scene 8 ロマンス
瀬名サイド。ちょっと長めです。
ジェームズ・キャメロン「タイタニック」
ブレイク・エドワーズ「ティファニーで朝食を」
福田雄一「五〇回目のファーストキス」
【引用:瀬名の鑑賞ノートより】
ほんの少しからかってやろうと思った。いや、単純に戻れるうちに距離を置くつもりだったのかもしれない。
葵の視線が日ごとに熱かった。アイツは口にしない分、お喋りな目をしている。
放課後の教室。毎日ではないが、週に何度かふらっとアイツの視界に入って練習をする。気が向いたらアイツの原稿を読んで、役になる。
二人きりの教室でページを捲る音。紙のしなる音だけで、物語に没入する。
別の名前があてがわれていても、アイツはいつだって真っ直ぐにオレを見ているんだって気付かない方がバカだろう。声に出して話さない分、松平葵の文章は心の声がきれいで真っ直ぐだ。どこを見ても光が当たる。顔のないオレをじっと見つめている。月山瀬名を葵だけは探して見つけてくれた、そう感じるようになったのは何日目の放課後だっただろうか?
いつも誰かを演じている。
誰にでも好ましいように、愛されるようなキャラクターを無意識のうちでも演じている。会話の中の間の取り方も、声のトーン、目線の動き。何かしらの演技を落とし込んでいる気がする。意図的だったが、最近は無意識に役を演じている。
オリジナルの月山瀬名の持っていた感情は、どこからどこまでで、一体いつからオレは「ツキヤマセナ」という別人を演じているのだろう。浸食された感情、満月の表は光っているけど、裏側は真っ暗だ。地球からみればいつだって明るい。「月山瀬名」は誰にも見つからない。
「葵って、血まみれになるほどペン握れる?」
「突然どうした? この小説そんな描写一切ないんだけど」
「いいや、気になっただけ。忘れて」
からかってやろう、そう思ったのか。葵の心に踏み込もうとしたんだったか。どちらだったか覚えていないけど、オレと同じようにコイツは文学に狂っているんじゃないかって確かめたくなった。答えがなくてもマァいいか。そんなつもりの質問だ。
原稿用紙をパラリと指先で弾いて、何もなかったように机に置く。
「瀬名が同じように、俺は文字に飲み込まれるんだよ。気付いたら血まみれでペンを握っていると思う」
今日の夕飯を答えるように、なんでもなく葵は言った。サラサラと原稿用紙に新しい文が増えていく。
「お前、セッション見た?」
「いいや、ないよ」
オレは葵のようにそこまで演劇に傾倒しているのだろうか。映画のように、血まみれになってもドラムスティックが握れるほど、オレは一生懸命になれているのだろうか。
「そんな顔しないでよ。瀬名は俺より相当狂ってるよ」
「葵に比べたら全然だろ」
真っ黒な瞳に何を宿す。直向きに書かれた文章、高校生が書くには上手すぎる。
目指すものは文学賞か、ベストセラーか。未来の小説家大先生は文章を書くのに一途すぎる。見ている世界、思慮深い。自分を見失わず、ただ奥底の願いも苦しみも、ひとりで問い続けて文字にする。松平葵が文学だ。彼の心が文学だ。
「葵は……葵は、誰を演じるオレを見てるの」
演じていないオレがわからない。自分でも見つけられないんだ。
「ずっと瀬名を見ているよ。文章の行間は美しいだろ?」
「な、に、言ってるかわかんねぇ」
葵の文はどこを切り取ってもきれいだ。見つめる世界には色があって、光がある。柔らかで時に閃光のように。まばゆくみえるのは、隣に必ず影が落ちるから。
ああ、そういうことか。
白黒の原稿。活字の海はモノクローム。鮮やかに描かれていても、葵はいつだって光と影でしか世界を映せないのか。
「お前さ、オレの心も海のように秘密でいっぱいなんだからな」
「急にロマンチック構文出すなよ気持ち悪い」
「タイタニックに謝れよ。沈めるぞ?」
「そんな物語じゃなくない!?」
笑っているけど怖かった。オレを見て欲しいけど、幻滅されるだろうって、それを本気で怯えていた。見つけてほしい。葵だけは演じていないオレを見つけ出してくれる人だと思った。だけど、踏み込まれる勇気はオレにはない。
見栄っ張りな役名をしていると臆病になっていく。子どもが無邪気に笑って泣くように、自分も感情に素直になったら、周りにどんな風に見られるだろうか。視線を集める仕事がしたい。それなのに視線が集まるのが怖い。白い目と後ろ指を刺されないように、ただそれだけでいい人ぶるのはどうしてだろう?
