16.公爵令嬢たるもの
今日も、いつにも増してお美しいエルジェーベト様が、
〈わたしガブリエラが、アルパード殿下のプロポーズを快諾していた〉
と、仰られたのだけど、わたしに覚えはまったくない。
そして、
「あら……、覚えてらっしゃらないの?」
と、仰られたきり、やわらく微笑まれて、わたしを見詰められている。
――いじわるされてる? ……それとも、からかわれてる?
と思ってみるものの、わたしの知るかぎりエルジェーベト様はそんな方ではない。
だけど……、エルジェーベト様だって人間だ。アルパード殿下がわたしとご婚約されたことで、すこしくらい性悪なお気持ちが起きてもおかしくはない。
降参して見せたらいいのだろうか?
でも、ほんとうだったら……、かえってエルジェーベト様を傷付けることになりはしないか?
必死で記憶をたどるのだけど、やはりアルパード殿下とそんなやり取りをした覚えはない。
エルジェーベト様が、すこし目をほそめられた。
「私、ガブリエラ様にはいろんなことをお伝えさせていただきましたけれど……」
「……はい」
「ひとつだけ、どうしてもお伝えできなかったことがあるのです」
なんと答えたらいいか、分からなかった。
それはきっと、アルパード殿下に関わることだし、プロポーズ云々のお話かもしれない。いや、きっとそうだろう。
なら……、なぜお伝えくださらなかったのか、答えはひとつだ。
「……私が、ガブリエラ様を初めてアルパード殿下にお引き合わせしたとき、メイドをかばわれるお姿に、……勝てないと思ってしまいましたわ」
先日、トルダイ公爵家のレオノーラ様から教えていただいた、メイドのワイングラス事件。
あのあと必死で記憶をたどり、おぼろげながら思い出した。
レオノーラ様は、わたしがワイングラスを拾ったと仰られていたけど、それはたぶんレオノーラ様の記憶違いか、見間違い。
わたしは、メイドが落としたワイングラスを空中でキャッチしていた。
そして、反対の手に持っていた自分のグラスをメイドのトレイにポンッと置いた。
ワインはこぼれなかったはずだ。
メイドの粗相をなかったことにしてあげたかったので、そのまま歓談した。
そして、酔った。
生まれて初めてのワインに酔って、記憶をなくした。
うん。
ガラッパチの14歳。それまで手にしてた葡萄ジュースとおなじ色をしてたから、お酒じゃないと思い込んでた。
で、なんかいい感じになった。
「……え?」
「ふふっ。思い出されました?」
思い出したけど、思い出してない。
記憶がおぼろな理由を思い出しただけ。
わたし……、酔っぱらってなにかしでかしてた?
「……ガブリエラ様の高潔な行いに感銘を受けられたアルパード殿下が『馬車をさしむけても?』と、仰られましたわ」
「あ~~~、仰られてましたねぇ……」
すごくおぼろだ。だけど、そんなことを仰られていたような……。
「ははは……。結局、来ませんでしたけどね。茶会かなにかのお誘いだったんでしょうけど……」
「来たではないですか。3年の時を経て」
「……え?」
エルジェーベト様は、かるく視線を上にあげられた。
「……三大公爵家の令嬢でないガブリエラ様では、お気づきになれなかった」
あ……、あれが、アルパード殿下からのプロポーズだった……、
さしむける馬車って、花乙女宮への迎えの馬車……、
「私……」
と、エルジェーベト様が、かすかに眉を寄せらた。
「……その意味を、ガブリエラ様にお伝えできませんでしたわ」
「はい……、いや、あの……」
「ごめんなさい……、悔しくて」
儚げに微笑まれ、わたしをまっすぐに見詰めてくださった。
お父上、カールマーン公爵ガーボル閣下は62歳。エルジェーベト様は19歳。王国貴族の感覚でいえば、かなり遅くに儲けられたご令嬢だ。
王太子妃とするためだけに。
エルジェーベト様はきっと、王太子妃になるよう言われ続けてお育ちになった。
王国の国政において外戚の影響力はほとんどない。というか、三大公爵家のすべてが累代の外戚なので、考慮するまでもなく影響力があるともいえる。
だけど、内廷――家政は別だ。
エルジェーベト様は、アルパード殿下の祖母にあたるマルギット陛下の宮殿に足しげく通われたはず。
幼いころから親しく交わられ、
――私は、この王子のお嫁さんになる。
と、つよく意識して育たれたはずだ。
そのエルジェーベト様の口から漏れた、
――ごめんなさい……、悔しくて。
という言葉を、わたしは受け止めきれない。
「ですけどね、ガブリエラ様」
「……はい」
「アルパード殿下はいつも私に仰られていたんです。エルジェーベトも好きな人と結婚する方がいい……って」
なんと残酷なことを……。
三大公爵家間の政争を避けるため、エルジェーベト様からは「私と結婚して」とは仰ることができない。
おそらくアルパード殿下も、それをご存知のはず。
だけど、アルパード殿下にとって、エルジェーベト様はまったくの恋愛対象外だったのだ。
慣例や先例にしばられず好きな人と結婚する方がいいと、好きな人から言われてしまい、そう仰るあなたが好きなのです、とも言ってはいけない。
それでも、アルパード殿下の妃となるためだけにお生まれになったエルジェーベト様には、あきらめることも許されない。
「私、ガブリエラ様には、結構、恩を売ったと思いますのよ?」
