34.名前の付けられない
痩せこけられた頬。艶やかだったお肌からもご疲弊が隠せない。
目元がやや窪んでしまわれ、お化粧ごしにも、うっすらと青黒いクマが窺える。
わずかふた月半ほどの間に、フランツィスカ陛下を襲ったふたつの痛撃――。
国王イシュトバーン陛下が病に伏され、
王太子アルパード殿下が、海路で消息を断たれた上に、異国で捕囚されたとの報せ。
極度のご心労が、気力と体力、そして、王国すべての女子に君臨されたご美貌をも奪い去ってしまった。
けれど、エミリー殿下からお受け取りになられた〈王笏〉を握り締められると、スッと背筋を伸ばされ、
おひとりで、わたしに歩み寄ってくださる。
カーテシーの礼を執るわたしに向けてくださった微笑みからは、以前にも増した親愛の情が伝わり、高貴な気品に満ちていた。
「……ガブリエラ。妾の娘よ」
「嬉しいお言葉。このガブリエラ、何ものにも替えがたい、生涯の宝を賜りました想いにございます」
「花冠巡賜の満了、さらには王太子妃教育すべての修了。それも歴代最速の驚異的なスピードでの〈柘榴離宮〉への遷座。まことに見事」
「へ、陛下! ……ガブリエラ殿は、まだご遷座されておりませぬが!?」
と、カールマーン公爵ガーボル閣下が、なにか不吉を察知したような、取り乱した声をあげた。
しゃがれた声の高音はかすれ、追い詰められたような切迫感さえ漂う。
「ガーボル……。妾は、そなたに発言を許した覚えはない」
「あ、は、し……、しかし」
「ガーボル、……フランツィスカ陛下の御意であられるぞ」
と、王弟ヨージェフ殿下が潜めた声で窘められるのだけど、ガーボル閣下はまるで怯えたかのように顔を背けられた。
フランツィスカ陛下は煩わしそうにガーボル閣下から視線を外され、もう一度、わたしに微笑みかけてくださった。
「ガブリエラ」
「……はい」
「……これより先は、妾を義母と呼ぶように」
「はい……、光栄に存じます」
「これは、勅命である。ガブリエラ、妾を義母と呼べ」
「あ……、失礼いたしました。……お義母様……、フランツィスカ義母上。わたしを娘とお認めくださったこと、誠に嬉しく、光栄に存じます」
わたしが深々と頭をさげると、
フランツィスカ陛下はことのほか満足そうに、こけた頬を緩められた。
チ。
ガーボル閣下のあり得ない非礼。三大公爵家のご当主ともあろうお方の、下品極まる舌打ちが、小さく響いた。
だけど、誰もそれを咎めない。
言及することさえ、下品な行いに巻き込まれるような気にさせられる。
けれど、フランツィスカ陛下だけが皮肉気に、口の端をすこし上げられた。
「ガブリエラ。これから妾の申すことは、王権代行者としての勅命である。心して聞け」
「ははっ」
「妾は、ガブリエラが既に王太子アルパードの妃、王太子妃の座にあると認める」
ハッと気が付いて、息を呑んだ。
これか。ガーボル閣下が非礼を働き、場を壊してでも止めたかったのは……。
「ガブリエラ……」
「……ははっ」
「妾に替わり、王権を代行せよ」
と、厳かに宣明されたフランツィスカ陛下は、手にされた王笏をわたしに向けて差し出された。
「お、お待ちくださいませ!! 義姉上! そ、それは、なりませぬ! 断じてなりませぬぞ!?」
目を剥いた王弟ヨージェフ殿下が、うわずった悲鳴のような叫び声をあげた。
――勘の悪い……。ガーボル閣下はとうにお気付きで、なんとか阻止しようと、あがいておられたというのに。
わたしの冷ややかな視線を上書きするように、エルジェーベト様の慈悲深いお声が響き渡った。
「ヨージェフ殿下……、いえ、ヨージェフ伯従父上? せっかくフランツィスカ陛下があらかじめお教え下さっておりましたのに、お気付きになられませんでしたか?」
「な、なにをだ……?」
「いまのお言葉は勅命ですのよ? ……ヨージェフ伯従父上は、勅命に叛かれる大逆を犯されるのですか?」
「う……、ぐう」
ぐ、ぐうの音って……、出るんだな。
いや、呑気なこと考えてる場合じゃない。
エルジェーベト様の震えのくるようなお美しさに、見惚れてる場合でもない。
