第三話 君かたるなよ夏の夜の夢
誰にも言わない二人だけの秘密にしようと和泉式部は和歌を詠んだ。
全ては春の夜の夢。黙っていれば、夢になる。
「枕だに知らねば言はじ見しままに 君かたるなよ春の夜の夢」
【引用:葵の創作メモより】
銃声。
田中、うずくまり、耳をふさぐ。
浜松、田中の肩を抱き寄せる。
田中 もう嫌だ。戻りたい。怖い。死にたくない。
はたと顔を上げる。ト書きと台詞。赤ペンで走り書きが所々。
冊子を閉じて表紙を見れば、劇団ヒノヒカリと印刷されている。
「劇? 台本ってこと?」
書き込み、マーカーが多い役から見ると、田中という少年役らしい。
月山の机から出てきた。月山の筆跡で書き込みがある。メモの内容から見ても、真っ直ぐに向き合っていることは確かだ。赤い文字を指でなぞって、あの熱の籠った目を思い出して、脈拍が上がった。
見つけた。見つけてしまったんだ。あの日の放課後、俺の小説を読んだ一幕は、勘違いじゃなかった。月山は俺の小説の一部分を切り抜いて、演技していたのだ。
印刷された文字を読む。赤で書き込まれた想いを馳せる。時計の秒針だけが聞こえる教室で、舞台「海」に俺は身を投げた。声が聞こえる。表情が変わる。張り裂けんばかりの悲しみも、高校生らしい無邪気さも、月山の姿で見えるのに、月山ではない誰かの姿がチラつく。波の音も、汽笛も、太陽の日差しも。月山はどんな顔で見ているんだろう。
「海は、ずっと広くて。青色だからきれいなんだ」
目で追っていた文字が再生される。背後に『田中』が立っていた。
「空が青いのも、潮風がしょっぱいのも、おれたちには当たり前……当たり前でいいんだ。いや、当たり前だからいいんだよ」
遠く窓の外を見つめて、手が伸びる。指先に夕日のオレンジ色が触れて、差し込んだ蜂蜜色の柔らかい光が、彼専用のスポットライトになった。
急に肩から力が抜けて、だらりと腕が下りる。顔の半分が照らされて、長い睫毛が金色に見えた。悪戯っ子な表情には、もうどこにも『田中』なんて少年の面影はなかった。
「その本、オレのだよな?」
首を縦に振って、おずおずと青い冊子を返す。ありがとぉと間抜けな返事に、俺は黙って頷いた。
「オレね、ちっちゃい劇団で役者してんの。市民劇団って言ったらいいかなぁ。とりあえず舞台俳優? してるんだよね」
海と書かれたタイトルを愛おしそうに指でなぞる。それだけでも教室で見る月山より、ずっと大人びて血の通った人間だった。
「『海』は八月公演の話。お前は来る?」
「……えっと、俺なんかが恐れ多い、です」
じっと見つめられる。俺より色素の薄い茶色みの強い瞳の中に、俺の姿だけが閉じ込められていた。
「こういう舞台って、友達とか、彼女とか、仲が良い人が観に行くべきだと、俺は思うんだけど」
「アイツらは呼べないよ」
間髪入れずに否定される。月山は真っ直ぐに俺を見ている。吸い込まれるってこれを指すのか。
「演技してるってこと、学校ではお前しか知らない。言うつもりもない。だから、松平に来てほしい」
「ごめん。月山の秘密は誰にも言わないから」
だんだん尻すぼみになっていく言葉に、月山は盛大な舌打ちをした。
「そういうんじゃなくて! 松平は笑わないだろう!? オレと同じで、バカにしないだろう!?」
「何を……笑うの?」
呆気に取られて瞬きを繰り返すと、くふくふと愉快そうに月山は笑った。
「松平もさぁ、人に黙って小説書いてるんだろ。一人で黙々と、孤独に耐えながら夢追ってる仲間なんじゃないかな〜って。オレ、思ってたんだけど」
人に黙って。孤独に耐えながら。夢を追っているかは分からない。
それでも、似ていると思う。胸に秘めた情熱は、俺もこの人と同じだ。
月山は何を目指しているのだろう。大劇場に立つ舞台俳優か、ドラマに引っ張りだこのトップスターか。ミュージカル俳優なんてこともあるかもしれない。どれにしたって、大真面目に同級生に語るのは些か恥ずかしい。教師に言えば「現実を見てから言いなさい」と一蹴されるだろう。
俺は、俺はそんな大きい夢なのだろうか。趣味というには優先順位が高すぎる。
本を書く。文字を書く。授業中にメモを取るように一文を紡いで、息をするよう思いを書き綴る。生活の延長に文学があって、友達に見せるわけじゃないのに、数万字の純文学が手元に幾つも生み出されている。上手く書けたら公募に出す。会ったこともない審査員だけが俺の唯一の読者様。感想なんて大層なものは聞こえないけれど、いつかこの胸の内を誰かに知ってもらいたいとは思っている。松平葵ではない名前で書かれた俺の物語。知られたくないのに見つけて欲しい。
「仲間、かもしれないね」
俺が絞り出した言葉に、月山は細く笑って、自信たっぷりに「だから、僕は見つけて欲しいだけなんだ」と宣った。同じ台詞でも、以前の切羽詰まった演技とはまた違う。堂々と、朗らかに。見つけて欲しい心の内が、月山の手にかかれば正当化されていく心地がする。
緩い風が柔く髪を揺らす。茶色な月山の毛先は金色に透けて、長い睫毛は影を落とす。綺麗だと思った。月山から目が離せなくて、ふっと笑った声に返事は出来ない。放課後の教室で、この魅力的な振る舞いは誰の演技なのだろうか。月山瀬名の演技の幅がわからない。彼の本当の顔がわからない。
「今日のことも、オレらのナイショな」
青い冊子を片手に、月山は教室を後にした。
翌日の放課後も、俺はいつも通り窓際の一番後ろに座って、人気が無くなるまで宿題をしていた。英単語を調べて、古典の現代語訳をして、提出期限までだいぶ余裕のある日本史のワークも終わらせた。
視界の端。斜め前に一人。まあるい形の良い頭がひょこひょこと動く。時折ぶつぶつと念仏みたいに言葉を発して、ううんと低く唸る。
俺だけの居場所だと思っていた。テスト前じゃあるまいし、俺だけが使っている放課後の教室だった。
ワーク、ノート、教科書を閉じて、ペンを置く。音に反応した月山がチラリとこちらを向く。ほくそ笑んで、またぶつぶつと昨日の台本に視線を落とした。
なんなんだ? どうしてお前はここにいる?
