第二話 溟海に迷ふ
メイカイという音を文字にあてると、冥界、明快、明海、溟海……と漢字が並ぶ。
あの世を平易に表すと、明るい大海原になるのではないかと思った。
【引用:葵の創作メモより】
突然の梅雨明けも、連日の猛暑も、相変わらず教室という閉じられた世界には関係がないらしい。決まった時間に始業のチャイムが鳴って、お利口さんに授業をきく。半袖のワイシャツは登校時に汗だくになっても、板書を写していれば乾いている。ボソボソと要領を得ない古典の老先生も、宇宙言語を話し始める数学も、流れるように右から左、言葉はするりと消えていく。
……だから、僕は見つけて欲しいだけなんだ。
俺が綴った言葉。あれから何度も耳の奥で彼の声で再生される。数式に混じってノートに書いた台詞を、指の腹で優しく撫でる。
見つけてしまった。放課後の箱庭で、月山瀬名を見つけたのは俺だ。俺の書いた小説を読んだだけ? あの一節を演じただけ? 彼のよくやる気まぐれかもしれない。それでも気になって仕方ない。
「問三、月山ァ。寝てないで答え言ってくれ」
不機嫌そうな小田先生を欠伸しながら一瞥し、ノートをはぐる。間の抜けた声で「わかりませ〜ん」と着席する。左耳のピアスが光った気がした。
「月山ァ、昨日の夜は何で夜更かししてたんだ?」
「フツーに……ゲーム? いや、女の子と遊んでましたってことにしていいっすか?」
バカヤロウという先生との掛け合いに、教室がどっと笑い声で溢れる。胸の奥がチクリと小さな針先で刺された。プツッと柔らかいところから血が滲んだように、痛みより違和感。
違う気がする。
ゲームも女遊びも月山はしそう。昼休みは教師の目を盗んでスマホゲームをしているし、彼女はいたり、いなかったり。女友達も多いから、彼の恋人の定義は分からない。
――見つからない。見つけて欲しい。ただ、そう願うことの何がいけないのさ?
放課後の真剣さ、昂った熱量が彼の本物なのだろうか。教室の、この不真面目な姿は何者なんだ。
お前がわからない。
――僕はいつだってお前にはなれないんだ。
ずっと心の奥を引っ掻き回されている。目の前が一気に突然スパークして、衝撃的だった。
ここに居た。俺の書いた小説の世界はここにあった。
白黒の文字の文学は、読み返しても僅かに色はある。それでも、小説という活字世界は映画やドラマに比べたら薄暗い。音がある。声もある。それでも鮮明にはならない。ノイズがかって、セピア色に近い。文字によるフィクションは、どんな話でも仄暗い。脳内再生は作り物の域を出ない。
葛藤も理想も。月山は俺の胸の内全部を、透明感を持って言葉にした。
「何者なんだ?」
生きていると思った。救われたと思った。
誰にも言っていない秘密なのに、月山にはバレて良かったと思う。
小説を書くこと。放課後、部活に属さない俺は、勉強をするふりをして教室で小説を書いている。毎日教室の隅で文庫本を静かに開いて、一日を過ごす。極度な人見知りで、あがり症なせいで最小限の友人。口数も少ない上に、何考えてるのかわかんないヤツが小説書いているなんて、馬鹿にされるのがオチだ。少ない友達に見せるわけに書いているわけじゃない。ネットに上げるわけでもない。ただひっそりと。誰にも言えなかった独白を文字にして赦されたいだけだった。
いつから始めたのかはわからない。明確なきっかけがあったかすら覚えていない。それでもただ、息苦しい教室という世界で、ほんの少しだけ自由に泳ぎたい願いを書き連ねている。活字の海は俺の居場所なのだ。
薄暗い海の中から顔を出したとき。人魚姫はさぞ嬉しかったであろう。色鮮やかで光の差し込む世界はキラキラ輝いている。月山を見つけた放課後、俺は同じことを考えたのだから。