王笏――、
王冠、玉座、宝珠、宝剣と並ぶ、
わが国の王権を象徴するレガリア――いわゆる〈王威の証〉。
先端に、わが国の主祭神、花の女神ヴィラーグの小さな神殿があしらわれた、白金製の杖。
王権と併せ、王家が独占する女神ヴィラーグへの祭祀権をも象徴する。
――これを受け取れば……、わたしが王権代行者。実質的には……、女王になる。
王国危急の今、すべての舵取りを、正式にはエステル家門ですらないわたしが担うことになる。
エミリー殿下が、フランツィスカ陛下にそっと寄り添われ、
わたしに王笏をさし出されるフランツィスカ陛下のお腕に、手を添えられた。
――しまった……。寸法は短い王笏といえども、白金製。ながくは支えきれぬほどに、フランツィスカ陛下のお身体は……。
エミリー殿下が、穏やかな微笑みをわたしに向けてくださった。
「……ガブリエラ」
「は、はい……」
「アルパードを……、助けて」
息をほそく長く、吸い込む。
そして、フランツィスカ陛下に対して執っていたカーテシーの礼を解く。
背筋を伸ばし、胸を張り、左手一本で王笏を受け取った。
「見事なり……、見事なる礼容。さすがは、わが娘。ガブリエラである」
と、仰られるや、フランツィスカ陛下はエミリー殿下の胸のなかへと倒れ込まれた。
王笏を受け取った瞬間から、わたしは王権代行者。国王に等しい存在。
花の女神ヴィラーグの祭祀王。
謙って受け取れば、王の権威を貶める。
まさか、実地で活かす日がこようとは夢にも思わなかった、ジェシカ様よりご教授いただいた宮廷儀礼。
「……ぐう」
と、二度目のぐうの音を漏らされた王弟ヨージェフ殿下が、踵を返して立ち去ろうとされた。
「待たれよ。……いや、待て。ヨージェフ」
「ふん、好きにしろ。儂はもう知らん」
「ヨージェフ殿下?」
と、やわらかなお声をかけられたのは、トルダイ公爵夫人レオノーラ様だった。
「たった今、殿下に〈待て〉と、ガブリエラ陛下からの勅命が下ったのが、お耳には入りませんでしたか?」
「陛下……、だと!?」
と言ったのは、わたしだ。
ガバッと向き直り、レオノーラ様のお顔をのぞき込んでしまった。
「ええ、ガブリエラ陛下は既に、王権代行者。われらは〈陛下〉の尊称をもって奉らねばならぬ、至高の地位へとお昇りあそばされました」
レオノーラ様が、あらためて恭しく最敬礼のカーテシーをわたしに捧げてくださる。
そして、エルジェーベト様、カタリン様はじめ、ご令嬢方のみな様が、わたしに臣下の礼を執ってゆく。
「……ぐう」
もう。それ、やめてほしい。ヨージェフ殿下。いや、ヨージェフ。
〈ぐうの音禁止〉の勅命を発しちゃうぞ?
とはいえ、意味不明な勅命でいきなり権威を貶める訳にもいかないので、スンッと冷えた無表情……、
いや、ツンと威厳あふれる表情――、つまり地顔を、ヨージェフに向けた。
「ヨージェフ。王位王権を簒奪せんとする、そなたの叛意はすでに明らか」
「は、叛意などと……、そんな大げさなことを。わ、儂はただ王国の行く末を案じて……」
「苦しい申し開きだな? ヨージェフよ」
「ぐ、ぐ……」
そうだ。ガマンしろ。
〈ぐ〉までなら許す。4回目ともなれば、さすがに吹き出してしまうかもしれない。
わたしの王権代行が、出だしからいきなり、愉快な感じになってしまう。
それは、困る。
耐えろ。耐えるんだ。ヨージェフ!
「ガーボル!」
良くやった!!!!
「ガーボル、お前からもなにか、その……、なにか、その……、なにか、その……、なにか、その……、あっ! ……その、なにか、その……」
うぉおおぃ!!??
新シリーズを開幕させるな――っ!!!
「……その、なにか、その……、ガーボル! お前からも、なにか、その……、なにか申し上げてくれ!!」
「……く、……うぷ」
耐えたよ。わたし。
散々粘っておいて、……それ?
でも、耐えた。
わたしは吹き出してない。
リリ。にやにや、こっちを見ない。
ていうか、カタリン様? それもう、笑ってますよね? こめかみがピクピクされてますよ?
