50.ぽわんとした声
レオノーラ様がむずかしいお顔をされ、押し黙ってしまわれた。
夜。わたしにあてがわれたお部屋に、みなが集まっている。
ギレンシュテット国王、アーヴィド陛下との直接交渉の場となった山あいの離宮が、そのままわたしたちの宿舎になっている。
梟の鳴き声が外から響く。
アルパード殿下の即時解放を訴える、共同書簡に名を連ねていただくのに、アーヴィド陛下からご提示された条件に、
レオノーラ様が難色を示されたのだ。
もとは王族の山荘だっという、小ぶりながらも洗練された品のある離宮。
謁見の間に、縦長の楕円形をしたテーブルを持ち込んでくださり、わたしとアーヴィド陛下、それに互いの重臣たちが向き合う形で実質協議の場を設けてくださった。
通例であれば、わたしや重臣たちが茶会や舞踏会などで親睦を深めている間に、互いの宮中官僚――わたしの場合は内廷女官が交渉の実質協議を担い、
交渉が妥結すれば、最後に国王同士による合意文書の調印式なり、条約締結式なりを華々しく挙行して帰国する。
仮に交渉が決裂しても、茶会で優雅に親交を深めたのみ――、という体裁をとるのが王族外交というものだ。
けれど、わたしはアーヴィド陛下との直接交渉を望んだ。
それに応えてくださったアーヴィド陛下は、ギレンシュテット王都の中心市街から離れた離宮を会見の場に設定された。
外形上は、アーヴィド陛下がわたしを〈遊覧〉にお誘いくださった形だ。
互いの正史に遺す必要もない。
お気遣いがありがたかった。
厳粛な場で、皇帝の非を訴え、〈地裂海〉を囲む、わが国、ソルフエゴ王国、そしてギレンシュテット王国が名前を連ねた共同書簡の意義を説いた。
アーヴィド陛下は深い同情の念を表してくださり、ギレンシュテットの重臣たちも深くうなずいてくれた。
「帝国と敵対しようというものでは、ありませんな?」
などと、先方の重臣からいくつかの質問が出て、丁寧に答えさせていただく。
「はい。あくまでも皇帝陛下のご主張に沿って、〈保護〉への感謝と称揚を述べた上で、即時無条件解放を促すものです」
「ふむ。皇帝陛下を褒め上げる……、という文脈で、即座にご解放なされればさらに英名があがる。といった文面ですな?」
「ご賢察の通りです」
悔しいけれど仕方がない。
エルハーベン帝国は超大国。われら3ヶ国を合わせても、まだ帝国の方が倍する。
皇帝に領邦君主が忠誠を誓い、引き換えに皇帝は領邦防衛の義務を負うという統治体制上、帝国一丸となった外征の例は少ないものの、
もし戦火が上がれば、相当に苦戦する。
皇帝に要らぬ隙を与えず、外交交渉によってアルパード殿下を奪還するためには、やむを得ない仕儀だ。
――アルパード殿下が無事に帰ってこられたら、一騎討ちの果たし状を皇帝に送りつけてやろうか!?
