13.わたしの初恋
大成功してしまった茶会の翌日、花衣伯爵家7令嬢から王太子妃教育をご教授していただきながら、
まる一日、考えた。
そして、まだほそい、満ちてゆく月が浮かぶ深夜。
リリを花壇に誘った。
「わたし、王太子妃教育を頑張るわ」
「そうか。……ガブが決めたんなら、応援する」
暗闇のなか、リリの声には胸をなでおろしたような響きがこもる。
「ガブなら、三大公爵家にも負けない王国史にのこる賢王太子妃、そして賢王妃になれるよ」
「ありがと、リリ……。だけど、わたしまだ〈穏便な婚約破棄〉を、あきらめた訳じゃないの」
「え? ……でも、ガブも茶会でアルパード殿下といい感じだったじゃないか。てっきり、王太子妃になる決意を固めたのかと思ったのに……」
「う、うん……」
たしかに、アルパード殿下のまっすぐな瞳に惹かれはした。
それが何故かは分からなくても、わたしを純粋に求めてくださっていることは、よくよく体感できた。
そして、婚約者を待たせるテレーズ様。王太子妃侍女長を目指して励むイロナ。王家内の壮絶な嫁姑戦争に終止符をうてると期待されるフランツィスカ陛下。
わたしが王太子妃になるかどうかは、たくさんの方々の人生に関わっている。
けれど、アルパード殿下のあの驚異的なやさしいお人柄。
国王に即位された後であっても、わたしもホルヴァース侯爵家も、守っていただけるとは到底信じることができない。
ホルヴァース侯爵家を、わたしに芽生えたばかりの〈ふわふわな恋心〉の巻き添えにする気にはなれない。
「花乙女宮を出たいのよ」
王太子殿下以外の男性との接触が厳しく制限される花乙女宮にいる限り、こちらから行動を起こすことは難しい。
外の世界で起きてることがすぐには分からないし、〈穏便な婚約破棄〉を目指そうにも、わたし自身に出来ることは限られる。
それに、アルパード殿下のお気持ちを確かめようにも、こちらから会いに行くことさえ叶わない。
わたしの性に合わないのだ。
リリが、クスッと笑った。
「分かった。それには王太子妃教育を頑張るしかないな」
「そうなのよ」
王太子妃教育の国内編を終わらせ、三大公爵家と27侯爵家を巡る〈花冠巡賜〉を終えたら、
王太子殿下がお迎えに来てくださる。
婚礼の準備にむけて〈柘榴離宮〉へとお連れくださる。
婚約は正式なものとなる。
そこで王太子妃教育の外交編を学びながら、他国からの祝賀使もおみえになる王太子殿下との婚礼に備える。
その間、国内的にはすでに実質的な王太子妃として扱われ、男性との接触制限は解かれ、外出も自由だ。
アルパード殿下と正式に結婚すると覚悟を決めるにしても、あくまで〈穏便な婚約破棄〉を目指すのだとしても、
〈柘榴離宮〉に遷ってからのことにする。
これが、わたしの出した結論だった。
もちろん、王太子妃候補が〈柘榴離宮〉に遷った後で婚約を破棄したり、破棄されたりしたという先例はない。
記録が抹消されてるだけかもしれないけれど、わたしは先例第一のヴィラーグ王国にあって先例にないことに挑むことになる。
だけど、あたらしい先例をつくることは、すでにある先例を変えるより、すこしだけハードルが低い。自由に動けたら、なにかあたらしい道を拓けるかもしれない。
わたしの場合、国内編の学習は順調に進んでいるし、国王陛下の東方出兵もある。
国王陛下ご不在の婚礼などあり得ない。
わたしが〈柘榴離宮〉で婚礼を待つ期間は、先例より長くなるはずだ。
正式に王太子妃になってしまう前に、できるだけ長く自由に動ける時間を確保するには、国内編を最短で終わらせ、できるだけ早く花乙女宮を出るしかない。
わたしの人生を、わたし自身の手で決めるには、これしかない。
「ガブ……、損な性分だな」
「そう? ほかの誰かの思惑だけで人生を決められてしまうより、よほどいいと思うけど?」
暗闇のなか、リリがそっとわたしを抱きしめてくれた。
「私は、なにがあってもガブの味方だ」
「……ふふっ」
「なんだ?」
「リリとはなにか特別なことがあったわけじゃない。ただ性が合うってだけなのに、心の底から信じられるわ」
「そうだな。私もだ」
「……リリが王太子殿下だったら良かったのに」
「バカ言え。私が王太子殿下だったら、エルジェーベト様を選ぶに決まってるだろ」
「ふふっ。わたしだってそうだわ」
「……でも、アルパード殿下はエルジェーベト様よりガブを選んでくださったんだ。慣例も先例も超えて」
「……そうね」
「もし、お断りすることになっても、お気持ちを粗略に扱うんじゃないぞ?」
もしも、わたしが「婚約を破棄してください」とアルパード殿下に申し上げたら、
――いいよ、いいよ。
と、仰られるかもしれない。
だけど、それはなにか違う。
卑賤な言葉でいえば〈失恋〉をさせるだけではなくて、なにかアルパード殿下の心の奥底にある秘密を蔑ろにしてしまう気がする。
あのまっすぐな透んだ瞳の奥底。
なんの考えもなしに、
――いいよ、いいよ。
と、仰られているとは思えなくなっていた。
