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異郷にて

作者: 中根小藤

第232回オレンジ文庫短編新人賞に応募した作品です。


引用文献:カルロス・カスタネダ(1972)『エクストランへの旅』(真崎義博訳(2012)、太田出版)


 小説とも、学術書ともつかぬその本のヤキ・インディアンの言葉に、私は思わず左隣の空席を見た。

 予約をした彼が座るはずだった席の先には青空が続くばかりである。肩を落とすと同時、悪寒が込み上げてくる。退屈な飛行機の旅を掻き乱す異変に、私はゆっくりとシートへ身を預けた。

 何時間も同じ風景に、ジェットの轟音で字幕に頼るしかないハリウッド映画。窓の外に広がるのは、どこまでも白い雲、雲、雲。

 太陽を浴びて眩しく輝く白は、火葬炉から出て来た彼の白骨を思い出させる。それは「白」などではない。灰色で、ところどころ真っ黒で、ボロボロだった。彼が残していったそれは、だが、白雲の反射光の如く私の脳を強く焼いた。急ぎその場を離れ、スマートフォンに残っていた彼の写真を見返さねばならないほど強烈だった。白熱灯を反射する画面に、自由の女神を背に撮った写真を呼び起こす。私の横に立つ彼の優しい眼差し、青白い肌、わずかに持ち上がった唇がちゃんと映っていた。だがそこには、彼の少し高く柔らかな声や、太平洋の向こうの刺激的な経験談は残っていない。足を引きずり、元いた部屋に戻る。銀のワゴンに残っていたのは、他者と取り換えられても気が付かない、生前は見ることもなかった彼の芯だけだった。

 追想から浮上した私は、文化人類学者だった彼の研究室から譲り受けた本の表紙を撫で、ぼんやりと考える。

 彼の魂は今、どこにあるのだろうか、と。

                       *

 ヤキ・インディアンの謎めいた教えにうんざりし始めた頃、足元に強い衝撃を感じ、腹の底に鈍い痛みが走った。地上の暑さに、じんわりと汗が滲む。

 ポーンという軽快な音と共にシートベルトを外し、小さな窓を覗き込んだ。強い日差しに目を細める。搭乗機が降り立った滑走路の先には黒い山が連なり、その手前にはピンクの花を咲かせるサボテンが伸びていた。

 スペイン語訛りの英語に苦戦しながら入国し、空港からタクシーを拾って三十分ほど走れば首都に着く。世界中で見られる無機質な高層ビル、その麓に並ぶラテンアメリカらしい黄色やピンク、オレンジの壁の建物、スペイン帝国が残した灰色の教会。それらを横目にしながら、レンタカー店へと入る。

 ガラスの扉を閉めると、通りに鳴りやまないクラクションが遠ざかった。独特な拍をバックにラップが流れる殺風景な部屋の中、赤い肌の店員がこちらを睥睨する。


「オラ(こんにちは)。予約をしている者だが」


恐る恐る英語で伝えながらプリントアウトした予約票を取り出し、店員に差し出す。

ガムを噛みながらノートパソコンで予約を確認していた店員は、


「N州?」


 車の返却場所を見たのだろう、明らかに不審がっている声を上げた。パソコンの画面からくいっと持ち上がった鳶色の目には、私の強張った顔が映っている――どうして、チノがそんな田舎に? まだ口にされていないその疑問に、咄嗟に答える。


「そこの先住民の村に用があるんだ」

「スペイン語も話せないのにか?」


 言葉に詰まり、じっと店員を見つめる。先ほどの曲は終わり、寂しげなギターと中性的な歌声が店内に響いていた。異なる曲調なのに、独特な拍は変わらない。何かを訴えるような声を聴きながら、ビリビリに破かれた二人分のEチケット、同じようにちぎられた住所のメモを思い返す。

 彼が「本当の故郷」と言っていたその村の位置さえ、私は三か月前まで知らなかった。そこに行って一体何がしたいのか、私自身、よく分かっていない。日本を飛び出した衝動から生じたやましさが、私の心臓を激しく打った。店員の視線に緊張し、どくどくという鼓動を耳元に感じていると、目の前の男は首を竦める。


