最低最悪の婚約者から解放された令嬢が幸せになるまで
第一王子であるリカルドには七つの頃に決められた婚約者がいる。
侯爵家のアリシアという令嬢で、行儀作法も勉学も優れ、容姿も美しい。人脈も幅広く、王妃教育もそつなくこなしていて、欠点は表向き存在しない。
ただ、リカルドに対しての態度は、他の誰にも向けないようなひどく冷たいもの――いや、「無」である。
一か月に一度ある二人きりでのお茶会では、挨拶しか口にせず、無表情でじっと紅茶の入ったカップを見つめ、時間が来れば即座に撤退していく。茶菓子にさえ口をつけない。
夜会ではさすがに微笑んでいるけれど、腕さえ組まない。友人たちとは楽しそうにおしゃべりをするが、リカルドと共にある時は一切の感情を持たない。なんならダンスさえ義務的である。
真正面から相対するのはこの時ばかりなのだが目が死んでいる。
どうしてこういう風に接されるのかリカルドは分からなかった。
気が付けば彼女はこうだったし、距離を詰めようにも詰めた分だけ後ずさりされてしまう。
側近たちはアリシアと出会って数年後――既に二人の距離感と、アリシアの態度が確定した後に侍るようになったので原因を聞けるでもない。
だからリカルドは、婚約当初からを知るだろう王妃、母に訊ねてみることにしたのだ。
「アリシアが冷たいですって?当たり前ではないの。
おまえ、脳に欠陥でもあるの?」
実の母の言葉である。
執務の合間の休息の時間に訊ねて問うたところがこれである。
リカルドはソファに腰かけた状態でどういうことかを重ねて問う。
「有望な令嬢を集めた茶会では無難に接していたから、一番優秀なアリシアとの婚約を整えたのに、いざ婚約したとなった瞬間からおまえはアリシアをなじり、突き放したじゃない。
何度も説教をしたのを覚えていないのかしら。
最初のうちはアリシアも歩み寄ろうとしてくれていたのに、無碍にしたのはおまえよ。陛下が婚約の解消をしてくださらなかったから関係が続いているだけ。
侯爵家当主からは何度も解消の申し出があって、わたくしも言葉を添えたのだけれどね」
「なっ、母上、婚約の解消を手伝おうとしたのですか!?」
「当たり前じゃないの。言っておくけれど、わたくしはあのような態度でアリシアに何年も接したおまえに対する情はもう残っていないわ。
どういう思惑であのような態度を取っていたか知りたくもないけれど、普通の感覚なら嫌われてもしょうがなくってよ」
そこで王妃は一度紅茶を飲み、控えていた侍女におかわりを淹れてもらう。
「容姿を貶すのは当たり前、自分より勉学が進んでいる状態を頭でっかちだの勉強だけが取り柄だのと腐して、暑い寒いとか天気のよしあし、この世の全てをアリシアに当たり散らしておいて、嫌われないと思っていたことが不思議だわ。
アリシアにとってのおまえは不快な言動を繰り返す木偶の坊よ。王命でなければ婚約者をすぐさま辞めて距離を取って二度と関わりたくないと思われているのじゃないかしらね」
「ですが、俺は今は」
「今がどうだっていうのかしら」
王妃の視線は冷たい。
確かに息子であるリカルドに対して、情など欠片も残っていないのだろう。路傍の石を見る目のほうがよほど優し気だろうと思わせるような、そう、アリシアがリカルドを見る時のような、「無」だ。
「今、陛下は王太子の見直しを考えておられるの。わたくしはアルベルトを推すわ。
おまえが王になってもその無神経さでは国を導けないでしょう。アリシア一人幸福に出来ないのだし民も幸福にできないでしょうしね」
「え……?」
「あら、知らなかったの。弟のほうが優秀だなんて、それはまあ側近も言えないわよね」
新たな情報がどんどんと出てきてリカルドは体温がどんどん下がっていくのを感じる。
確かに幼いころ、アリシアにキツい態度を取っていた気がする。けれど十二歳頃には改めたような記憶がある。
たった五年程度のことで恨み骨髄とばかりにされるのはリカルドにとっては意味が分からない。
常人は一年もキツい態度を取られれば関係を遮断するのだが、国の頂点の息子に生まれて以来傅かれてきたリカルドに常人の感覚は備わっていない。
