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されど、青い蝶は羽ばたく春を待ち侘びている。

作者: 霜月夜空

 春は人を狂わせる。なぜなら、卒業や進学による激しい環境の変化と、暖かで穏やかな気候の不調和に、人間の脳がある種のバグを起こすからだ。従って、このような時期に新学期なるものを設けた日本に全ての責任がある。アメリカのように新学期を九月スタートにしてくれれば、五月病患者もいなくなるに違いない。


 そんな偏屈な考えを浮かべながら、町田大翔まちだひろとは外を歩いていた。実家から電車で数分の距離にある私立大学に通う大翔は、この春休みを終えるといよいよ三回生に上がる。同じ大学に通う友人は、来年に迫った就職活動に備えて、ボランティアや資格取得に励んでいた。   


 しかし大翔は、貴重な春休みをアニメと昼寝で消化していた。サークルにも入らず、先月まで勤めていたバイトを辞めて以降、暇で暇で仕方がなかった。しかし、空いた時間を自分磨きに費やすほどのバイタリティはなく、部屋でダラけていたところを母親に追い出され、渋々散歩に出かけていた。 


 昼下がりの住宅街は閑散としていて、塀の上でうたた寝をする猫と、よぼついた足取りで買い物に向かう年寄りがいるだけだった。なぜ自分はこんな場所をほっつき歩いているのかと、さすがの大翔にも焦りが出てきた。


 昔から自分は、惰性だけで生きてきた。何となく学校に通い、何となく友達と話して、何となく日々を過ごした。周りに同調していれば特に問題は起きないし、起きたとしてもそれは自分の責任ではない。それを証明するように、尻拭いは大人がしてくれた。人生で起きる事はいつだって他人事だった。そんな調子で大学もやり過ごすはずだった。


 けれど、その考えは通用しなかった。高校までと違って、クラスという概念が薄く、自己判断で講義への出欠席を決めてしまえる大学では、普通に過ごしているだけではまず間違いなく友達ができない。積極的に他者と関わることが求められる中、今までと変わらず受け身であり続けた大翔は、初めて本格的な孤独に陥った。


 そんな大翔を取り残すかのように、高校の同期は続々と大学デビューを果たした。SNSで彼らの楽しそうな姿を見るたび、大翔は鬱々とした思いを味わうのだった。


 「一度だけ、あの頃に戻れたらな……」


 空を見上げて呟く。思い返せば、高校時代が一番楽しかった。あの頃は毎日誰かと話していた。所属していた漫画研究部で、オタク仲間と今期のアニメについて語り明かすのが常だった。特に二年生の時はクラスの雰囲気も良くて、一体感もあって居心地が良かった。それが今では、一人孤独に講義を受け、誰とも話さずに帰宅するなど日常茶飯事だった。そんな自分にも賑やかだった日々があったのだ。今はもう遠い夢のように思えるけれど。


 「ん?なんだあれ?」


 五十メートルほど先に、気になるものが現れた。白いパラソルの形をした屋根が特徴的な、一軒の屋台である。西洋の市場に並んでいそうな見た目はどこか浮いていて、ひび割れた道路に咲く一輪の白百合を思わせた。


 あれは一体、何なのだろうか。気になった大翔は屋台の正面に回って中を覗いた。


 「お客様ですか?」

 「わっ!」


 正面に立つやいなや、中から声がした。視線を落とした大翔は、思わず言葉を失った。


 そこに座っていたのは、息を吞むほどの美しい外見の少女だった。おそらく外国人だろう、綺麗な金色のボブカットに、海を切り拓いたかのような淡いブルーの瞳。白磁の肌はテントの影中にあらねば透かすほどで、涼し気なセーラー服を身に纏っていた。