「ま、車さえ無事に戻りゃ、俺にはどうでも良いことだがね。予約の確認ができたから、パスポートを貸してくれ。コピーを取らせてもらう」


 三十分後、灰色のトヨタ車に乗り込んだ私は、そこでようやく、N州の州都で落ち合う案内人からのメールに気が付いた。


〝ようこそ。こっちには、いつ頃到着の予定だ?〟

                         *

 旅の目的地であるその村の文化を研究する彼は、会うたび異郷の色々な風習を私に教えてくれた。かつてスペインに征服されたその国の村々には、必ずと言っていいほどキリスト教の教会があるというのもその一つだ。

 ところがその夜の彼は、あまり口を開こうとしなかった。周囲の酩酊した陽気を寄り付かせない暗い目に、私は風邪の引き始めのようにぞくりとした。孤独な目をやめさせたくて、フィールドワークから帰って来たばかりの文化人類学者に収穫を尋ねる。


「……思うようにいかないや」


 ビールを喉に流し込んだ彼は明るい声で言う。うっすら隈が浮かぶ目には、未だ暗闇を抱いているにも関わらず。見た目と話し方の矛盾は、私をやたら焦らせた。枝豆を食べながら、焦燥を紛らわすように軽口を叩く。


「西洋文明に侵されていない、まっさらなマヤの末裔なんて簡単に見つかりっこないよ。どんな森の奥でも赤ラベルのコーラが売られる時代にさ」


 私の言葉に、彼は唇の端を歪めてみせる。彼はよく、泣きたいのを我慢するような笑顔を浮かべることがあった。その時も、こちらの意図を汲んだように笑うので、私は鳩尾が捩れるような痛みを覚えた。


「僕らは懐古趣味の幻想を求めているわけじゃない」


彼は熱燗を頼むと、卓に肘をついた。私は下腹を抑えながら続きを促す。彼は小難しい学問を嚙み砕いて話すのに長けており、常の憂鬱を忘れたように語る彼が私は好きだった。


「例えば、こういうのはどうだろう。居酒屋は、日本の伝統的なレストランとして海外に紹介されているよね」

「江戸時代からあるって言われるくらいだからな」

「だけど飲んでいるのはビールだし、食べているのはポテトフライ。会計はスマートフォン一つで完了だ。これのどこが伝統的なレストランなんだ?」


 私は唸りながらビールを啜る。あっさり負けを認めた私を前に、彼は目を細めた。


「文化っていうのは、常に変化する。どんなものでも、どこにあろうとも。そして、内外の人々が好き勝手に解釈する。僕ら文化人類学者は、こびりついた物を取り除いて、その芯を分析するのが仕事だ」

「……どこでもってんなら、」


今度は素直な疑問が口を突く。


「どうして、わざわざ遠国の辺鄙な村に文化の本質を探しに行く?」


 すると、文化人類学者の饒舌さはあっという間に消え去ってしまった。口を噤み、運ばれてきた酒をとっくりから飲み始める。普段の彼ならばあり得ない粗野な行動に、私はカッと焦りが戻って来るのを感じた。


「門外漢が、偉そうにごめん。それもこれも、俺がその村に行ったことないのが悪いんだな、うん」

「君は昔から、ヨーロッパばかり行きたがるから」


 いじけたように言った彼は、思い直した様子でお猪口を手に取った。ほっとした私は、首を竦めてみせる。


「その点については、いつも平行線だな!」


 彼と私は、大学一年生の時、地理学の授業で知り合った。海の向こうに憧れを抱いていた私達はすぐに意気投合し、暇を見つけては二人で異国を飛び回ったものだ。始めはイタリア。次はドイツ。その次はアメリカ……彼に誘われて、いわゆる発展途上国にも行ったが、私にはカルチャーショックが大きすぎた。

最後に一緒に海外へとくり出したのは――その時はオーストラリアに行った――、私が今の勤め先から内定をもらい、彼の大学院進学が決まった直後の夏休みだった。

 社会人になってからは、家から電車で三十分の居酒屋に飛び込み、彼と話をするのがせいぜいだ。それぞれ忙しい日々を過ごす中、飛行機で何時間もかかる異国を旅するのは難しい。

 だが、やつれた彼がいつものようにビールを頼む姿に、私は、日頃の疲労を抑えつける活力が湧いてくるのを感じた。ジョッキを置くと提案する。


「よし。じゃあ、互いに自由なうちに、君の本当の故郷とやらを旅しようじゃないか」

「自由なうち?」


 首を傾げる彼に、私は澄ました顔で左手を見せる――まだ何も着けていないが、いずれ銀色の輪を嵌めるその手を。


「君が日本を留守にしている間に、プロポーズした」


 突然の告白ではあったが、彼はこちらがたじろぐくらい動揺した。飲み始めたばかりのジョッキが卓へ落ち、ビールがポテトフライにかかる。私は慌てておしぼりを持ち、皿をどかすと彼の前を拭き始めた。それなのに彼は呆けたまま呟く。