故に、子供の頃のことを許せないアリシアや母が悪いと思ってしまう。それが空気に滲んでいるのを見逃す王妃ではない。
「おまえはアリシアやわたくしが悪いと思っているようね」
「……」
「育て損なったのか、生まれた時からそうなのか判断に困るけれど、そういうところが致命的に王に向いていないのよ。
陛下も似たところがあるけれど、あの方は少なくともわたくしを尊重して下さった。
けれど不出来なおまえを後継にしようとしたところはダメよねえ」
しみじみとぼやいて紅茶へと砂糖を一匙入れ、一口だけ啜る。
甘くしたはずの紅茶に、精神的な苦みを感じて眉をしかめた。
「わたくしが良いと言うまで、おまえからアリシアに近寄るのはやめなさい。
もし侯爵家に押し入ったと分かったら監禁するわ」
「……婚約者の家に行くことのなにが悪いのですか」
「アリシアの心に良くないのよ。言っておくけれど、おまえとアリシアならアリシアの方が価値が高いの。
わたくしだけがアルベルトを推すと思っているかもしれないけれどね、陛下はおまえに見切りをつけつつあるし、宰相をはじめとする重鎮たちもアルベルトを支持しているの。
で、アルベルトを立太子させるとなったら、たった二歳しか違わないおまえは争いの種となるのよね。
――じゃあ、どうなるかなんて分かるでしょう?」
真っ青な顔をする息子に対し、王妃は淡々と言葉を紡ぐのみ。
本人にここまであけっぴろげに言うくらいなのだから後はもう王が頷くだけで速やかに事は進むようになっている。そして周囲はアルベルトの立太子を支援していて、リカルドを推すとなれば大変なことになると王も分かっている。
支持者のいないものを王にしてどうなるかなど、多少ものの道理が分かっていれば予想はつく。そもそも支持者の筆頭になるべき婚約者に見捨てられているのだ。今後に期待できようはずもないのは随分昔に分かっていたはずだ。
分かっていなかったのは王とリカルドのみで、故にアルベルトは兄を反面教師に励んできたわけで。
結局、リカルドは真相を知らされたショックそのままに王妃の執務室から追い出され、注意をすこんと忘れたまま侯爵家に乗り込もうとしたところを侍従たちに取り押さえられて自室に軟禁されることとなる。
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愚息が侯爵家に乗り込もうとしたと知った時、ああ、だろうな、としか思わなかった。
あの子は義母――前王妃の甘やかしでそれはもうわがままに育った。幸いにして五歳の頃に義母が儚くなったから以降はきちんと育てたつもりだったけれど、義母の影響は結局抜けきらず。
まだ影響の強かった頃に婚約などを許してしまったおかげでアリシアという才女が犠牲になってしまって、後悔している。
あの子につけるくらいなら、アルベルトの婚約者にすればよかったわ。
幼くとも可愛らしくて将来的に美人になると分かる顔立ちの少女に対して、よくもああまでボロクソに言えたこと。
あの子の顔立ちも決して悪くはなかったけれど、だからと言って……アリシアが平凡な顔立ちだったとて、仮にも淑女に対してあの言いようはなかったわ。
さて、あの子の処分も決まった事だし、陛下も決意なさった。
アルベルトが立太子すると決まったし、あとはアリシアを自由にするだけね。
こちらの都合で婚約を白紙撤回するのだから慰謝料はつけるべきだしその後の身の振り方もある程度わがままを聞くべきね。
八年も縛り付けておいて何一つ報いないだなんてなったら王家の面子にかかわるわ。
婚約を結んでいない令息は把握しているし、派閥的に問題のない優秀で条理の分かる方を見繕っておかないと。
もちろんここから選ばなくても構わないと伝えなければね。なんなら派閥関係の緩和のために婚姻してもらっても結構。
他国にさえ嫁がなければそれでいいの。王妃教育の最奥までは知らなくても、ある程度までは知っている令嬢を国の外へなんて出せない。
ああ、忙しくなるわね。
幸いなことは、アリシアの情緒が予想以上に強かったことくらいかしら。