 「えっと、その……」

 「はじめまして。ソフィア・エルドラドと申します。私は時々、このように露店を出して手相占いを行っています。料金は頂きません。ぜひ一度、いかがですか?」


 言葉を詰まらせる大翔に、その少女―ソフィアが両手を広げて言った。机に置いてある水晶が妖しげに光る。


 「ええと……」


 大翔は困惑した。いまどき手相占いなんて、というツッコミを置いても、気になることが山ほどあった。するとソフィアが正面にある椅子を手で示した。


 「お掛けになって下さい。私に関することなら、何でもお答えしますよ」

 「は、はぁ……」


 大翔は頬に汗を垂らした。するとソフィアが、む、と眉をひそめて、


 「ただし、スリーサイズは秘密です」


 さっ、と控えめな胸元を手で隠した。大翔は溜息を吐きながら、どうせ暇だしいいか、と思って椅子に腰をおろした。



   +



 「以上、私が如何にして占い業を始めるに至ったかです」


 自身の経歴を語り終えて、ソフィアが満足気に胸を張った。一方、大翔の顔は大袈裟なほど引き攣っていた。しかし、それも当然のことではあった。


 なぜなら、ソフィアは自身を魔術師の生き残りだと明かしたのだから。


 「どうしました?そんな不審者を見るような目つきをして」


 可愛らしく小首を傾げるソフィアに、大翔はますます視線を鋭くした。


 彼女によると、かつて世界には魔術を操れる人間が数多く存在していたらしい。しかし中世以降、ヨーロッパを中心に起こった魔女狩りの影響で魔術師は絶滅寸前にまで追い込まれた。そんな中、何とか生き延びることができた魔術師の末裔―それが彼女、ソフィア・エルドラドの正体である。


 人里離れた山奥で育ったソフィアは、家族とその他、近隣に住む魔術師など、一部の者を除いて外界の人間と触れ合うことが許されなかった。生存を遂げた魔術師は皆、二度と魔女狩りの悲劇を繰り返させまいと、かつて自分たちを迫害した人間との繋がりを徹底的に断っていた。しかし、そうした抑圧の反動が、思春期を迎えたソフィアを突き動かした。十四歳で家出した彼女は、山を下りて街に出て、港を出入りする貿易船に紛れ、海を越えて日本にやって来たという。以後は単身ヒッチハイクで日本列島を巡り、一カ月前から大翔の住む町を拠点に自身の魔術を駆使した占い業を始めた。


 ここまでが、ソフィアから聞いた話だったが―


 「やっぱり春は人を狂わせるな。まさか幻覚まで見るとは」


 大翔は踵を返して、即刻この場を去ろうとする。がた、とソフィアが立ち上がった。


 「待って下さい!ここまで教えたんですから、占いを受けてもらわないと!」


 頬を膨らますソフィアに、大翔はジトッとした目を向けた。


 「あんたが本当に魔女だったら、さぞ百発百中で当たるんだろうな」

 「な、何ですかその言い方!まさか疑っているんですか⁉」


 それは心外だと胸に手を当てるソフィア。大翔は溜息を漏らした。


 「あのなぁ。そもそもなんで、あんたは赤の他人に自分が魔女だって言いふらしてんだよ。バレたらまずいから、あんたの親は外の人間と接触しないようにしてたんだろ?」

 「魔女狩りは、魔術が人間にとって害であると見なされたことが発端でした。私はそれが悔しいのです。魔術とは、誰かを傷つけるためではなく、誰かを救うためにある。それを証明するため、魔術を駆使した占いで、誰かの人生の手助けがしたいのです」


 目を伏せて言うソフィアに、大翔の心が揺れ動いた。胡散臭いと思う気持ちと、いたいけな少女を突き放す罪悪感が胸に押し寄せる。悩んだ挙句、大翔は口を開いた。


 「……実際に魔法が使えるかどうか、確かめても?」

 「!も、もちろんです!」


 ソフィアが勢い良く顔を上げる。それから細い腕に力こぶを作るポーズをして、


 「何の魔法が見たいですか?物質生成?天候操作?あ、光を捻じ曲げて透明人間になるのも可能ですよ。こちらは今までに披露した魔法でもなぜか男性に人気で…」

 「いや、そういうのはいい。俺が求めるのは……」


 わずかに躊躇った後、大翔は言葉を発した。


 「……肉体を過去に遡らせることって、できるか?あんたじゃなくて、俺の」


 大翔はおずおずと訊ねた。ソフィアはふむ、と顎に手を添えて、


 「膨大な魔力を消費しますが、可能ではありますよ」

 「ま、まじで?」

 「はい。タイムリープってことですよね?さすがに百年前とかは魔力的に無理ですけど、十年前くらいまでなら何とか」

 「……っ!」


 大翔は声を失った。もし彼女が言葉通り魔女だったら、自分は本当に過去に戻れるのか。楽しかった高校生の日々に帰れるのか。


 「……一応訊ねておきますが、どうして過去に?」


 ソフィアが目を細めた。長い睫毛が静かに揺れる。


 「……別に。ただ、楽しかった思い出をもう一度味わいたいだけだ」


 大翔はそっぽを向いて答えた。嘘ではない。子どもじみた思いだが、前々からずっと胸に抱いていた。深い後悔を晴らしたり、その後の人生を分かつ選択肢を選び直したり、そういったことがしたいわけではない。ただ、二度と戻らない日常に帰ってみたかった。


