第七話 艶書に口付け
文字にして、あの一瞬を切り取るには言葉が足りない。
【引用:葵の創作メモより】
昼間は会える。話すわけでもないが存在を観測。生存確認のように。授業中ゆらりゆらりと船を漕ぐ頭を見て、約束もしていない放課後を考える。
眠たそう。忙しいのかな。今日はバイト、稽古、遊びに行くの? そのまま直帰で夢の中だろうか。来るの、来ないの、はっきりしてくれ。ひとりぼっちは慣れていたはずなのに、お前のせいで前みたいに空っぽの教室にいられないんだ。
一週間。瀬名って呼んでない。毎日お前宛の手紙を何枚書いたと想ってるんだ。ルーズリーフにだらだらと、小説とは言い難い。原稿用紙に向かわせてくれよ。お前に向けた短編なんて書くはずじゃなかった。書いている場合でもない。
終礼が終わった後の教室で、黙々と続きを書く。
とてもじゃないが公募には送れない。たったひとり、自分だけのための文章に生み出したくせに「ごめんなさい」の気持ちを乗せる。誰にも見せられなくてごめん。日の目に当たらないまま、書き終わったらゴミ箱行きだ。名前を伏せて、お前を書いている。なのに、お前に読まれるのは御免だ。見せられない。読ませられない。お前に宛てた文学だ。
――だから。
読まれたら「告白」になってしまう。
瀬名を恋慕っていることが伝わってしまう。
ペンが走る。終着はわからない。小説の行き先はわかっても、お前への気持ちは迷子なんだ。俺はどこで終わらせたらいい? 何をもってゴールにすればいい? 起承転結の「結」とは何だ。ぐちゃぐちゃに絡まって、先も終わりも見つからない気持ちを、俺はどう結べばいいんだ?
黒のシャーペンを机に転がす。さらりと最後に書いた文を思って瞑目する。
「我のみぞかなしかりける 彦星もあはですぐせる年しなければ」
会いたい。話したい。
織姫と彦星だって、毎年必ず二人で会っている。巡り会わない年はないんだ。
俺たちはどうなんだろう。この次なんてもう来ないかもしれない。約束していない。明日会おうも、来年の今日に会いましょうも瀬名は言わずにいつも帰る。
「ひこぼしぃ……」
意味もなく呼びかけて机に突っ伏す。会いたい気持ちを募らせて一年我慢するとか無理すぎる。機織りの代わりに小説書いてる織姫か、俺は。
バタバタと椅子の下で足踏みをする。手も机の天板でぺちぺちとドラムロールする。誰も見てない。ひとりぼっちは何をしても許される。
ばっと顔を上げて、ペンを握る。
――夢の如 おぼめ枯れゆく世の中に いつとはんとかおとづれもせぬ
夢のように霞んでいく。お前のいた日常がぼんやりと色褪せていくんだ。瀬名、いつ来るの。夢だったの。またふらっと扉を開けて、そこに座ってくれよ。
――思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを
夢だった? 暮れ方の教室でみた白昼夢だったのだろうか。
お前の声を聞いてペンを動かして、目が合ったら微笑んで。突然俺の書いた一節を別人になって読んで。パックジュース一本分の雑談をして、観たい映画が増えたんだ。時代劇も任侠映画も、ヌーベルバーグも知りたい。瀬名の見ている世界に触れるたび、活字だけの世界に色が付いていくんだ。
夢を見ていたのかもしれない。幸せな夢を瀬名を思って見ているのだ。終わりがあるのなら、なぜ物語は始まるのか。覚めることを知ってもなお、俺は夢を見ている。
続きを紡いでペンを置く。
飾らない感情の垂れ流し。パラパラと窓を打ち付ける雨のように、行くあてもなく文字が落ちた。
ふぅと長く息を吐いて、そのまま机に額を当てる。
ひんやり、かたい、つめたい、きもちいい。細く開けた窓から風が頬を撫でる。授業中に寝る瀬名は、一等優雅な時間の使い方をしているんだと思った。
ゆるく足をぶらつかせて、風に身を委ねる。はたはたと指の先でルーズリーが波打って、耳元で心地よい音を奏でる。
ほんの少し気がとんだ。指の先が離れた。花びらのように白黒が舞った。
「あ!」
顔を上げて一枚を掴む。ルーズリーフの束がはらはらと散る。表裏、他と重なって。蛍光灯の光でシャーペンの文字が銀にも見える。綺麗だと思った。美しいと思った。だから手元の一枚を残して、下に落ちるのを最後まで見た。
乱雑に床に並んだモノクロの海の先。そこに同じように伸びた手があることに、気付くには遅かった。
「つかみ損ねた」
「せ、な」
くふくふと笑いながら床に散らばった紙を掬い取る。一枚、二枚と瀬名の細長い指先に紙の束が出来上がる。俺の心の柔らかくて脆い部分。瀬名が丁寧に触れていく。
「な、だ、ダメ! 読まないで!」
ガタンと椅子を倒して、瀬名の持っている紙の束に手を伸ばす。
鼻歌まじりに「どうしよっかな」と意地悪に微笑まれて泣きそうになる。