「マッチングアプリで見つけたっていう彼女?」


 気の抜けた質問に、むしろ私が当惑しながら頷いた。私の顔をぼんやりと見ていた彼は、そこでようやく我に返り、目下の惨状に眉をしかめる。


「ごめん……」

「君は、意外に天然だな」


 私はおどけて返す。彼はわずかに唇の端を持ち上げ、六分目ほどに減ったビールを口に含む。


「そうだな、互いに自由なうちにそうしよう。実は僕も、身を固める決心をしたんだ」


 枝豆が噎せ、私は咳き込む。

 今夜の彼は、まったく私を動揺させる!


「本当に⁈ そんな素振り、今までちっとも見せなかったじゃないか。相手は誰だよ?」

「君もよく知る方だ」

「もったいぶらずに教えてくれ!」


 彼の左手の人差し指が、ふいに天井へと伸びる。思わず黙り込んだ私の前で、彼は恍惚とした顔で笑う。桜貝のような爪の先に、電球がちらりと反射した。


「神父になることにした」


 五年前に突如カトリック教会で洗礼を受けた彼は、淡々と宣言した。

今度は私があ然とする番だった。返す言葉が見つからない。ほとんど残っていない白い泡を舐め、動悸を抑えつける。


「どうして、また」


 問う声が微かに震えているのを、私は気が付かないふりをした。彼もまた、私の衝撃なぞ知らぬように唐揚げを齧った。


「普通になりたくって」


 さりげなく彼が言ったその言葉は私の背を撫でて消え、その冷たい感触に心臓が締め付けられる。違和感の根本を知るのに怖気づいた私はふうん、と間の抜けた返事をするのが精いっぱいだった。逃げるように、ジャケットを持って立ち上がる。彼に驚かされっぱなしで、〆のラーメンを食べる気力も残っていない。


「じゃあ、一週間くらい休みを勝ち取ってくるからさ。日取りが決まったら、航空券、押さえてくれよ」

「いつも僕に予約させるんだから」


 俯きながら言う彼に、私は手を合わせる。


「頼むよ。君が探してくるチケット、いつも信じられないくらい安いんだもの!」

「浮いた分で奉仕してもらわなくっちゃ、割に合わない」

「はいはい」


 財布から二万円を取り出し、彼の手に握らせる。


「パスポートは更新済みだから、帰ったら写真送っとく」

「はいはい」


 彼はこちらを見ようともしないまま、お札をポケットにねじ込んだ。

 約束した通り、彼は二人分のチケットを押さえてくれていた。彼の人生最後の夜に。

どうして手配したチケットを捨てようとしたのか。どうしてチケットを手配したのに、首に縄を掛ける決心がついたのか。私は未だ、答えを見つけられずにいる。

                   *

「パウロの友よ、ようこそ我らの村へ」


 彼の洗礼名を口にした案内人が車を止めた。N州の州都でレンタカーから案内人のトラックに乗り換えた私は、でこぼこの道で痺れた尻をさすりながら降車する。首都の摩天楼や色鮮やかな家々は陽炎のように消え、今や周囲にはオレンジ色の大地が広がるばかり。建物と言えば、村を囲む赤いレンガの塀くらいだ。


「本当は首都まで迎えに行きたかったんだが、祭りの準備で忙しくてね」


 アメリカはテキサス州での就労経験があるという案内人の言葉に、私は日本語訛りの英語で返す。


「良いレンタカー店を教えてくれたじゃないか、それで十分だよ」


 少し躊躇った後、


「グラシアス(ありがとう)」


 私が知る数少ないスペイン語を口にする。すると案内人は大笑して私の肩を叩いた。バチンッと軽快な音を跳ね返した塀から、赤い帽子に水色のブラウスを身につけた少女がひょっこりと顔を出す。私の顔を見ると、満面の笑みと共に駆け寄って来た。帽子に載せた色とりどりの造花を見せながら、小さな口を熱心に動かして話しかけてくる。しかし私には、どの言語を話しているのかさえ分からない。