 「そうですか。今の人生を改変するために過去に戻る人がほとんどですから、安心しました。たとえ未来が変わったとして、それが必ずしも良い方向であるとは限りませんから」

 「たしかにな」


 大翔は頷く。無味乾燥な大学生活を変えてみたい気もするが、それに伴う覚悟はなかった。


 その時、一匹の蝶が大翔たちの前に飛んで来た。ソフィアが手を伸ばすと、その上にとまった。柔らかに羽根をたたむ蝶を見て、ソフィアは唇を開いた。


 「この世にはバタフライ効果と呼ばれるものが在ります。ほんの些細な出来事が、何の関係もないように思える重大な出来事を引き起こすことを言います。ですから、あなたに未来を変える気がなくても、過去でのちょっとした言動が、大きく影響を及ぼすリスクを忘れないで下さい。蝶の羽ばたきは、遠い異国の台風を引き起こすのです」


 そう言った瞬間、ソフィアの指から蝶が飛び立った。春の陽気に誘われるようにして、青空へと羽ばたいていく。大翔はゴクッと唾を飲んだ。


 「じゃあ、早速戻してくれるか?」

 「まったく、慌てちゃって。……それじゃあ、戻りたい日付を教えて下さい」


 ソフィアは半眼を作りながら机の下から懐中時計を取り出した。大翔の目がそちらに向く。古風な懐中時計は、文字盤に複雑な意匠が刻まれ、その針は完全に停止していた。おそらく時刻を確認するためのものではなく、時間系の魔術を使う際に必要なものだろう。


 「そうだな……じゃあ四年前、高校二年の夏で」


 大翔が言うと、ソフィアがキリキリと時計上部のネジを巻き始めた。


 「準備ができました。あなたを過去に送るのと同時に、四年前のあなたをここに連れて来ます。同じ時間に同じ人間が二人いたら大騒ぎですからね。元に戻る際には、四年前のあなたから未来に飛んだ記憶を消させてもらいます。いいですか?」


 ソフィアが訊ねた。当然の措置と受け入れて、大翔は頷く。


 「ふう。時間魔法は久々に使いますから、上手くいくか緊張しますね……」

 「おいおい。マジで大丈夫だろうな?」


 大翔は心配になって訊ねた。失敗したらどうなるか見当もつかないが、とにかく怖ろしい事態になることは容易に想像ができた。


 「エルドラドの名にかけて必ず成功させます。さあ、この花を受け取って下さい」


 ソフィアの手の平に、突如一輪の花が現れた。八重やえ咲きの真っ赤なそれは、アザレアだった。


 「およそ八時間で元の時間に戻ります。そのアザレアが全ての花弁を散らした時、こちらに帰って来ると思って下さい」


 さすがにタイムリミットがあるらしい。大翔はアザレアを受け取ると、胸ポケットに挿し込んだ。緊張と期待に心が高鳴る。


 「ではいきますよ。徒花あだばなで終わるのか、何かを実らせるのか。楽しみに待っています」


 そんなソフィアの台詞の後、彼女の持つ懐中時計の針が、猛烈な速さで逆回転を始めた。大翔の体は浮遊感に包まれ、直後、視界が闇に閉ざされた。深淵の底から引っ張られるような激しい落下の感覚が全身を蹂躙し、まもなく、大翔の意識は途切れた。



   +

 


 泥のようなまどろみから目覚めた時、大翔は実家の布団の上で寝転がっていた。障子越しに朝日を浴びて、ショワショワという蝉の声が鼓膜を揺らす。慌てて起き上がって枕元の時計を掴む。表示されていた日付は、はたして四年前の七月八日だった。


 「戻った……のか」


 大翔は呆然と部屋を見渡した。なんてことはない実家の自室である。ただし、机や棚などの家具の配置が、最新の記憶にある自室と異なっていた。どうやら本当にタイムリープに成功したらしい。


 「大翔―!いい加減起きなさーい!」


 一階から母親の声が聞こえた。再び時計を見ると、懐かしの始業時刻が迫っていた。



 「うげぇ……あっつう……」


 かつての通学路を歩きながら、大翔は軽い吐き気を催した。照りつける太陽は肌を焼き、久しぶりに着たカッターシャツは早くも汗を滲ませていた。青春、それすなわち夏という浅はかな考えでタイムリープの日付を決めたことを後悔する。ここ最近のニート生活で体力を落とした肉体に、夏の日差しは過酷すぎた。