きっと、これが〈惚れた〉ということなのだろう。
「……わたしの、初恋を大切にするわ」
Ψ
わたしが王太子妃教育に本腰を入れると決意を固めた矢先、
重大な問題に、思いが至った。
教育役筆頭のテレーズ様のお部屋を、ひとりでそっと訪ねる。
「あの……、花冠巡賜の先例って……?」
「…………、公爵家側ですね」
花冠巡賜は、王太子妃候補が三大公爵家と27侯爵家を訪ねて、ご令嬢もしくはご夫人から花冠を授けていただく儀礼だ。
いわば主催は、王太子妃候補側。
花衣伯爵家の家職はあくまでも王太子妃教育であって、貴族家と貴族家の家どうしの関係でなり立つ花冠巡賜の催行には関与していなかったのだ。
次の王妃となる王太子妃が、高位貴族のご令嬢から祝福と承認を受ける重大な儀礼が、
「こんちわー!」
と、訪ねて、キレイな花の冠をあたまに載せてもらい、
「えへへ」
と、はにかむだけのはずがない。
たとえば、現王妃フランツィスカ陛下は授けられた花冠をほどいて編みなおし、巨大なプリザードフラワーにして王妃宮殿に飾られている。
だけど、うっすらとした記憶では、先代王妃である王太后陛下の宮殿では、ひとつにまとめた巨大な押し花にして額装されていたような……。
あれがトルダイ公爵家とカールマーン公爵家の、それぞれ家門の先例にもとづいたものだとすると……、
なにか家門に伝わる故事にもとづいているはずで、迂闊にマネっこしたら、特大の非礼だ。
「おぉっふっ…………」
変な声が漏れた。
Ψ
初心にもどった。
花冠巡賜の先例を三大公爵家に尋ねたら、それを理由に〈穏便な婚約破棄〉に向かうかもしれない。
その線を狙うなら、やはり頼りはカタリン様だ。
茶会では、わたしに助け船を出してくださったような気もしている。
だけど、不満を述べて大暴れしてくださりそうなのは、やはりカタリン様しかいらっしゃらない。
あるいは、
――そんなの出せるわけないじゃない!
と、断ってくだされば、花冠巡賜を執り行えそうにもないと、王家に申し入れることも考えられる。
花乙女宮にいながら〈穏便な婚約破棄〉を目指すのに、わたしに出来る最後のことだという思いを込めて書簡をしたためた。
さすがに、三大公爵家であるナーダシュディ家の先例を教えろとは恐れ多くて、書簡をしたためる手が震えた。
だけど翌日。
カタリン様の異腹の妹君、メリンダ様があっさり先例集の写しをお持ち下さった。
貴賓室にお招きし、お茶をお出ししながら、写しを受け取らせていただく。
王家と肩をならべる権門、三大公爵家のひとつ、ナーダシュディ公爵家に累代伝わる先例集。
その、王太子妃への輿入れに関する部分だけを抜き出し、カタリン様がご自身で書き写されたものだった。
丁寧な筆跡。
色違いのインクを使って、カタリン様の解釈も小さな文字でこまかくいくつも書き込まれている。
カタリン様は努力を重ねておられたのだ。
王太子妃を5代輩出していないナーダシュディ公爵家のご令嬢にお生まれになられて、家門中からカタリン様に寄せられる期待は相当なものだったことだろう。
その重圧に負けることなく、王太子妃の座にふさわしくあろうと、6代ぶりのナーダシュディ公爵家出身の王太子妃になるために、懸命にご努力されていた。
万事控え目にふる舞われるメリンダ様が、静かに口をひらかれた。
「姉から、伝言を預かっております」
「……はい」
「もういらないから、あげる。……と」
カタリン様が積み重ねられた努力は、すべて無駄になった。
悔しかったことだろう。
ご自身でお持ちなられるのではなく、妹メリンダ様をご使者に立てられるほどに。
王太子の妃とりは、恋愛結婚が建前だ。
政略で王太子妃を決めるようなことをしたら、三大公爵家の間で大変な政争になる。
王国の基が揺らぐ。
王太子妃は、あくまでも王太子殿下の方から選ばれる。王太子殿下が恋に落ちたご令嬢だけが王太子妃になれる。
三大公爵家のご当主であってもご令嬢であっても、自分から結婚を申し込むことは控えられる。
カタリン様のご気性だ。
アルパード殿下に「私と結婚して」と迫りたいところを、何度も何度もグッと言葉を呑み込まれたことだろう。
きっと、アルパード殿下なら、
――いいよ、いいよ。
と、答えてくださると分かっていても。
誇り高き公爵令嬢の矜持。
その誇りの結晶を、惜しげもなくわたしに譲ってくださった。
そして、先例集の写しにはアルパード殿下がカタリン様に見せられたお振る舞いが、いくつも書き込まれていた。
過去にナーダシュディ家から王太子妃になられた方の先例になぞらえ、アルパード殿下のお心を読み解き、必死に寄り添おうとされるカタリン様のお姿が目に浮かぶ。
丁寧で繊細な文字。
きっとカタリン様は、政略などではなく、アルパード殿下に恋されていた。
お慕いするアルパード殿下への、カタリン様の温かなお心が伝わってくる。
「姉は口は悪いですけど、……やさしい人なんです」
と、メリンダ様が寂しげに微笑まれた。
「ナーダシュディ家にあって、妾腹に生まれた私の味方は、姉しかいません」