あの子の愚かな行動を嫌いながらも耐える過程で心が失われたらと不安になったけれど、あの子に対してだけ「無」になっただけで済んだ。
他の人間に対しては感情豊かだったし、ある意味元凶のわたくしに対しても親しんでくれていた。
……本当に、愚息は何をどうしてこんなよい娘を蔑ろにしていたのやら。
問題なく接していた、だったかしら。戯言よね。
暴言を言わなくなった後の接し方にも問題はあったわ。
アリシアについて深く知ろうとも考えずに囀るのは自分の話だけ、自慢話をペラペラ喋るばかりで面白味の欠片もなくって、お互いが男女の体になっていってからはいやらしい視線を向けたり毛ほども隠さずいやらしい話を振ったり。
襟を詰めたドレスなんていうレトロなドレスをアリシアが着込んでいたのはあの子のせいなのだけれど、それだって不満だったとか。どれだけ性欲に負けているのかしら。
まあ、おかげで陛下への報告書はどんどん分厚くなっていって、どんどん陛下からの評価が下がっていっていたのだけれど。
それでも陛下が決断なさらなかったのはご自身の母が溺愛していた息子だから、なのよねえ。
ああ嫌だ。わたくしはそういう風にならないようアルベルトを育てたし、わたくしも義母のように孫に接しないよう自戒しているけれど、いっそ王族規範に付け加えようかしらね。どう付け加えたらいいかすぐには思いつかないけれど。
まったく、いつまでもボクチャンで居られても困るのよね。子を成せるほど立派に育っておいて、そんなところだけお子様のままなんて恥ずかしい。
親子二代揃ってああも凡愚だったのだから義母の罪は重いわね。
儚くなられていなければ余計傷が広がったはずだから、そういう意味では……まだマシかしら。アルベルトへは手出しされなかったからなんとか立て直せるものね。
まったく、王妃業なんてろくなものじゃないわ。
こんなものを引き継がずに済んだのはアリシアにとっては幸運ね。幸運ついでに幸せになってもらわなければ。
さ、あれこれ進めてしまいましょうか。
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婚約が白紙撤回となったと聞いた時、アリシアは心底から安堵のため息を吐いた。淑女としてはよろしからぬ、感情をあらわにする態度ではあったが、目の前にいるのは父母だけ。気を抜いていても叱られる相手ではない。
むしろアリシアの苦労を見ている二人だったので、よかったわねと喜びの空気しかなかった。
「王妃様からお勧めの見合いが幾つか見繕われているけど、こちらはどうしようね。時期は指定されていないし、見合いをしなくてもいいとも言われているよ」
「ではひと月ほどお時間いただきます。……やっとアレと会わずに済むのですもの、少しだけ休みたいのです」
「ええ、ええ。なんならひと月と言わず少しの間心身を癒すために保養地でゆっくりしたっていいと思うわ。ねえあなた?」
「そうだね。今の季節ならそう混んでいないだろうし、行きたくなったら言うのだよ。すぐ予約を取るからね」
にっこにこの両親に勧められ、まずはアリシアは本を取り寄せるところから始めた。
この数年間、好きだった読書をろくに出来なかった。
好きな作者がポンポン新作を出していたのに読めなくて、でも初版は欲しいと買い置きはしていた。なのでそこはカバーできるが、興味を持ったけれどあらすじだけ知っている本というのはたくさんある。それらを買い占めて保養地に行ってみようか、と考えているのだ。
保養地は王都から半日ほど行った、小さな山と程々の大きさの川の近くにある、貴族専用の町だ。
社交シーズンの後は疲れた貴族が押し寄せるので満員になるが、今は社交シーズンから外れている。しかしてそれでサービスが低下するわけではない。むしろオフシーズンで人手が余っているし、農作物も出荷するほど余っているので、過ごしやすい上にあらゆるサービスが予約なしにたっぷり受けられる最高の状態で待ち構えている。
なのでアリシアは親の勧めに甘えて旅立つつもりである。
幸い、王家からの慰謝料もたっぷり貰えた。