読まれたくない。読んでほしい。気付かれたくない。知ってほしい。傷付きたくない。忘れたい。ぐちゃぐちゃの気持ちが絡まって息苦しい。言葉が出ないまま、唇を噛み締めて手を伸ばす。取り上げはしない。言葉足らずで癇癪起こす子どものように「ん!」と返してのポーズを繰り返す。
自分でもどうしたらいいのかわからないんだ。書き終わった物語の終着は夢の中だ。脳内はお喋りで、言葉は洪水のように溢れて波打っている。それなのに、俺の体も口も、不器用でノロマだから何もできない。出力データはお前が来てからナウローディングだ。
「原稿用紙じゃない。葵の新作?」
口の端をニヤリと歪ませ、首がコテンと傾く。
伸ばした手をそのままに、一度頷いて左右に力なく振る。
瀬名がじっと見つめてくる。瞳に吸い込まれるように目が離せない。
「読ませて」
人の機微には聡いと思う。言葉にするのが人より遅いから、相手を怒らせないように観察している。一瞬の心の揺らぎ。俺にイラついている、痺れを切らした、否定しないからご機嫌だ、なんて。その人のまとう空気は案外小さな変化から見て取れる。
見えなかった。いや、わからなかった。初めて見る顔を瀬名がしたから。何をまとった空気なのか、何を思った色が乗った言葉なのか。
「あ、えっと」
「オレのこと、タダで見てたクセに」
キュウと目が細められ、薄い唇が弧を描く。心臓が早鐘を打って耳の先まで熱くなる。綺麗だ、素敵だ、見せたくない。この手で文章の中に閉じ込めた瀬名より、ずっと実物は魅力的だ。
細く長い指先がはらはらと次のページをくる。緩やかに髪を掛けて、ピアスが蛍光灯で輝く。ゴールドのフープピアスがいやに煽情的だった。静かに息を呑んだ。ページをはぐる音だけが教室に響いた。
瀬名が新しいページに目を向けるたび、俺の心臓は柔く掴まれるようだった。
口は弧を描いたまま。細長い上弦の月が浮かんでいる。時々睫毛が影を落として、こちらをついでに流し見る。
瀬名に薦められた映画。全部は見ていないがこんな演技は誰もしていない。ハニトラが十八番のスパイだって視線で人は殺せまい。
「お前、いい話書くよな」
最後の一枚に手を掛けて、瀬名がポツリと零した。
意図がわからず不安気に見つめると、茶色い瞳が細く垂れた。
視線が交わったのは一瞬。その間で俺は瀬名に遊ばれる。捕まった。離れられないんだ。俺はこの男の手の上でいつから踊っているのだろう。
愛おしい。触れたい。汚せない。目線一つで殺されて、生かされるのもお前の瞳が綺麗だから。苦しいのに離れられない。知らないフリして息はできない。
息を吐く。バレてしまった。
このまま拒絶されて夢が泡沫の如く消えてしまう。優しい瀬名でもクラス中に噂をするだろうか。教室の一角は孤島に成り果てるだろうか。
幕引き直前の役者は、俺と同じように、最後まで世界は明るく見えているのかもしれない。
俺はシンデレラにはならないから、この物語は駅のゴミ箱にでも投げ捨てよう。そのままゆっくりと、鮮やかだった日常に幕を下ろすんだ。ひとりぼっち。お前のいない放課後が俺の舞台だ。最初から最後まで、俺の一人芝居がシナリオだろうから。
瀬名の顔が上がる。まあるい頭がふわりと揺れて、距離が一歩詰まる。
風の音が清かに聞こえる。水面に一つ雫が落ちる。波紋が広がるように、静かに琴線が震える。
「瞬きさえも煩わしいと思った」
宇宙に輝く星はとても熱いと聞く。
「この手で触れたい。俺だけの光を両手で包んで隠したい。許されるなら、年に一度と言わずに川向まで会いに行きたいのだ」
伸ばされた手は熱くて、指先はほんの少し湿っていた。視線が交差して、背骨から震える。火傷の瞬間に熱を感じない、それと同じだと気付くには時間をかけすぎた。
「夢で終わらせるのは惜しい。色褪せる前に会いにいくから」
――だから。
この続きを俺は何と書いただろうか。いや、どこまでが俺の書いた文だっただろうか。瀬名の演技はいつから始まっていたのだろう。
7月某日。雨が降っていた。教室の窓際、最後列。
映画にするには勿体無いと思った。触れた唇の熱を、表す術を俺たちは持っていない。
睫毛が触れそうな距離でもう一度目線が交わって、優しく口が塞がれる。
静かに離れて、両頬だけから瀬名の熱を分け与えられる。
「夢でなくてもさめないで」
一瞬の余韻を永遠に感じた。触れられた熱に浮かされて、すぐそばの瀬名が足りないと思った。触れば火傷、想うだけでも身を焦がす。包み込まれた手に擦り寄って、俺が映る瞳を覗き込む。
光が瞬いている。焦げ茶色の瞳の奥に、いつか演じていた女の熱を感じる。
「演技抜けてないよ」
「……今のは演じてない」
にへらと笑いながら「今の役は月山瀬名」と悪戯っぽく続いた。