「ゆっくり話してくれないか」


 とうとう英語で頼んだ私に、案内人は唇を震わせながら溜息をついた。


「この村で英語を話すのは俺だけだ。せめてスペイン語で頼むぜ」

「そう言われても……」


 私は困ってしまう。返事ができない私への落胆を大きな黒い瞳に浮かべ、少女はくるりと背を向けて塀の向こうに消えた。

少女を追いかけるように塀を越えれば、彼の「友」というだけの理由で、私は村中から歓迎された。眩暈がするほどの強い酒に、肉と野菜、チーズがたっぷり包まれたトルティージャ、牛肉とニンニクの旨味が凝縮されたスープ、サボテンのサラダ……それは特別な料理のようでいて、トマトや玉ねぎといった馴染みある食材もふんだんに使用されており、気がつけば出された皿のほとんどを私が食べ尽くしていた。案内人は私の食べっぷりに目を丸くし、口元を拭う私の横でぼそりと言った。


「日本人は少食だと思っていたんだが」


 日本人代表の文化人類学者が築き上げてきたイメージを崩した満足感に、笑いが込み上げる。案内人はそれに呼応するように目を細めた。


「その顔は、パウロそっくりだ」


 食後、案内人は、私をレンガ造りの家に囲まれた藁ぶきの教会に誘った。中に入ると、剝き出しの地面に敷物が置かれ、薄暗い奥にはキリスト教の祭壇が見えた。祭壇の横には、窓からの白い光を浴びて聖母が佇んでいる。彼も祈っただろう像の前へ向かい、手を合わせる。

と、ふいに何かの気配を感じた。そちらに目を向けたが、誰もいない。


「パウロは良い奴だったな」


 私が見つめる側とは反対に立ち、案内人は呟く。


「気が良いし、俺達の言葉も上手で、日本人にしとくのは勿体ないくらいだった。ちょっと頑固なところはあったが」

「頑固?」


 私は意外に思って聞き返す。私からすれば、彼ほど柔軟な人間は他にいない。大学のディスカッションでは反対意見も上手に取り入れて意見を纏めていたし、私との旅では、いつも行先の決定権を譲ってくれた。


「ああ、頑固だった」


 ところが彼の「本当の故郷」の構成員は、きっぱりと断言して首を竦める。その仕草は、ハリウッド映画でよく見かけるものだった。おどけたように見える所作は私を無性に苛立たせ、私はつい詰問口調になるのを抑えられない。


「どんな時にそう思ったんだ?」


 案内人は、顔からすっと表情を消して考え込み始めた。そうやって、私が答えを諦めるのを期待しているようにも見える。だが、私は待ち続けた。こちらが凝視していると、男は小さく溜息をついて渋々口を開く。


「ある祭りについて説明していた時のことだ。その祭りの終盤について、俺は、男が女を食べるのを、男同士で真似る、と言ったんだ」

「食べる?」

「隠喩だよ。日本語でも似た言い回しをすると聞いたが」


その言い方で、私は己の推論が正しいことを知る。つい、顔が熱くなった。


「そうしたら……」


 そこで再び彼は黙り込み、私はもどかしく思いながら続きを促す。案内人は私の焦れた顔を見ながら、言葉を継いだ。


「彼は真似ではないと言い張った。それは本当の行為だと、彼はそう考えていたんだ。つまり、男同士の甘い欲が発現しているのだと……俺がいくら違うと言っても聞かなかった」


 私は始め、説明に理解が追いつかなかった。しばらく案内人の言ったことを反芻し、ようやく意味を飲み込む。彼の遺骨を思い出し、そして、頭の中が真っ白になる。


「祭りは、非日常なんだ」


 案内人は囁く。私はその言葉に、彼がこの地で探していたものをようやく悟った。


「彼は、俺達に幻想を抱いていた。男同士でも、女同士でも、この村では夫婦のように公然と愛し合うのだと。俺はとうとう堪え切れず、彼に……」


男は言葉を詰まらせ、聖母に跪くと胸の前で十字を切った。


「酷いことを言った」

「教えてくれ」


 掠れた声で、口の重い男に懇願する。案内人は、唇を震わせながら息を吐いた。


「俺達に縋るのはやめろ、君は君の故郷で居場所を見つけろ、と言った。君の本当の故郷であれば、その孤独な魂も安らぐはずだと……」


                        *

 彼の体が入った棺を前に、神父は涙を浮かべて十字を切った。親と絶縁していた彼の喪主を務めた私は――一人で見送ったのだから、喪主も何もないわけだが――、黒い棺の中に浮かぶ十字架をなぞる。私の乏しい知識によれば、彼の行為はキリスト教にとって地獄行きの大罪らしい。教会の敷地にも入れないのではと心配していたが、神父の反応に肩の荷が下りた。


