第六話 裏面の曲のようなもの
下校中、電車に揺られながら寺山修司を読んだ。
「片思いはレコードでいえば、裏面の曲のようなものです。どんなに一生懸命唄っていても、相手にはその声がきこえません」
サブスク時代にレコードのことはわからないが、悲痛な音が流れても相手に聞こえないのは幸せだと思った。
【引用:葵の創作メモより】
教室では喋らない。呼び方も「月山」と「松平」
笑い声のやけにデカい、男女混合キラキラ集団で瀬名は焼きそばパンとキリンレモンを昼食としているし、教室の端でオレはひっそりと弁当を食べながら、数少ない友人の話に相槌を打っていた。スクールカースト最上位。声の大きな集団の中で、唯一上品そうに笑う男と関わりが出来るなんて、やっぱり変だと思う。
シャクシャクとプチトマトを食べながら、瀬名を見る。視線は交わることは無い。あくまで俺は教室の中でも月山瀬名の観客なのだ。
流れるようにスカートの短い女の伸ばした手を取って、そのまま膝に座らせる。
「は?」
「まっつん?」
上杉の会話を遮って、思わず反応してしまった。何でもないよと首を振って、上杉に話の続きを促す。味のしなくなった卵焼きと唐揚げを執拗に咀嚼する。
うん、そうなんだを繰り返して、話は何も耳に入って来ない。視線は固定だ。膝。女。坂井さん。退けるそぶりもせずに、瀬名はそのまま焼きそばパン食べてるし、周りも周りで囃し立てるし。最悪だ。何なんだアイツは。
つかえそうな喉を鼓舞して嚥下する。見なきゃいいとはわかるけれど、やめられないのが人の性。今日の昼飯が美味しくなかったのは瀬名のせいだ。
ガチャガチャと空の弁当を片付けていると、瀬名と目が合う。挑発するような視線。余裕そうな表情。薄い唇はゆっくりと動いて、無音のまま「見過ぎ」
「なっ!」
ぐらっときた。ばくばくと脈打った。放課後、瀬名の演技を特等席で見る時と同じように息が詰まった。
瀬名が見てる。日中滅多なことで交わらなかった視線が交差して、イタズラされた。思考全部が一つに収束する。瀬名しか考えられなくなる。
日本史の時間も瀬名。英文読んでも瀬名。塩基配列も核酸も、アミロースもノートに書いていない。瀬名。瀬名しか考えられない。ルーズリーフに文字を連ねる。胸に浮かんだこと。覗いてしまった瀬名の顔。文学は許される。苦しいと思う気持ちを書いて、書いて、海に流す。活字の洪水に流してしまえば、白黒の海の底に劣情さえも沈んでいくだろうか。
チャイムが鳴って、空席が増えても、自分以外が空席になったことに気付かないまま、ルーズリーフは真っ黒く染まる。上から順に、白が減る。表が終われば裏返して、また順に黒が波のように押し寄せる。
小説と言えるだろうか。名前のない感情、定義をしたくない想い。溢れて止まらない、心を乱すドロっとして、柔らかくて、黒く、時たま光って熱く冷たいモノ。わからないは何なんだ? 俺は何が知りたいんだ? 正体不明を暴きたいのに怖くて一歩は進めない。葛藤も全てだ。ルーズリーフに書き連ねる言葉は、結局自分の独白文。
何枚あっても辿り着けない。辿り着かないようにしているのかもしれない。
許されたい。知って欲しい。見つけて欲しい。矛盾だらけの歪な承認欲求は、それでも隠し通したい。
書いて、書いて、書いて。答えに向き合えるまで書いて。
今日の放課後もひとりぼっち。斜め前の見えない丸い頭を想って、苦しみながら一文を紡ぎ出す。
読んで欲しい。そっくりそのまま演じて欲しい。俺の気持ちを写し鏡のように見て、馬鹿だなって、お前の前で宝物に鍵をかけたい。
文学はフィクションだ。何枚目か数えていないルーズリーフの束に書いてある言葉も、物語も。なぁ、瀬名、全部がフィクションなんだ。俺が作り出した物語。独白という名の告白でもないし、長すぎる恋文でもない。
――だから。
瀬名。お前の名前、俺ずっと呼んでないんだ。
どうして今日も俺をひとりにするんだ? 昨日も一昨日も、その前も。
瀬名、ひとりぼっちの教室は俺には広すぎる。お前の声も、お前の笑い声も聞こえない教室は、俺のペンが滑る音しかないんだ。斜め前の席は、お前が座らないから黒板がよく見える。放課後に授業はないっていうのにさ。意味がないんだ。
「瀬名」
空っぽの教室に溶ける。間延びした「なぁに」がなければ独り言だ。
「返事がないから続きが書けないんだよ、ばか」
じっと空っぽの席を見つめる。煙と一緒に瀬名が現れる魔法は使えないし、見ていたところで教室の扉が開くこともない。
くふくふと可愛いらしく笑って、悪戯っぽく目を細める。時に妖艶に、切実に、威厳を持って。コロコロと変わる表情に、真っ直ぐ通る声。明るい髪から透けて見える瞳。星屑を閉じ込めた両目。
口パクで「見過ぎ」
瀬名にバレたのか。見つかったのか。
パチッと音がして、手元で細い芯が跳ねた。そのまま黒のシャープペンシルを置いて、乱雑にルーズリーフを束ねる。俺は唇を噛んだ。