 学生鞄に目を落とす。何かの魔法が掛かっているのだろうか、ソフィアから渡されたアザレアは萎れることなく鞄の闇の中で真紅の輝きを放っていた。タイムリミットはおよそ八時間。この赤い花が散った時、大翔は元の時間軸に戻ることになる。


 「おはよー」

 「おはよー、今日も暑いねぇ」


 すぐそばを、大翔と同じ高校の制服を着た女子が通り過ぎていく。大翔は反射的に顔を俯ける。そんなはずはないのだが、誰かに自分が未来人であるとバレないかヒヤヒヤしていた。 


 やがて大翔は、三年ぶりに母校の校門を抜けた。 



 2―Bの教室に入ると、さすがに感慨が押し寄せた。冷房の効いた室内でお喋りを交わすクラスメイトを見て、ほっと息を吐くような安心に駆られる。


 「町田くん、おはよう!」

 「え?」


 背中から声がした。振り返ると、そこには可憐な相貌の女子生徒がいた。艶やかな髪を肩に垂らして、はつらつとした表情をこちらに向けていた。


 「い、飯塚……久しぶりだな」

 「え?久しぶりって、昨日も話したじゃん」


 瞬間、大翔は失言を悟る。とんだケアレスミスである。しかし、それも無理からぬことではあった。


 ―なぜなら、今大翔の目の前に立つ飯塚流奈いいづかるなは、彼が高校時代、密かに想いを寄せていた相手なのだから。


 「そ、そうだったな。つい言い間違えた」

 「あるある~。私もこの前、お母さんのこと間違えて『先生』って呼んじゃった」


 てへ、と頭を掻く流奈に、大翔は思わず目を逸らした。このまま直視していては心臓が持たない気がしたのである。


 「お、俺もこの前、母さんと喧嘩して思わず『クソババア!』って叫びそうに…」

 「あー涼しくて生き返る。ルナ、おはよ~」

 「あ、みんなおはよう!」


 大翔が話を続けようとした途端、新たに三人ほどの女子生徒が登校してきた。手で顔を扇ぐ彼女らの元に、流奈は駆け出していく。瞬く間に二人きりでの時間が絶たれ、大翔は大きく肩を落とした。


 ―そう、大翔は知っていた。結局流奈に想いを伝えられず、高校卒業後に離ればなれになってしまう未来を。


「……とりあえず席につくか」


 薄暗い気持ちを振り払うように、大翔は顔を上げた。せっかく念願の過去に戻れたのだ。今は嫌なことを忘れて全力で楽しもう。大翔は力強く足を踏み出した。



 一限の化学を終え、大翔は忘却曲線の怖ろしさを知った。比較的得意だったはずの化学の知識が、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。そのせいで授業に全くついていけなかった。


 「うえ、次は英語かよ……」


 黒板の横に貼られた時間割を見て、大翔は憂鬱な溜息を漏らした。たしか、高二の時の英語の担当教師は、毎授業ランダムで生徒に問題を当ててくるタイプだった。当時それが嫌すぎて今でも鮮明に覚えている。大学入学以降ほとんど英語には触れてない。もし当てられたら公開処刑になることが確定していた。


 「なんだ、また岩本のヤツ勉強してるぜ」

 「え?」


 陰鬱な気分に浸っていると、肩に手が置かれた。気付けば何人かの男友達が周りに集まっていた。彼らは皆、同じ方向に視線を向けている。その視線を辿った先には、自分の席で黙々と勉強に打ち込む生徒、岩本春希いわもとはるきの姿があった。


 「あいつ東大目指してるんだって。ウケるよな」

 「それな。こんな田舎の高校から、無理に決まってんじゃん」


 周囲の友人が囁き合う。そんな彼らの嘲笑を跳ね除けるように、岩本は黙ってペンを走らせる。そんな彼を見て、大翔の胸に感動に近い何かが押し寄せた。


 大翔は知っていた。友人たちに馬鹿にされ、親や教師には諦めるよう促され、それでも折れることなく努力を続け、見事に合格を果たした岩本の将来を。


 当時は誰も彼の夢を信じなかったし、大翔もその中の一人だった。しかし彼の成功を知った今、こうして茨の道を突き進む過去の姿を見ると、本当に頑張ったのだなと感心する。


 「な、大翔も無理だと思うだろ?」


 友人たちが訊ねてくる。一拍置いて大翔は答えた。


 「……さあな」


 曖昧な返答に周囲の友人が首を傾げた。大翔は心の中で岩本にエールを送った。



   +



 鞄に隠されたアザレアは、一枚、また一枚と花を散らしていた。残り時間があとわずかとなった五限目、大翔は体育の授業で外にいた。茹だるような熱気の中、サッカーボールをめぐって体操着袋の生徒たちが校庭を駆け回っていた。その中に大翔の姿はない。代わりに、校舎が作る陰の下、体育教師の目を盗んで、大翔は男友達と地面に座り込んでいた。