「もっと話を聞いてあげれば良かった」


 白い壁の部屋に響く神父の嘆きに、私は思わず鋭い声を上げた。


「話って、何かあったんですか」


 彼の伏せられた瞳を思い出し、目頭が熱くなる。詰め寄った私の歪んだ顔から、神父は少しだけ視線を逸らした。


「こいつは神父になるつもりだって話していたんです。何年も先のことを考えていたのに、どうして首を吊ったりしたんでしょう。……彼の最後の夜を考えると、眠れないんです。どうか教えてください」


 捲し立てる私の肩に手を置き、神父は暫く俯いていた。やがてわずかに顔を上げると、私を祭壇のすぐ前の席に導く。


「……今から言うことは、絶対に他言しないで欲しい」


 神父の密やかな声は、祭壇にも届かず消えた。私が頷くのを確認し、神父は前を向く。


「……一週間前の深夜、彼は泥酔してここに来ると、召命は嘘だったと告白した」

「召命が、嘘?」

「神父を目指すのをやめると言ったんだよ」


 彼の葬式の一週間前、それは私が彼と酒を酌み交わした最後の日だった。酔いで血色を取り戻した彼の疲労した顔を思い浮かべ、私は話の続きを待つ。


「呂律の回らない舌で、我が身可愛さに神を欺いたと激しく嘆く彼に、私はゆるしを授けた」


 誰もいない告解室を振り返る。木製の柵の奥に見えるのは、暗闇だけだ。

 神父のゆるしに、彼は途端に醒めた表情を浮かべたらしい。そしてぐしゃぐしゃのスーツを伸ばし、柵越しにむくんだ目を神父に向けた。


「良い歳して、恥ずかしいところをお見せしました」


 いつも通りの様子に安堵した神父は、茶目っ気を込めて言う。


「悪魔に唆されたのだろう」


それに対し、彼は唇を歪めただけだった。


「夜分に大変失礼しました。おやすみなさい、神父」


 また明日にでも会えるかのように、彼は爽やかに言い残したという。だが、次に教会の門をくぐった彼は、挨拶さえも口にできない状態で、冷たい体を狭い箱に横たわらせていたのだった。


                       *

 塀を飛び出し、私は異郷の荒野に立つ。そうしながら、普通になりたいと言った、あの夜の彼の表情を思い出そうと試みた。だが、日常の一コマに過ぎないその瞬間を、私はどうしても呼び起こすことができない。彼と語り合った話や共有した経験は、私にとって友人とのかけがえのない思い出のはずなのに。代わりに鮮やかに蘇るのは、肉付けを溶かされ、煤でまみれた彼の芯だった。足元の土の色と記憶の中の骨のそれを比べていると、横に案内人の気配を感じた。


「今夜の祭りは、キリストに因んだものだ」


 案内人は口元に生やした髭をしきりに撫でながら、そう切り出す。


「パウロも何度か参加したことがある。彼はクリスチャンだったから、彼の葬送にはぴったりだ。……君も参加してくれると、嬉しい」

「村の大切な行事なんだろう」


 私は小さく言った。


「スペイン語もろくに話せない余所者が邪魔して、皆さん気を悪くしないだろうか」

「誰しも、余所者として異郷に生まれ落ちるものだ」


 案内人は短く言った。


「これは、あの時パウロに言うべきだった言葉だがな」


 私は再び視線を上げて、乾いた大地を見渡す。すると先ほどは見落としていた、深い緑のサボテンが見えた。その頼りなく細長い影が、彼のほっそりとした体に重なる。

 案内人と共に塀の内へ戻ると、伝統的な衣装に身を包んだ女性や子どもが祭りの準備を始めていた。男達は教会の中で打ち合わせをしているらしい。

教会の壁に立てかけられた十字架が目に入った。人類の原罪を背負うイエスの胸には、赤やオレンジの瑞々しい花々、からからに乾いた薄緑の葉が飾られている。村に来てすぐに出会った少女が、その傍で何かを作っている。手元を覗き込むと、藍色のリボンで花を象っていた。少女が顔を上げ、はにかむ。私も微笑み返し、滞在先である案内人の家に入った。呪術師に教えを授かる文化人類学者の本を取り出し、飛行機で読んだ箇所を読み直す。