という気持ちもない訳ではないけれど、それにしても、まずはアルパード殿下の救出が先だ。
大筋で共同書簡の発出に理解を得られたところで、
アーヴィド陛下がわたしに休憩をと、外に誘ってくださった。
父より祖父に歳の近い美形のおじさまと、春の陽光ふり注ぐ山道を、ふたりで散歩して歩く。
やがて、小さな崖の上にアーヴィド陛下自ら敷物を敷いてくださり、並んで腰を降ろした。
すこし離れた離宮を、うえから眺める。
「……わが国にも、様々な考えの者がおります」
「ええ……」
「重臣たちの口からは言い出しにくいことながら、貴国の遭われるご苦難にも関わらず、手放しに協力するのか? と言い出す者もおりましょう」
淡々とされたご表情ながら、離宮を眺める視線には複雑な色合いを帯びている。
離宮は王妃にしてレトキ女王であられるヴェーラ陛下が、ギレンシュテット王国にご滞在される際に使われるものだという。
元は先々代の国王、オロフ王の側妃であられたヴェーラ陛下。
オロフ王の手が着く前に、美貌に嫉妬した姉王妃に追放された〈白い結婚〉であったが故に、
いわば夫の息子であった、アーヴィド陛下と結ばれることが出来た。
禁断の恋を実らせたラブロマンスとも言えるけど、眉をひそめる向きもあるだろう。
そのため、王妃の座にありながら、王宮での滞在は控え、側妃時代からの離宮を使用されている。
しかも、ギレンシュテット貴族の感情をより複雑にしているところは、王国を二分した内乱を制し、アーヴィド陛下を王位に就けたのがヴェーラ陛下その人であるというところだ。
見方を変えれば、アーヴィド陛下はヴェーラ陛下の傀儡。世俗の卑近な言葉になぞらえれば〈ヒモ〉だ。
しかも、ヴェーラ陛下の姉王妃トゥイッカは、アーヴィド陛下の兄君を策略で謀殺しオロフ王の崩御後に自らの幼児を傀儡の王に立て、摂政として王政を壟断した。
そのとき、ヴェーラ陛下は姉の摂政王太后と共に、共同摂政の座に就いておられた。
つまり、打倒された旧王政側の、中枢人物でもあられたのだ。
そりゃまあ、わたしだって、話を聞くだけで感情が追いつかない。
アーヴィド陛下の朗らかで天真爛漫なご気性をもって、包み込むような統治を実現されているのだと、実際に足を運んでみたら納得もできた。
それでも、アーヴィド陛下は、もとは〈ギレンシュテット〉であられた姓を〈ギレンス〉に改められた。
事実上、ギレンシュテット王国に新朝を開かれた体裁までとられたのだ。
後世、アーヴィド陛下のご治世以降は、
――ギレンス朝ギレンシュテット王国。
と、呼び馴らわされることだろう。
そこまでされて、人心の一新と慰撫に務められている。
父オロフ王の征服によって元の主君を滅ぼされ、武力で屈服させられ、帰順させられたギレンシュテット貴族。
陪臣が直臣に取り立てられた栄誉とも受け取れるけれど、かつての主君、王や王子、王女が蹂躙されたり、没落する姿を見て嬉しかろうハズがない。
そこにきて、晩年のオロフ王は人質の娘の美貌に転び、王妃にまでして、内乱にまでいたる大混乱をもたらした。
そのオロフ王の息子と、王妃の妹が結ばれ、国王と王妃として君臨しているのだ。
腹に一物、抱かない方がどうかしている。
おふたりのお人柄と、波乱に満ちた半生には心惹かれるけれど、
ギレンシュテット貴族に対しては、憐憫の情が湧き上がるのを抑えられない。
王家と三大公爵家の均衡によって、安定した王政しか知らない、ヴィラーグ貴族に生まれたわたしだからこそ、なおさらだ。
王家への忠誠と、三大公爵家への尊崇を揺るがせたことなど、一度もない。
――あ、いや……。ガーボルの策謀とふる舞いには呆れたな、ヴィルモシュも……。
と、わたしがちいさく苦笑いを漏らしてしまったとき、
離宮を眺めレモン色の髪を風に揺らすアーヴィド陛下が、穏やかに口を開かれた。
「ガブリエラ陛下にお願いがあります」
「はい。なんなりと。……お願いをしているのはこちらの方。ご遠慮なく仰られてくださいませ」
「……わが国から貴国に亡命した貴族を、取り立てていただきたいのです」
おなじことを、ヴェーラ陛下からも頼まれた。
まだ、具体的な行動には着手できていないけれど、亡命貴族の数と所在だけは調査させ、把握している。
アーヴィド陛下は、春風が目に沁みたように、目をほそめられた。
「彼らの存在は、我らの心に刺さるトゲのようなものなのです」
「心の……、トゲ」
「政変に巻き込まれ、理不尽な粛正の憂き目に遭い、国外に逃れた。けれど、領地は細分化され他の貴族の手に収まっています。……名誉を回復し呼び戻そうにも、領地までは回復してやれない」