明るくて、人当たりも良くて、誰からも好かれるお前が。どこに行っても居場所があるお前が、何でよりにもよって、放課後の誰もいない教室に居座るんだよ。
原稿用紙を広げて、続きの行から文字を書き出しても、月山の声が脳に絡みついて上手に動いてくれやしない。口の中でボソボソと発される声でさえ、よく通るのだ。指先にも絡みついて、文字が紡げない。
ふざけんな。俺の居場所だったのに。俺だけの放課後の不可侵領域だった。
数文字書いて、ふぅと息を吐く。目を閉じて続きを考えるけれど、浮かんでこない。
「やっぱオレじゃまだった?」
「……そういうわけじゃ、ない、です」
「でもさっきから全然進んでなくない? ペンの音聞こえないもん」
カタンと椅子を引いて、月山は俺の前に座り直した。
「読んでやろうか? 松平の話、主人公好きなんだよ」
俺の返事も待たずに、月山は机上の原稿用紙を掬い取った。長い睫毛は影を落として、憂えるように文字をゆっくりとなぞるようにして目で追う。
「ゆるされるなら、貴方に触れたいと思ってしまったのです」
ツウと指先で文字をなぞる。艶っぽく、妖しく。ぽってりとした赤い唇からこぼれた言葉のように、目を細めて笑う。
「貴方を知りたいと思ってしまったのです」
女がいた。妖艶な女が恋をしていた。女のように高い声色で読まれたわけではない。女の長い黒髪も、紅を引いた唇も月山にはない。それなのに、だ。
「正体不明な貴方だから、私は夢中になってしまったのですよ」
微笑みながら、小首を傾げる。ここに月山という男はいない。
息を呑むような女がいる。恋する一人の女がそこにいた。
ハラリと原稿用紙が机上に置かれ、見慣れた悪戯小僧のような笑みを浮かべる男になった。
「今日は女役の気分だった。ど? 惚れた?」
「月山ってこと、途中まで忘れてました」
「わ〜葵ちゃんウブくてかわよ〜」
ケタケタと笑われて、無言で俯く。耳まで熱くてまともに月山の顔が見れない。
昨日書いた文だ。図書館で書き殴ったフレーズを、原稿用紙に書き起こした文だ。文学は俺の言葉だ。何を思って書いたのか。思い出すには鮮明すぎる。
――正体不明な貴方だから、私は夢中になってしまったのですよ。
恍惚感。独占欲を剥き出して、葛藤しながら尊敬と思慕を持って。全部を抱えた恋する女の瞳だった。
この台詞を書いたのは俺だ。演じた月山の解釈が過大だったとは思えない。俺が書いた一文は、女の気持ちが載せてある。
声にならない言葉の数々は文字にすれば、俺の言葉として生まれていく。日々混沌とした感情渦巻く胸中は、文字にすることでスッキリする。出来事を書いて、感じたことを忘れないように切り取る。日記の延長を原稿用紙に書いてしまえば。
顔を上げる。目線が交差して、月山に吸い込まれると思った。
キラキラと光を吸い込む月山の瞳の奥。泡がはじけるように爆ぜた。
――だから。
続きは書けない。自分の気持ちに名前を付けるには曖昧で、これはきっと赦してもらえない。
ペンを取って続きとなる一文を書き出す。
月山はくるりと前を向いて、また青い冊子に視線を落とす。
丸い頭はまた小刻みに揺れながら、ボソボソと台詞が響いて、赤ペンで書き込みを入れている。
さっきよりも近くなった声に口角を上げたことは、お前にはバレていないだろう。
ペンを取って物語の続きを紡ぐ。まだ息は苦しいが、ほんの少しだけ楽になった気がした。