「あ、はい……」
急に、らしくない言い回しをされるエルジェーベト様に戸惑った。
だけど、たしかに恩がある。
「ひとつだけ、私の愚痴を聞いていただいて……、恩を返してくださいません?」
「愚痴……、あ、いえ……。どうぞ、なんでも……、なんでも聞きます。どうぞ、なんでも仰られてくださいませ」
らしくないエルジェーベト様は、わたしを怒鳴り上げて憂さを晴らされるのかもしれない。
どんとこいだ。
わたしは断然、エルジェーベト様派だ。
どんな罵詈雑言でも受け止めさせていただきますとも。
身体を強張らせ、グッと身構える。
そんなわたしに、エルジェーベト様は小さくはにかまれた。
「……いいなぁ、ガブリエラ様」
嫁にしたい。いますぐ、わたしの嫁にしたい。抱きしめたい。ほおずりしたい。
バカ。ふわふわ王太子のバカ。
なんでエルジェーベト様じゃないんだ。なんでわたしなんだ。
こんないい女を悲しませやがって。
だけど、わたしがそれを言えば、エルジェーベト様をもっと惨めにさせるだけだ。
奥歯を噛みしめて、かるくうなずいた。
すでに、アルパード殿下に惚れてる自分を自覚しつつあるだけに、罪悪感までおおきく感じられる。
「そうそう、ラヨシュがガブリエラ様に会いたがっておりましたわ」
「あ……、ええ」
エルジェーベト様が分かりやすく話題を変えてくださったので、わたしも慌てて笑顔をつくりなおす。
「花冠巡賜を終えられ、柘榴離宮にお遷りになられたら、ぜひ遊んでやってくださいませね」
ラヨシュ様は、エルジェーベト様の同腹の弟君。しかも、歳の離れたまだ11歳。
お父上のガーボル閣下が、後妻であられるお母上ブリギッタ様と仲睦まじくされている証明のようなもので、それはエルジェーベト様にとって良かったと思う。
わたしの弟イグナーツも12歳。ラヨシュ様とは歳が近い。
弟が可愛いという話は、これまでもエルジェーベト様との共通の話題だった。
だけど、このタイミングでラヨシュ様の話題を持ち出されたことには、別の意味を感じずにはいられない。
ガーボル閣下のご嫡男ヴィルモシュ様と、ラヨシュ様との間には、カールマーン公爵家の継承権争いがある。
もちろん、現時点でラヨシュ様ご自身がどうこうはないだろう。だけど周囲は違う。
とくに後妻――つまりは現正妻のブリギッタ様。
ナーダシュディ公爵家のメリンダ様のお母上のように側室でも愛妾でもなく、れっきとしたご正室。
しかも、ブリギッタ様は国境を接するワルデン公国の公女でもあられる。
血統としては申し分ない。
息子に家督を継がせるべく、夫ガーボル閣下に働きかけておられるはずだ。
そもそもブリギッタ様が輿入れされた経緯からしてややこしい。
アルパード殿下がご誕生になられてから、ガーボル閣下があわてて後妻をとられたのは、それまで王弟殿下が王家を継ぐと目されていたからだ。
そして、ガーボル閣下は王弟ヨージェフ殿下に、カールマーン家門の分家であるラコチ侯爵家をさし出していた。
男系が絶えることが確定していたラコチ侯爵家の最後の男系ご令嬢、
マティルデ・ラコチ=カールマーン様、
に、ご養子を迎えるのではなく、王弟ヨージェフ殿下に輿入れさせた。
そしておふたりの間に生まれたご子息が、
ミハーイ・ラコチ=エステル、
として、ラコチ侯爵家を継がれた。
わたしが「え? イヤですけど?」とやらかしたミハーイ閣下だ。
ガーボル閣下が家門の分家をさし出されたのは、ヨージェフ殿下が王位を継がれた後、王妃となられるマティルデ様を事実上のカールマーン公爵家出身と扱わせられるようにという、深謀遠慮だった。
もちろん、ラコチ侯爵家は、カールマーン家門から、エステル家門に移った。
だけど、それによってミハーイ閣下はれっきとしたエステル家門の一員として、いずれは王太子となる資格を留保されたことにもなる。
ところが、その11年後に突然、アルパード殿下がご誕生になられた。
そのときガーボル閣下のご嫡男ヴィルモシュ様にはご子息が生まれたばかり。このあとご令嬢が誕生されるかも分からない。
とはいえ、政略の限りを尽くされてきたガーボル閣下に、後妻を出してくれる家は王国内では見当たらなかった。
そこで、やむなく他国から後妻を迎えられた。
そうまでされる執念。
もちろん、わたしの生まれる前の出来事だけど有名な話だ。
エルジェーベト様が、寛大で穏やかなご気性と慈悲深さを身に付けられたのは、そんな好奇の目に耐え、王太子妃にふさわしくあろうとされたからかもしれない。
とにかく、カールマーン公爵家の周辺はキナ臭い。
そんな中、エルジェーベト様が弟君ラヨシュ様の話題を持ち出されたことは、
――王太子妃になった暁には、弟ラヨシュをよろしく。
と、仰られているも同然だ。
なんて分かりやすい、政略。
そして、エルジェーベト様にはそれがとてもお似合いになられている。
公爵令嬢たるもの、こうでなくては。
と、思わせられる美貌と気品がある。
だけど、わたしもうまうま言質を与えるわけにもいかない。
「ラヨシュ様のお気持ちが嬉しいですわ」
と、優雅に微笑んで見せた。
そのとき、貴賓室のドアにノックの音がした。
侍女のイロナが入室し、
「王太子、アルパード殿下がおなりです」
と、緊張した声で、わたしに告げた。
 