なるほど……、細分化か。
群小貴族がひしめくギレンシュテット王国では、わずかな領地でも、一度手にしたら手放したくないだろう。
ひとつの貴族家を復帰させるのに、数多の貴族の利害が関わる。
王家から代わりに新たな領地を与えたところで、先祖伝来の地が細かく切り裂かれ、他家の支配下にあるのでは、貴族のプライドが許さない。
政変当時、政権を握っていた摂政王太后トゥイッカの巧妙な政治手腕が窺える、
粛正した者の復権を、絶対に許さないというやり口だ。
「……彼らを取り立てていただけるなら、必要な経費はわが国から提供させていただいたのでも結構です」
「お考えは承りました。……ただ、ことは領地にも関わります。重臣たちにも諮り、しかるべくお返事させていただきます」
「ご面倒をおかけします。なにとぞ、よしなに……」
そして、離宮に戻り、最終的な結論は明日ということで協議を終えた。
晩餐をともにし、アーヴィド陛下たちは王宮に戻られ、わたしは部屋に重臣たちを集めた。
その場で――、
「……亡命貴族を処遇するとは、新たな爵位を授けること。ヴィラーグ王国では〈花の会盟〉で建国されて以来、ただの一度も新たな爵位を設けたことはございません」
と、レオノーラ様が難色を示されたのだ。
身分秩序に厳格なこと。それがヴィラーグ王国の歴史を平穏に保ってきたのだ。
一代爵位である騎士爵でさえ、数に制限を設けた。他国では、あまり例がない。
財政に困った国が〈準男爵〉の爵位を創設して、平民に販売するような場合には数に限りを持たせる。
だけど、騎士の数に明確な制限を設ける国は他に聞いたことがない。
花の女神ヴィラーグへの信仰から誕生花に結びつく、わが国の〈騎士座〉という概念など、他国の者が聞いたらチンプンカンプンだろう。
たとえアルパード殿下を救出するためとはいえ、亡命貴族の処遇など、レオノーラ様が難色を示されるのも無理はなかった。
ナーダシュディ公爵家のメリンダ様は、口元に手をあて考え込まれている。
エルジェーベト様も困惑されたご表情。
ただ、カールマーン公爵家は、ガーボルとヴィルモシュの不始末によって発言権を減じているのが実情だ。
トルダイ公爵夫人であり、最年長でもあられるレオノーラ様に対してご発言を控えられる様子も窺えた。
いつも、ぽわぽわとした雰囲気のケベンディ侯爵家のエスメラルダ様は、なにやら上を向かれている。
そして、乳がデカい。
いや、乳はどうでもいい。エスメラルダ様は、アルパード殿下の姪にあたられるお血筋だというのに、関わり合いになりたくないのだろうか。
リリはツン顔をさらに怖くして、眉間にシワを寄せている。
わたしの味方をしたいけれど、ジュハース侯爵令嬢としては、にわかに同意はできないという表情だ。
ふと、メリンダ様が呟かれた。
「……私の母にも、叙爵の道が開かれてしまいますわね」
メリンダ様のお母上は平民の出自。
いや、そこまでの話ではないと思うのだけど……、と、お顔をのぞき込んだら、
メリンダ様の視線が、なにやら意味ありげだ。
頭をクルクルと回転させる。
――そうか……。新たな爵位を設けるにしても、レオノーラ様のご出自、スゼレム子爵家より家格が上の家が増えるのではないかと、難色を示されていたのか……。
亡命貴族の中には、元は公爵だった者までいた。
一律に男爵、もしくは準男爵を創設して叙爵するとなれば、むしろ辞退してくることも考えられる。
低い爵位の家になるより、元公爵家という肩書きを選ぶ者もいるだろう。
メリンダ様のご示唆は、レオノーラ様を傷付けないようかなり遠回しだったけれど、たしかにその可能性は大いにあり得る。
そうなると、下手にアーヴィド陛下にお約束してしまえば、その約束を破ることにもなりかねない。
かといって、ただでさえ新たな爵位創設が先例から外れる上に、元公爵を侯爵や伯爵に叙爵すれば、下級貴族からの大きな反発を招く。
わが国を支え、みなが誇りを持つ身分秩序を、強引に壊すことになる。
平民を大切に、国法の導入を志されるアルパード殿下の想いを超えて、王国全体に大混乱を引き起こすことにもなりかねない。
――やはり難題か……、
と、わたしが眉間にシワを寄せたとき、
エスメラルダ様が、ぽわんとした声を響かせ、人差し指を立てられた。
「イロナ様のようにされては?」
「……イロナ?」
と、わたしと皆の視線が、乳のデカいエスメラルダ様の笑みに集まった。
いや、乳はどうでもいい。