 「だーかーら、最近のアニメはテンプレ過ぎて面白くないんだよ」

 「作画も酷いよな。作品の数が増えた分、一作一作のクオリティが下がってる」


 大翔に授業からの離脱を誘ったのは、漫画研究部の仲間二人だった。夏日の下、爽やかに汗を流す生徒たちを尻目に、昨今のアニメに対する苦言を呈していた。タイムリミットが切迫していた大翔は、そんな友人たちの姿に軽い衝撃を受けた。わざわざ授業を抜け出して、涼やかな日陰でアニメ談義とは。たしかに高校の体育は毎回こうしてサボっていた記憶があるが、今思うと途方もなく無意義だ。体育の授業に対して特別な思い入れがあるわけではないが、それでも学生のうちにしかない時間ではある。もう少し真剣に取り組んでもよかろう。


 「……はっ!」

 「ん?どうした大翔」

 「な、なんでもない。続けてくれ」


 突如声を発した大翔に友人たちが首を傾げる。それを慌てて誤魔化して、大翔は自分の胸に手を当てた。


 ―気付いてしまった。授業をフケて無意味な時を過ごす高校生の自分と、長い春休みを何の生産性もなく浪費する大学生の自分が、本質的に同じであることに。


 「今日の大翔、なんか変だぞ」

 「さては、アニメ一気見した後に来る、あの『虚無』に包まれてるな?」


 我が意を得たり、とウインクしてくる友人に大翔は苦笑を返した。すると遠くから「そこの三人!なにサボってんだ!」と体育教師の怒声が飛んできた。「やべ」「どうする?」と友人たちが顔を見合す中、大翔は他人事のように物思いに沈んでいた。歳だけ重ねて何も成長していない自分と、この日々を眩しかったものと美化し過ぎていた事実。様々な思いが去来し、ついに鬼顔の教師が目の前に迫った時、大翔の胸に一つの決意が芽生えた。



   +



 放課後。いつもであれば友達と談笑しながら学校を出て、バイト先のカフェに向かい始める頃。飯塚流奈はある人物からの呼び出しで、学校の屋上に足を運んでいた。上を見れば、手が届きそうな位置に夕焼け空とそこに浮かぶ雲が広がっていて、下を見れば、運動部の生徒たちが校庭中にちらばっていた。カキン、とバットが球を打つ快音と、校舎内から流れる吹奏楽部の演奏が鼓膜を揺らした。暑さのせいか、それとも緊張のせいか、首筋に浮かぶ汗を拭った時、屋上の扉が音を立てて開いた。


 「ごめん飯塚。待った?」

 「別に大丈夫だよ。それよりどうしたの?……町田くん」


 遅れて屋上に現れたのは、大翔だった。落ちたら即死の綱を渡るような足取りで、流奈の元に近づいていく。やがて向かい合うと、大翔の方から口を開いた。


 「こ、ここに呼び出したのは、なんというか、その……」


 舌がもつれ喉が渇く。大翔は緊張で今にも意識が飛びそうだった。


 「あはは~!やけに改まってるけど、な、なにかな?」


 流奈も流奈で、いつもと様子が違った。元々が太陽のような性格の彼女だが、今は無理にこの場を明るくしようと努めている感じがした。だが、それも当然ではあった。なぜなら今のシチュエーションで予期される行為は、必然的に一つに絞られるからだ。


 「……飯塚。今から言うことは、嘘や冗談じゃなくて、全部俺の本心だ」

 「!」


 流奈の瞳が開かれる。彼女の予感は当たっていた。


 「い、飯塚。お、俺は……」


 大翔は心の中で叫んだ。言え!君のことが好きでしたと言え!今すぐ言ってしまえ!