久しぶりに気楽なデイドレスもしっかり作って、ピンヒールでなくぺたんこヒールの靴も見繕って、保養地の公園などでゆったり過ごしたりもする。屋台で菓子を見繕ったりするのも楽しいだろう。
子供の頃は時間に余裕があったから両親と兄と一緒に一週間ほど滞在していたが、アレの婚約者に据えられてからはご無沙汰だ。
兄はもう結婚して次期当主として父の補佐をしているので一緒には行けないが、一人で行くと言っても専属侍女や従者がついてきてくれるので心細くはないだろう。
かくして、自由となったアリシアは意気揚々と保養地へと旅立った。
景観と実益を考えて植えられた果樹、四季折々に咲くよう植えられた花々。散策の間聞こえるのは小川のせせらぎ、公園に行けば噴水のささやかな水音が耳を癒す。
そんな保養地でアリシアは思い切り羽を伸ばしていた。
シーズンオフでも客がまるきり居ないわけではないので、少ないながらも屋台は出ているし、借りた別荘の料理人も腕利きな上に季節の食材の使い方が秀逸で屋敷の料理よりもどこか朴訥ながら舌に優しい。
勉強もする必要がないし、家庭教師がやってくることもないので、朝は少し寝坊したって誰にも怒られず急かされない。専属侍女たちも無理に起こすことはせずに呼び鈴を鳴らすまでは待機してくれている。
着る服だって軽くて気楽なデイドレスでいい。しかももう詰襟で露出も手首から先だけ、なんていうクズ対策の暑い服でなくていい。
公園で本を読もうと外出する時だって、貴族街と同じくらい治安がいいので侍女一人護衛騎士一人で事足りてしまう。
しかも見晴らしがいいガゼボがいくつもあるので文字を追うのに疲れたら持ち込んだ果実水を三人で飲みながら休憩さえできてしまう。
そんなゆったりした日々の中、アリシアは一人のくたびれた青年と出会う。
出会ったのは屋台街を散策しているときだった。
点々と設置されたベンチに腰掛け、屋台で買い求めたのだろう果実水を片手に死んだ目で地面を見ていて、なんだかそれが気になったのだ。
美しい容姿なのになんだかぼろっとした雰囲気があって、疲れてます……と空気が語っていたのだ。
だから、男性でもあまり嫌わないかな、と判断したベリー入りの焼き菓子を片手に歩み寄り、
「よろしければ召し上がって。疲れた時は甘いものが沁みますわ」
と、空いたもう片手に握らせたのだ。
青年はゆっくりと顔を上げ、眼鏡越しにアリシアを見た。
本当に疲れているのだな、と感じるその挙動に、王子との茶会の後を思い出して心底気の毒に思った。
「あ、お代、を」
「お気になさらず。わたくし、今は疲れてないの。
あとで摘まもうと思っていたけれど、本当に必要な人に渡したほうがその菓子も喜ぶと思いますから」
にこ、と微笑みかけてアリシアはその場から立ち去った。
専属侍女と護衛騎士がそのあとを追いかけてきて、侍女の方が口を開く。
「リンデンベルグ公爵家のお方ですわ。確か最近お家騒動があって、前当主夫妻とご兄弟が「病死」なさいました」
「あら…。だからあんなにお疲れなのね」
身内を処分しなければいけないほどの騒動が起き、その後若くして公爵家を継ぐとなったとあればそりゃもう心身ともに疲れたろう。家族との間に愛情があったとしても、ケジメをつけさせるほどの何かが起きたとあれば余計に。
同年代ではなく、少し上――五歳ほど上の人だった記憶があるので、もう既婚者だろう。奥方と一緒に来ているとして、奥方は寝込んでいてもおかしくはない。
そうアリシアは考えて、そのまま忘れ――る前に、彼とまた遭遇した。
久しぶりに刺繍でもしようかしらと店に出かけ、あれこれ買い込んだ帰り道。
たまたま散策していたのだろう青年と小道で遭遇したのだ。
あら、と思い出したのは、容姿にまだくたびれた気配が残っていたからだ。
「ごきげんよう」
自然と挨拶をすると、青年も一礼してくれた。
「この間は無様な姿をお見せしました。この通り、持ち直してきたところです」
「それはよかったこと。けれどまだお疲れのようですわ、カフェ・フェスティアのチーズケーキなどいかがかしら?」
「それは、ご一緒してくださると?」
あら。既婚者の殿方なら、まあ、デートではないかしら?