役を演じた。教室でちゃらんぽらんな「ツキヤマセナ」になる。バイト先のラーメン屋は元気いっぱいな「月山くん」で、稽古場では突然海軍になった「田中」になる。二四時間、一日中。ずっと演じる中で「月山瀬名」を殺し続ける。
自分の中に誰がいるのかわからない。どこからどこまでが自分の人格で、どこから俺は演じているのか。グラデーションのように流動的に、変わっていく視界と声に眩暈がする。
自分を見失っていないか? オレはどこにいる? なぁ、オレはオレとして上手く笑えているだろうか。思い出せないんだ。
教室で男子高校生を演じる。真面目ではないけれど、人に好かれるお調子者。役名は「ツキヤマセナ」で、オレと同姓同名。周りを取り囲む友人の話を聞きながら昼食を食べて、ギャルいクラスメイトの頼みとあらば嫌な顔せず受け入れる。
「セナ、だっこ」
「ん、おいで」
好きとか嫌いとかそういうんじゃない。クラスメイトを観客とした時、舞台に立つオレに望まれる最善を演じている。彼らが思う「ツキヤマセナ」はどう振る舞うか。そこにオレの感情は伴わない、はずだった。
視線を感じる。一挙手一投足も、網膜に焼け付くほどに収めたがる。ああ、痛くて熱い。ジリジリと身が焦がれるようだ。スポットライトの真下は、熱いのに心地よい。喉の渇きすら気持ちが良い。そんなことをふと思い出した。
「セナ、放課後ヒマだよねぇ? ウチとスタバの新作飲み行こうよぉ」
甘ったるい誘いに「迷うなァ」なんて返しながら、心の中で断る理由を探していた。
クリームマシマシなフラペチーノより、横顔を刺す視線の方がよっぽど甘い。こちらに会いにいく方が、膝の上の女とデートより魅力的だ。
女の腹に手を回す。何食わぬ顔で甘ったるい視線の先に顔を向ける。
あ、マズイ。この顔はオレには甘すぎる。
視線が交錯しする。真っ黒な瞳がオレを絡めて、ドロドロと溶けたアイスのようにまとわりつく。甘くて美味しいだけならよかった。一度知ったら戻れない。知らなかった自分に「これは毒だよ」なんて親切が言えるだろうか。
目がうるさい。感情が全て両目から漏れ出ている。それがひどくきれいで美しいと思った。視界いっぱいにオレだけを映してほしいと願ってしまった。
あの瞳で全部見られている。きっとセナだけじゃない。満月の裏の影が落ちているオレさえも、アイツは見つけて、今と同じように甘ったるく見つめているんだ。
「見過ぎ」
唇をゆっくり動かして、顔を背ける。
気のせいではない。自惚れているわけでもない。その瞳に映るのはオレの姿だった。おかしくて、何でもないのにくふくふと笑い声が漏れる。
今日も放課後は教室に残ろう。そんで口下手な葵が思ったこと、瞳から漏れた色と原稿用紙に書かれた文章を、比べて答え合わせをしよう。
胸焼けするほど甘い思いをしよう。溶けるほどに身を焦がそう。熱烈な視線は役者冥利に尽きる。
だけど。
胸の奥にドロリと疑念が湧く。
その瞳に映るのは「誰」だ?
原稿をはぐったらわかる。すぐに「ツキヤマセナ」か、ふと顔を出した「月山瀬名」なのか。それでも自分が一番わかっていない。どこからがオレなのか、曖昧で自分が一番迷子になっている。
演じている。愛されたいから「セナ」になる。嫌われたくなくて「瀬名」を殺している。それでも「瀬名」を見つけてほしい。葵の瞳に「瀬名」を映してほしいんだ。「セナ」を生きるのは楽しい。それでもいつも息苦しい。葵にもきれいな月を見てほしい。まんまるな白く輝く月を「きれいだね」って見てほしい。汚れのない目で、どうかそのままでと願うのに。裏側に隠した「瀬名」も見てほしい、なんて考えるのは傲慢だ。
葵は「誰」を見ているだろう。答え合わせをするには、オレは臆病だった。
「やっぱ、今日新作飲みに行こっか」
「え〜うそ! 超うれしい〜!」
きゃあきゃあ膝の上でバタつく女に、揺らされるのイヤだな、と思う。
食べかけの焼きそばパンが喉につかえて、キリンレモンの刺激は強かった。
膝の上の女のわかりやすい好意は煩わしいと感じた。葵から向けられた視線は胸の奥がざわめく。イヤ、ではないはず。籠る熱が高くなるほど、心臓がグッと締め付けられる。
ツキヤマセナを演じて、その姿に相応しい振る舞いをする。役に徹すれば、迷いも悩みも感じないと思っていた。学校ではセナになる。それ以外の役は演じない。
