第四話 紺碧も青かと君に問ふ
青色……浅葱色、群青、紺、紺青、紺碧、白青、水色、瑠璃色。
ライトブルー、セルリアンブルー、コバルトブルー。
青信号、青い顔、草木が青々と茂る。
【引用:葵の創作メモより】
二日続けて放課後は一人で、三日目の金曜日。帰る直前に月山が教室に入って来た。
「……まつだいら、オレって言うほどバカなんかなぁ」
迷子になって泣きそうな子どものように見えた。蛍光灯を消した教室に佇む月山の表情は薄暗くてよく見えない。ペコペコな学校指定のスクールバッグは肩から落ちかけて、クラスでもそこそこの高身長は萎んでしまっている。
声が悲しそう。何に苦しんでいるのか、まだわからない。彼の友達と呼ばれる人に比べて、俺は月山のことを何も知らない。「どうしたの」も「大丈夫?」も俺は月山に言う資格があるだろうか。
高校二年生は子どもと定義するには大きすぎる。それなのに、目の前に立つ月山はあまりにも幼く見える。かわいそう、泣かないでほしい、いたいけで、いじらしい。胸が苦しくて、息が詰まる。心の中ではお喋りなのに、たった一言も俺は月山にかける言葉を見つけられない。
静かに歩み寄って、細く節くれだった手を引く。
俯いていた顔が上げられて、黒目がちな瞳に水膜が張ってあることに気付いた。綺麗だと思った。寂しい夜に輝く星は、月山の目の中に落っこちたんだと大真面目に俺は思った。
「お前がそんな顔してどうするよ」
「……っかんないよ。わかんない。でも、月山が泣きそうだったから」
「ばっかじゃねぇの」
またそうやって、月山はくふくふと笑った。目頭がキュウと熱くなって、喉の奥が潮の味がした。触れた指先から上がった体温がバレてしまいそうで、それでも離れたいとは思えなくて。自分の書いた小説の中の女と一緒だ、と気付いてしまったら、月山が……月山が何だというのだ?
「あのさ、俺が力になれることだったりする?」
目が細められて、短く「うん」と返事がある。松平はいつも目がうるさい、と理解に苦しむダメ出しに、同じように「うん」と返した。
「昨日の稽古、役が浅いって言われてさ。悔しくって、さっきまで勉強してたんよ」
おもむろに一枚のルーズリーフを取り出して、月山は俺に手渡す。
びっしりと細かな字と歪な地図が黒一色で書き込まれていた。
「これって……『海』の時代考証ってこと?」
コクンと首を縦に振って、月山は「わかんなくなっちゃったんだよね」とえへへと笑った。口調はいつものふざけ調子なのに、静かな悲鳴をあげていた。
「オレさ、当たり前だけど戦時中にタイムスリップしたことなんてないし、海軍の軍人でもないだろ。お前もだけど、死んだこともないんだよ。でも、わかんないって投げ出すのは違う。なあ、そうだろう?」
小説だって知らないことばかりだ。出来ないことも想像の域からは出ていかないし、それでも、想いを馳せることはしたい。わからないことも、知らないことも、内側を覗いて理解して書いていきたい。俺から見た世界を俺が書くんだ。世界の真理も現実も、高校生の俺らはその一端しかわからない。それでも、向き合って真摯に受け止めて落とし込んでいきたい。わからないから調べたい。知らないから学んでいきたい。たかだか授業の教科書の薄っぺらい部分もままならないのに、あれだけでは足りないのだ。書きたい部分、一章、一文の背景はもっと壮大だ。月山の演じる一瞬も、日本史の授業程度では足りないのだ。もっと深く、もっと鋭利に人の心を抉りたい。生きている時間に対して、学んで表現出来る知識はちっぽけだ。わからないで立ち止まれない。ああ、そうだよ。
「松平、お前しかきっとわかってくれない。たかだか紙切れ一枚分くらいの文字数で、人を定義するのはナンセンスだろう?」