そんな風に思ったアリシアはごくあっさりと受け入れ、カフェに共に赴いた。
三日に一度は通っているお気に入りのカフェで、特にレアチーズケーキが絶品なのだ。ベリーソースも程好い甘酸っぱさで好ましい。今の時期ならアイスティーのセットが一番好きだ。
青年はクライド・リンデンベルグと名乗り、良ければ名前で呼んで欲しいと言うのでそのようにした。
クライドは空腹だったのか、三種のチーズケーキをぺろりと平らげ、更にはベリータルトにも手を出した。甘いものは好きだがこの店は知りませんでした、と何処か冬にあたたかなミルクを飲んだかのようなリラックスした様子を見せたのでアリシアもほっこりした。
おいしいものは正義。
数人分をお土産として持ち帰っていたので、奥方とまた召し上がるのかしらねえ、と言ったところで侍女は不思議そうにしていた。
それからも何度か街で顔を合わせ、挨拶をした。
奥方は余程体調が悪いのか、一緒にいるところをついぞ見なかったが、アリシアより一週間ほど先に保養地を後にすると挨拶があったので、あとは自宅療養なのかしらと少し気になってはいた。
まあ、くたびれてはいたけれど、あれほど優し気な青年が夫なのだ。悪いようにはなるまい。
私にもああいう感じの旦那様が出来たらいいわねえ、なんて呑気に考えながら保養地から戻ったアリシアは、両親の言葉にぴしっと固まった。
クライドから婚約申し出があったというのだ。
あれ?奥方がいるのでは!?
アリシアは硬直したままあれこれ思い返していた。
クライドは一度も妻がどうこうと言わなかった。菓子を買って帰っている姿も見かけたけれど、本当に自分用でしかなかったのでは?だって誰の好みとかそういう話はなかった。
ただただアリシアの勘違いで既婚者だと思い込んでいただけ、なのでは。
だから侍女は不思議そうにしていたのでは。
「少し前にちょっとした騒動があった人物だが誠実さは折り紙付きだよ。その誠実さ故に苦労したのだからね。
本当は家を出て裁判院で働くつもりだったから今は先代――彼の祖父に当主教育をつけてもらいながら仕事をしているそうだよ」
「隣国の公爵家と縁があって交易のとりまとめをしている家だから、仕事を滞らせることが難しいお家よ。
要するに、仕事はきちんと回さないといけない……あなたなら問題はないと思うのだけど……」
母は腕組みして少し難しい顔をする。
だってお家騒動があった後の家なのだ。
騒動になった原因が知られていないので両親と兄と弟を粛正したその人間性にもちょっと不安がある。
そんな妻の不安を察してか、父は手にしていた書類を机の上に置く。
「諜報の者に調べさせたけど、クライド・リンデンベルグ殿は本妻の子。兄と弟は妾の子で、本妻が亡くなった後に妾が後妻として家に入ったそうだよ。
この妾と息子たちが問題でね、見た目は悪くないが正当な後継者であるクライド殿をあの手この手で引きずり落して家を乗っ取ろうとした。そして父君も傀儡となってしまった。
それで命の危機も何度も……ということで、クライド殿は仕方なく家の膿を出した、というわけだね。
さすがにクライド殿だけで実行したわけじゃないらしいが、数日じゃあこのくらいの情報しか手に入らなかったよ」
アリシアとしては、いつこの話が来たか知らないけれど十分早いし深く掘り下げられているのでは?と思う他ない。
しかし身の上を聞くとあの保養地でのくたびれきった姿に納得がいく。ご母堂がいつ亡くなられたかは分からないけれど、後妻とその息子を律しようとしてもままならず、父まで取り込まれ、結果始末する羽目になったのだ。そりゃ心労も募ったろう。
ひと月に一度程度、社交があればプラスで何日か、程度しかあのバカ者と会わなかったアリシアでさえすごく疲れていたのだ。クライドは日々疲れたろうし、癒す余裕もなかったはずだ。
しかもそんな家庭状況で婚約者を、なんて難しかったろう。
下手をすれば後妻がちょっかいを出してきて、破談で済めばいいが取り返しのつかない事態になりかねない。
神妙な顔をしている娘に、父は少しだけ不思議そうな顔をした。
「しかし、アリシアはどこかでリンデンベルグ公爵に会ったのかい?