後ろ髪を引かれる放課後の教室は、セナは行かない。物語の続きも、視線に込められた熱の正体も、セナは気にならない。
それなのに、帰りの電車で『海』の台本を読むたびに、電車のモーター音に混じって、筆記音が聞こえてくる。隣にいない。鉛筆の匂いはここにない。ただ、小刻みな揺れと一冊分のページをはぐる音。
「何で避けてるんだろ。バカだなァ、オレ」
向き合うのが怖かった。葵の書いた小説には、葵の目を通して見た世界が広がっている。そこに書かかれた文章は、何であろうと嘘はない。
耽美な文体で、オレはどう映っているだろう。「セナ」でも「瀬名」でも関係ない。いつだって真っ直ぐに葵は文学を通してオレと向き合っている。逃げているのは、オレだ。
青い冊子を閉じて、閉まりかけたドアから出る。
ただ、今、無性に会いたくなった。
次の電車で戻って、葵に会いに行こう。フラペチーノを奢るお金もないし、踵を潰したローファーでは速く走れない。それでも、待ってて。物語の続きを臆病なオレに演じさせてほしい。
学校前の水たまりは走るオレを映した。パラパラと降る雨の中、ただひた走る。傘はささない。雨が気にならないほど、早く会いたかった。
昇降口に傘を投げ捨て、内ばきは突っかけただけ。階段を駆けのぼって、一時間前に出た教室へ。
葵が寝ていた。紙の束を下敷きに伏せていた。
黒髪が蛍光灯の光の下で艶やかに照らされていた。細く開いた窓から風が吹いて、一斉に紙が舞う。ルーズリーフに細かな文字が書かれている。窓の外の鈍色な世界と相まって、モノクロ映画のワンシーンだと思った。
「あ!」
白い腕が伸びる。ワンテンポ遅れて舞い落ちる紙を掴もうとした。紙吹雪の向こう側と目が合う。真っ黒な瞳に熱が籠って、きれいだと思った。
「つかみ損ねた」
名前を呼ばれて嬉しくなってくふくふと笑った。「読まないで」なんてきけないよ。この話を読むために戻って来たんだ。
いつもの原稿用紙じゃない。手の中に集まったものは初めて見る話だ。もう、お前の小説に出てくる女のように、お前はオレを見てくれないのだろうか。一つの小説に縛られているのはオレだけだったのだろうか。
「読ませて」
今の葵は何を考えているの? オレが感じた甘ったるい視線は何だったの?
「オレのこと、タダで見てたクセに」
葵の視線のその先に、オレはどう映っているのだろう。自惚れたい。認められたい。お前だけがきっとオレの顔を知っている。
男の独白文を読む。ページはぐって、葵の剥き出しの感情に触れる。熱くて脆い。心の底から燃え上がる感情に名前が付かない。一人でする葛藤に救いがなくて、それでも想わずにはいられない。
「お前、いい話書くよな」
瞳だけじゃない。ペンを持ったお前も雄弁だ。
怖がって逃げたオレだけど、お前を苦しめていたのか。
「瞬きさえも煩わしいと思った」
葵はオレだけ真っ直ぐにずっと見つめていた。スポットライトの下でないオレも、葵だけは目を逸らさずに見ていてくれた。
「この手で触れたい。俺だけの光を両手で包んで隠したい。許されるなら、年に一度と言わずに川向まで会いに行きたいのだ」
愛おしいと感じた。いじらしいと思った。この文を紡いだ葵はオレしか視界にはいらない。それがたまらない気持ちで、自分さえ見失うオレを唯一見つけてくれる存在だと思った。お前は織姫じゃない。オレのポラリス、北斗星だ。視線が交差して、真っ黒な瞳に光が瞬く。
書かれた続きは読まない。イヤだとお前も今言った。
「夢で終わらせるのは惜しい。色褪せる前に会いにいくから」
7月某日。雨が降っていた。教室の窓際、最後列。
映画にする気はなかった。そんなきれいだけの感情はオレも葵も渦巻いていない。
昂った気持ちを相手に伝える方法を、オレはこれしか知らなかった。唇で熱を分け与える。触れた一瞬で気持ちを全て表せない。
睫毛が触れそうな距離でもう一度視線が交わって、優しく口が塞ぐ。
静かに離れて、葵の頬をまた優しく包み込む。
「夢でなくてもさめないで」
光が瞬いている。真っ黒な瞳の奥に、初めて見る熱があった。
「演技抜けてないよ」
「……今のは演じてない。今の役は月山瀬名」
悪い顔をしているのが自分でもよくわかる。
ドロドロに溶けた顔を両手の中にしまい込んで「こういうの、違った?」だとか「悪い男に捕まちゃったね」とか、甘ったるく口から溢れる。
知らない表情にコロコロ変わる葵を見て、ただ「かぁいいね」と言った。砂糖を吐くほど甘かった。