近付きたい。もう一度、あの目で声で色を付けて欲しい。願い事は魔女に叶えてもらわないとだろうか。ただでさえ出ない声を、俺は奪われてしまうのだろうか。
数式の代わりに、呆然と不安を文字にする。
――近付いて、泡になるのはどちらだろう。消えてしまうのは怖い。君が僕の中から思い出さえも抱えていなくなってしまうのは、もっと怖いんだ。
――だから、
授業終了のチャイムが鳴る。顔を上げて、シャープペンシルの先を仕舞う。
ガヤガヤと放課後特有の喧騒が周りに溢れる。教科書を通学カバンに入れる音。カラオケ、買い食い、部活の予定。明日までの宿題の確認。また息が苦しい。
開きっぱなしのノートを目でなぞる。書き途中の「だから」の続きを思って、静かにため息を吐く。
だから? だから何だというのだ。書く勇気もないくせに。心の中だけはおしゃべりな自分に嫌気が差す。
何事もなかったかのように、ノートを閉じて机に片付ける。
斜め前に座る月山はよく通る声で、キャンキャン喋る。くるくると表情が変わる。白い歯を出して笑う。細く長い首で、喉仏が上下する。両手が忙しなく動く。目は優しいけれど、あの日の熱はどこにもない。
何をしているんだろう。クラスメイトの観察なんて、バレたらキモいで済まされない。視線を下げて、机の天板と睨めっこをする。ああ、こんな日に限って担任は来るのが遅い。早くホームルームをしてくれ。思考の片隅に居座る月山から、一分一秒でも距離を置きたい。小説に没頭したい。自惚れで溺れたくない。
「今日の放課後? オレ遊ばねぇよ。用事あるから学校残らないとなんだわ」
「なんだよ瀬名、付き合い悪いなぁ」とか何とか、ヤイヤイ言われている月山。勢いよく顔を上げると、目が合った気がした。
すぐに担任の起立の号令に、目線が逸れた。わからない。意図的、偶然、妄想、過大解釈。担任の連絡なんて理解出来るわけあるか。「さようなら」の挨拶と同時に、文庫本片手に教室から逃げた。
どうして逃げる? そもそも逃げているのか。後ろめたいことをしている自覚で自己嫌悪。ぐるぐると言葉は頭の中に浮かんでは消えるを繰り返す。書きたい。なんで? 知りたい。何を?
図書室に置かれたメモ用紙に文章未満の文字を殴り書きする。
ボールペンで白い紙を黒く埋めていくと、気持ちがどんどん昂った。溢れて止まらない。まだ、もっと。活字の海に深く沈む。
カチリとペン先を仕舞って、メモ用紙を片手に教室に戻る。無人の廊下。空っぽの教室。冷房の切れた教室は少し蒸し暑い。全開にした窓から、風に吹かれる。
白紙の原稿用紙に熱を全部打ちつける。思ったこと全部。考えたもしものその先も。浮かんだ一瞬を忘れないように文字に起こす。わからないから問いかける。文学は、活字の海は許される。
生ぬるい風が頬を撫でて、陽が落ち始めた外を見る。時間的には、いつかの放課後と同じ時刻。雨の変わりに外にあるのは照り返しだ。
ペンを置いて、斜め前の月山の席に視線を動かす。机上には原稿用紙もノートも無い。俺とは違うから当たり前だ。机中に教科書を置き勉するタイプでもなし、らしい。頬杖を突きながら主人不在の机を観察する。左右にぶら下がっている荷物もない。意外にも優等生なのかもしれない。ふぅん、とまた机中に注目すると、椅子との隙間に何かが挟まっている。
ガタリと音を立てて立ち上がる。思わず、という表現がこんなにもしっくりするとは思わなかった。パン祭りと値引きシールが貼られた椅子を引いて、中を弄る。
教科書にしては薄い冊子。青色の表紙には毛筆で「海」
パラパラとページを捲ると、余白が多い。小説……ではないな。