「死はわしらの永遠の仲間だ」

「それはいつでもわしらの左側、腕をのばせばとどくような所にいるんだ」


 呪術師の台詞に、私は顔を上げて横を見る。その男がすぐ傍に居ると言う「死」に、私は話しかけてみた。


「君の故郷を旅するのは、思えばこれが初めてだな」


 彼とは何度も遠い地を旅したのに、私は彼のことを何も知らない――住んでいた部屋や眠れない夜、愛した人も。再び、ビリビリになったEチケットが脳裏に浮かぶ。


「君のことを、俺に教えたくなくなったのか?」


 虚空に耳を傾け、答えを待つ。だが、いくら待っても、祭りに心を躍らせる異郷の人々の笑い声が響くだけだった。


                      *

 日没、蝋燭に火が灯される。赤、青、緑、様々な原色を身に纏う人々が、教会の前に集まっていた。暗闇を追い払う色鮮やかな祭りに飛び込もうとしていたあの少女を見つけ、小さな肩を叩いて呼び止める。


「オラ、チカ(やあ、お嬢さん)」


 きょとんとこちらを見上げる少女に、私はポケットから取り出したスマートフォンを見せる。微かな蝋燭の光を邪魔しないよう画面を暗くして、先ほどダウンロードした自動翻訳のアプリを立ち上げた。


「十字架の飾り、とっても綺麗だ」


 日本語を吹き込むと、正誤不明のスペイン語の翻訳が流れ、少女の顔が輝く。そして今度は、彼女が白い光を放つ画面に口を近づけた。


「一週間前から、いっぱいお花を作ってたの」

「どれがニセモノか分からないくらい上手だね」


 私の賛辞に、少女は頬を膨らませる。


「あそこに飾ったら、どれもホンモノなんだから!」


 あっけにとられ、画面の日本語を二、三度読み直す。どうやら私は、彼女の文化を訳し損ねていたらしい。


「ロ・シエント(ごめんよ)」


 私は言った。


「俺は、ただ、どれも綺麗だって言いたかったんだ」


唇を尖らせ、しかし彼女は頷いた。


「もう間違えないでね」


ゆるしを与えられ、ほっと息をついた瞬間、黒い帽子が頭にぱさりと落ちて来た。


「始めから、そうすりゃ良かったんだ」


 案内人の大きな笑い声が通り過ぎていく。

 案内人の背が色とりどりの人波に紛れ込んだ途端、ギターの軽やかな音が聞こえて来た。黒い帽子の青年がギターをかき鳴らしている。初老の男性が、片面太鼓でそれに追随した。レンタカー店で聞いたのと同じ独特の拍に、胸が躍る。私の高揚が極限に達したその時、子ども達が彼らの言葉で歌い始めた。オレンジの小さな光は、空気を震わせる音楽に激しく揺れながら、それでも絶えることはない。白い十字架と鮮やかな水色のポンチョ、赤のスカートが入り混じる光景に目を奪われていると、輪の中から案内人が顔を出した。


「こっちに来いよ!」


 駆け寄って来る男に、私は首を竦めてみせる。


「踊ったことないんだ」


 強く引っ張る手を抑え、私が情けなく告白しても、彼は大笑して光の方へと引きずり込むのをやめようとしない。よろめきながら輪に入った私に、先ほどの少女が飛びついてきた。


「バイラメ、セニョール」


 音楽の中、腰ほどの高さにある少女の顔にぶつからないよう身を揺らせば、先ほどの躊躇はあっという間に消え失せた。繰り返されるフレーズを真似ながら、私は小さなパートナーと踊り続ける。

 突如始まった音楽は、やはり何の前触れもなく止んだ。息を切らして座り込んだ私に、案内人がビール瓶を持って来てくれる。


「お願いがあるんだ」


 一気に飲み干した私は、案内人を真っすぐ見つめると切り出した。私と異なる色の肌に浮かぶ、私と同じ色の瞳。同じようで違う目に光を湛え、案内人は続きを促す。


「また、ここに来て良いかな」


 男は、にやっと笑ってビールを飲んだ。


「スペイン語くらい、勉強しとけよ」


 ほっと息をつく。汗で湿った帽子の隙間に涼やかな異郷の風が吹き込み、昂った神経を宥めて行った。ようやく腕の緊張を解いた私の背に、悪寒が走る。

 微かな期待を胸に、私は左側を向く。

 だがやはり、そこには誰もいなかった。

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