始まる。冴えた目は熱帯夜のせいにして、束の間の夢の話にできるだろうか。
「どんな顔して会ったらいいんだ」
明日の放課後も、夏休みの約束もしていない。ただ、唇が触れただけ。ほんの少し瀬名を近くで感じれただけ。
枕に顔を埋めて低く唸る。何度思い出しても、その瞬間に体温が上がる。
メロドラマを望んだわけじゃないし、理想があったわけでもない。初恋のアイちゃんみたいな可愛い女の子と、なんて夢物語も考えないこともなかった。逢っちゃったんだよ、お前に俺は。ずっとずっとこんなはずじゃなかったがグルグルと渦巻く。
無意識に唇を触っていた指をやわく食む。
「なんでほんのりレモン味なんだよ」
やわらかかった、熱かった。爽やかなレモンの味が残った。
何で読んだか、誰から聞いたか覚えていない。ファーストキスはレモン味なんて実際にそんな上手い話があるわけない、はずだった。
噓、俺の妄想? 実は本当にある話? ごろんと寝返りを打って仰向けになる。真っ暗な部屋の隅から「バーカ、たまたまだよ」なんてくふくふ笑う瀬名の声が聞こえてきそうだ。
オレンジのフラペチーノは先週飲みに行っていた。アノ子の高い声は教室の端にいても良く聞こえる。「セナに新作おごってあげた代わりに映画付き合ってあげたの」あれから二人の距離が縮まったとか、そんな話はないけれど、きっと瀬名が一番見たがっていた字幕の洋画は見ていないんだと思う。漫画の実写か、話題のホラーってとこだろう。
分かりやすく口説かれて、のらりくらりと笑って誤魔化して、購買のパンを咀嚼する。今日はコロッケパン。隣にあったボトルは、嗚呼そういうことか。
思い出せるということは、それだけずっと見ているということ。馬鹿だなぁ、俺は本当に頭が悪い。
「悪い男に捕まっちゃったね」
全くその通りだ。細められた目がやけに熱っぽくて、甘ったるい声だった。頭の中だけでなく骨までどろどろに俺は溶かされてしまったんだ。
ずるい。あんな顔ずるい。演技じゃないなら尚更だ。魅せられて引き込まれて、いいや、あの綺麗な瞳に引きずり込まれた。息ができないほど苦しくて甘い場所に囲い込まれてしまっていた。空気を吸いたいと顔を覗かせても、あの瀬名は「だぁめ」と指を緩く絡めて優しく底なし沼に沈めていく。二人ぼっちの鳥かごで、瀬名に鎖をかけられた。気付かないうちに。抜け出せなくなっている。
フラペチーノのアノ子にも同じ顔していないだろうか。簡単に見せていい顔じゃない。忘れるつもりもないけれど、一生忘れられないや。
煮詰めた砂糖、カラメル色の瞳で俺を見て、舌っ足らずに「かぁいいね」
瀬名ってあんな顔出来るんだ、こんな甘い声で喋るんだ、なんてふわふわした頭でよく考えられたものだ。
「太宰じゃないけど、しくじった」
ぐぅと枕の中で低く唸って、ぱたぱたと足をバタつかせる。
日の落ちた部屋は真っ暗で、窓の外から沈む夕日は見えない。街灯の光が夜の住宅街に光るだけ。
「しくじった……惚れちゃった、だよもう」
明日の朝も放課後も来てほしいような、来ないままでいいような。
瀬名の気持ちはわからない。どんな思いで俺の話の続きを読み上げたのか、一番知りたいこの問いは愚図でノロマな俺は出来ないだろう。
終わらせるつもりだったんだ、とは伝えよう。瀬名の答えは掴みかねるが、俺が良くても正しくないから。世界に歓迎されている瀬名は日の当たる場所にいて欲しい。自ら日陰の俺に手を伸ばす理由はどこにもない。
フラペチーノ女にするべきだ。傷も影も背負ってはダメだ。瀬名は綺麗だから。これ以上俺がいい思いをするのは間違っている。俺が縛るのは違う。
まだ引き返せる。全部フィクションのことだから、ってまだ俺らは言える。元の道に戻れる。瀬名が本気になる前に俺が気持ちに蓋をしてしまえばいい。
瀬名に比べたら大根役者だ。何もなかった、そんな顔をして夏休みを迎えよう。
見つけたあの日からずっと胸が痛いよ。感じる痛みが増したとて、痛いものには変わりない。一度知ったらやめられない。日に日に痛むのは毒が回っているんだろう。足りない、もっと、甘い夢を見ていたい。忘れたい、忘れたくない。出会う前に戻ったら、こんなにも苦しい夜は過ごさないで済むだろうか?
枕に押し付けた口元から泣き声にも似た呻き声が低く漏れ聞こえる。
夢にするには惜しいんだ。気持ちに名前を付け損ねているけれど、ただ向き合いたくないだけ。気付けないほど馬鹿じゃない。間違いにペケを付ける勇気が今日も俺にはないんだ。
「俺の意気地なし」
とりあえず部屋の設定温度を下げて、本棚から太宰の「斜陽」を抜き出して机の上に置いて寝た。夏の夜の夢は短かった。