 「……っ」


 しかし、続く言葉は喉の奥から出てこなかった。鞄から胸ポケットに挿し替えたアザレアを見て、大翔の頭に冷涼な声が響いた。


 『徒花で終わるのか、何かを実らせるのか。楽しみに待っています』


 自分を過去に送ってくれた少女の言葉に、大翔の心が奮起される。


 いつも他人のせいにしてばかりだった。責任や判断は全て周りに押し付けて、そのことを『空気を読んでいる』と正当化し続けてきた。その結果、大人と呼ばれる年齢になっても何の進歩も成長も遂げられなかった。きっと自分の中で何かを決定的に変えなければ、一生このままだろう。裏を返せば、今この瞬間に勇気を出せば、自分の未来が変わるかもしれない。


 「……町田くん」


 茜色に染まった表情で、流奈がこちらを見上げた。燃える夕陽と自らの心が重なる。大翔は魂を吐き出すようにして叫んだ。


 「――俺は、飯塚のことが好きだ!」


 夏空に告白が響いた。運動部の掛け声も、吹奏楽部の演奏も。大翔の声以外の音が、世界から消失した。固まったまま動かない流奈に、大翔は胸ポケットの花を差し出した。


 「一年の時からずっと好きだった!俺と付き合ってくれ!」

 「え、えぇぇ……⁉」


 状況が飲めないのか、流奈は目を白黒とさせた。羞恥に染まる大翔と差し出されたアザレアを交互に見る。


 その時、残す花弁を一枚にしていたアザレアが、ついに最後の一片を散らした。墜落する蝶のように、真紅の花弁がひらりと落ちる。「あ」と大翔が声を漏らすと同時、目の前の空間がぐにゃりと歪み、深淵に吸い込まれるような落下の感覚に襲われた。



   +



 「ん……」


 目を開けると星空が広がっていた。そのあまりの美しさに見とれていると、頭上から声を掛けられた。そこで大翔は、はじめて自分が道端で仰向けになっていたことに気付いた。


 「おかえりなさい」


 小さな露店の中から、ソフィアが顔を出した。起き上がった大翔は彼女の方に首を向けた。


 「本当に魔女だったんだな」

 「やっと認めてくれましたか。で?過去に戻ってみて、どうでした?」


 したり顔でソフィアが訊ねた。わずかな沈黙の後、大翔は口を開く。


 「なぁ。俺の恋愛遍歴って、どうなってる?」


 こちらに戻る寸前、流奈にした告白の結果が気になっていた。


 「私の質問はガン無視ですか……はぁ、少し待って下さいよ」


 ソフィアが一冊の本を開いた。辞書ほどの厚さのそれは、この世のありとあらゆる情報、森羅万象が記された全知の書だった。エルドラド家に代々伝わる代物だが、ソフィアはそれを家出の際にちゃっかりとくすねていた。


 「安心して下さい。『町田大翔は年齢イコール彼女いない歴の童貞である』と書いてあります」

 「絶対にそんな書かれ方はしてねぇだろ……まあいいや、これで確信した」


 大翔は納得したような顔を見せた。ソフィアが小首を傾げる。


 「確信って、何がですか?」

 「いや、なんつーか……人生を変えるには、まずは自分が変わらないとなって」


 どの選択肢を選ぶかは、実はそれほど重要ではない。進む先は違えど、その道を歩むのが同じ人間である以上、辿り着くゴールは同じなのだ。一度目と違い、二度目の夏で流奈に告白した自分も、結局未来で流奈と結ばれることはなかった。それはきっと、想いを伝える以前の段階で、自分が何も変わらなかったからだ。大学受験に受かった岩本のように、何かを成し遂げるには、自分自身を根本から変える必要がある。


 「……なるほど。そういえば、占いの方がまだでしたが、もうその必要はなさそうですね」


 ソフィアの言葉に、大翔が目を丸めた。ふふ、と妖しげな笑みを浮かべて、ソフィアが言った。


 「あなたの運勢は良い方向に向かっています。その調子で頑張って下さいね」

 「……ああ」


 礼を言って、大翔は歩き出した。伸びた背筋で、春の夜道を進んでいく。一人になったソフィアは、実家からくすねた全知の書に目を落とした。


 「町田大翔。大学卒業後に、偶然再会した高校時代の想い人と結婚する、か……」


 その場限りの選択で、人生は変わらない。大切なのは努力を積み上げること。けれども世の中には、ほんの些細な出来事が、まわりまわって未来を紡ぐこともある。人はそれを、バタフライ効果と呼ぶ。


 「あ」


 ソフィアが顔を上げた。夜だというのに、蝶が一匹、空を舞っていた。




      <了>

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