否定も肯定もしない。ただ、肩からカバンを下ろして、そのまま空いている机に向かう。
俺なんかよりずっと深く世界を見ている。紙切れ一枚に時代の背景も、歴史の暗い足跡も細かに書かれている。調べながら何を思っただろう。煙と埃と血生臭さ。少年『田中』として月山はページをはぐったのだろうか。涙を堪えた? 唇を噛んだ? 目を背けただろうか。
「資料読んで、調べて、月山は何を感じたの」
長く息を吐く。紫煙を燻らせるように、気だるげに月山は俺を流し目で見た。
「白黒とセピア色の世界は、青がなかった」
美しい表現だと思った。感情論でモノを言わない月山の言葉は意外で、でも、言いたいことは妙にストンと腑に落ちた。苦しい、痛い、怖い。そんなありきたりな感想で、きっと月山は役に向き合っていない。
「青がない」にどれほどの思いを込めたのだろう。いつも白黒の文字と葛藤している俺は、ステージの上で色鮮やかに表現する月山と目が違う。網膜に焼き付くほどの色彩、肌を焦がすほどの光、体まで震わせる音。三次元世界に生きている。
「いいな。俺と違ってお前の世界は鮮やかだ」
くふくふと笑う月山に、仄暗い影は落ちていない。幸福そうに小麦色になった頬を搔く姿は、幼げに見えた。廊下に伸びる西日が夏の夕方の時刻を教えてくれた。
「駅まで一緒に帰ろうぜ」
小さく頷いて、同じ目線で並んだ。コンクリートは日中の照り返しを抱え込んでいるみたいで、夏の暑さに溺れそうだ。直射日光とは違う、暑さの飽和。こぽこぽと金魚が呼吸するみたいに、学校外で歩く月山の隣は息が詰まる。
「なぁ、来週もたまに放課後一緒に残っていい?」
「俺なんかの許可いらないと思うんだけど」
長い長いため息と、ローファーで脛を軽く蹴られる。ばっかじゃねぇの、と吐き捨てられるが、何に呆れられたのかはまた今度考えよう。
「オレは、松平と一緒にいたいって言ってんのね」
「……俺と?」
自分の声が随分素っ頓狂でびっくりする。
ありえない。なんだって友達一〇〇人余裕で出来るような人間が、俺なんかとわざわざ放課後を一緒に過ごそうなど考えるものなのだろうか。ファミレス、カラオケ、ボウリングにゲーセン。同じように髪を染めている友達や、ストラップで重たそうなスクールバックを持ち歩く、そんな女の子たちと過ごすのが似合っている。いや、ほぼ毎日そうやって月山は放課後を過ごしていると思っていた。
「何で? 俺より月山と一緒にいるべき友達なんていっぱいいるだろう?」
毎日ひとりぼっちで机に向かっている俺は、同情されているのか。
人気者でクラス内外問わずにモテて、成績はイマイチでも先生たちにも許される。世渡り上手で、俺にないもの全部持っている人。かわいそうだと憐れんだのだろうか。からかってやろうと遊ばれているのかもしれない。
「……松平の隣は許されるから。お前の隣は安全だから一緒にいたいと思ったから。ダメ?」
「だめじゃないけど」
月山を前に俺は否定なんて出来るわけないのだ。ぐっと息をのむ。にへらとだらしなく笑った顔に覗かれる。敵わない。勝てる日なんてずっと来ない。
「仲良し以外は一緒にいたら良くないの? オトモダチ以外は隣にいられないって、お前、そう思ってる?」
夏の空気に溺れたように、はくはくと浅く呼吸を繰り返し、俺はやっぱり黙り込んだ。
「瀬名って呼んで。葵って呼ぶから」
「は、え、え?」
突拍子もない発言は何度目だって驚く。悪戯が成功したような悪ガキの顔をして「葵ってめんどくせーから。そういうことね」って、スタスタ鼻歌まじりに駅に向かった。
「せ、な?」
なぁに、と間延びした声が三歩前から聞こえる。丸い頭がご機嫌そうに揺れていた。ゆるく歌われるCMソングは、世界で一番愉快な歌だと思った。