ヘレナ様はヘレナ様で、可愛らしいほっぺたをぷっくり膨らませてお鼻でスースーと息をしてらしゃるし、お祖父様のひょうきんな〈芸〉に、爆発寸前ですよね?
わたしの投げた槍が刺さったままのお父上は、まだうんうんとお苦しみなのに、なかなか愉快なお顔になられてますわよ?
って、……フランツィスカ陛下?
疲労困憊されたご様子でお顔を伏せられてますけど、肩がプルプル震えてますわよ?
首筋まで真っ赤だし、血色よくなられて良かったですわね。すこし安心ですわ。
で、エミリー殿下? お母君を心配されるご様子で、口元を手で覆われてますけど、
大きく開いた目が血走ってますよ? 手の下では笑ってません? 笑ってますよね?
さすが、こんな場面でも優雅な微笑を絶やされない、……エルジェーベト様?
ほっぺが片方、すこし凹んでますわ。口の中を噛んでらっしゃいますよね? ね?
いや~、花の王国の乙女たちは、みんな可憐で強か、優美で逞しい。
頼もしい乙女たちばかり。
権力亡者で右往左往してる爺さんたちとは、器の大きさが桁違いだ。
嗚呼……、この名前の付けられない時間。
結局、わたしたちが何に笑ってるのか分からなくなっちゃう、ただ共有してることが可笑しくてたまらない時間。
はやくアルパード殿下とも、共有したい。
わたしの健気で愛しい、器の大きな婚約者。王太子、アルパード殿下。
――殿下? わたしが必ず見付けて、必ず連れ戻してさし上げますわ。
ただ、主君ヨージェフの無様な姿に愕然とするアマリリスの騎士シャルロタには、憐憫の情が湧いてしまう。
……ほんとに、不憫な娘。
そして、このときばかりは、ガーボル閣下……、いや、ガーボルはわたしの強い味方だった。
よく分からない、わたしの心の大騒ぎに終止符を打ってくれる冷静かつ重厚なふる舞いで、恭しくわたしに片膝を突いた。
「……王権代行者ガブリエラ陛下のご威光に、ひれ伏すばかりにございます」
「ぬ……、ガーボル。儂を裏切るのか?」
「はて? なんの話でございましょう?」
どこかで見たような悪役三文芝居にも、もはや、わたしが動じることはない。
「ヨージェフ。息子ミハーイともども、王太子宮殿の尖塔にて蟄居せよ」
「お、お前ごときに、な、なんの権限があって……」
「王権である」
「……ぐう」
「そこな騎士5人。……いや、男子の騎士4人。ヨージェフとミハーイを、王太子宮殿にお連れせよ」
シャルロタには少し同情しちゃって、メンバーから外してあげた。
――ぐえ。
とか、わたしが言わせちゃったし。
そして、戸惑う男性騎士4人に、冷えた視線を送る。
――これで、騎士4人ごときも動かせないのならば、わたしが代行する王権など砂上の楼閣。……すぐに傀儡とされてしまうのが、目に見えている。
しん、と静けさが広大な花壇を支配した。
やがて、4人は意を決したように、わたしに片膝を突いた。
「かしこまりました。花の騎士たるこの身、この剣は、王権により授かりしもの。陛下の勅命を遂行するためにございます」
ヨージェフとミハーイは、もはや抗う気力も失ったのか、騎士4人に、おとなしく拘束された。
その程度の胆力で、王権簒奪のクーデターに及ぶなど片腹痛い。
アルパード殿下が王太子宮殿に戻られた後、改めてアルパード殿下よりご裁定いただくものとし、その間の幽閉を命じた。
併せて、ミハーイの傷の手当ては充分にしてやるようにと申し伝え、ふたりは連行されていった。
――捕囚の身のツラさ、骨身に沁みるまで味わいながら、アルパード殿下の無事のお戻りを祈るがいい。
ふたりが去り、近衛兵たちも戻り、
ガーボルが一礼して立ち去ろうとした。
「ガーボル」
「はっ。……まだ、なにか?」
「そなただけ、お構いなしとはいくまい?」
「……ほう」
三大公爵家が一角、カールマーン公爵家の当主ガーボルが声を低めて、わたしにふり返った。
「この私に、王権代行者たるガブリエラ陛下は、いったい何をされようと?」
ツンと威厳あふれる表情をして、挑発的な視線で睨むガーボルと対峙する。
花壇につどうご令嬢方に、ピンと張り詰めた空気が漂った。
 