全く会った事がないけど身分的に釣り合うから、みたいな文面じゃなかったのだけど」
「ああ、保養地でお会いしたのです。ものすごく疲れた顔をしておいでだったから、菓子を差し上げて。
それから何度か街でお会いして、カフェにご一緒したりして――奥方がいらっしゃるのだと思っていましたの」
適齢期真っただ中で当主となれば既婚者だと思うのがこの国では常識である。
なのでアリシアもそういう認識をしたのだが違った上に求婚されてしまった。なんてこったい。
しかし、と、アリシアは思う。
「婚約を考える前に、一度、顔合わせをしとうございます。
どうしてわたくしを望まれたのか、とか、色々訊ねてみたくて」
「それくらいは問題ないよ。では、一度当家においで頂こうかな?」
にこやかに話をまとめた父に、母もよろしいとばかりに頷いてその日は終わった。
それから父はリンデンベルグ家に招待状を出し、第一段階としての顔合わせを取り付けた。
アリシアとしては当主としての勉強中であるクライドを呼びつけるのならあれこれ歓待しないといけないかしら、と悩むところもあったけれど、そこは料理長が張り切ってくれた。保養地でクライドが好んでいた菓子を聞き出し、そこから自らの持つレシピで対応できる茶菓子を選定し、それに合う飲み物も準備してくれることになったのだ。
この料理長、ちょっとした休みが出来る度に食い歩きをして新たなレシピの考案をしているだけあって、腕がいい。単品料理だけでなくコース全体、そのコースに合わせた飲み物の考案、ティータイムの菓子と飲み物の組み合わせと口にするもの全体を自分で組んでいる。この料理にはこのお酒が飲みたくなるな、とか、自然と組んだ方向に向かうように味付けを施すのが大変上手なのだ。
なので、料理長に任せておけば、自然と一番いい組み合わせのものを大変おいしく頂ける。
なのでアリシアも安心して顔合わせの日を待つことが出来た。
顔合わせの日。クライドは指定時間ぴったりに侯爵家を訪れ、隣国で流行し始めたという一輪挿し用の花瓶を贈ってくれた。ちょうど入荷したのでよければ……という風で。そういう気遣いはちょっと嬉しい、とアリシアはちょろくも思ってしまった。
今日の茶菓子はチーズタルト。余計なソースや果物は一切なく、素材で真っ向から勝負をかける。合わせる飲み物の方にベリーを取り入れた、チーズに甘酸っぱい味を好むらしい対クライドのものだ。
「あの、不躾なのですけど、どうしてわたくしに求婚を?」
「もしかするとありきたりなのかもしれませんが、あんなくたびれきってて不審な男に、癒されろと菓子を下さったあなたが女神のように見えて。
その後もカフェに連れていって下さったり、おいしいものを売っている店を教えてくださったり。
その時の語彙から教養も十分にあると分かりました。
どこの家のご令嬢かも、護衛騎士の腕章で知ることが出来ていましたし」
今日は前よりも顔色のいいクライドは訥々と語る。
あの日、鬱々とした考えを意味もなく繰り広げていたクライドにとって、純粋に心配してくれたアリシアは本当に一筋の光のようだったのだ。
そして、彼女が立ち去るのを呆然と見送った後に食べた菓子は久しぶりに美味しいと感じるものだった。
長い家庭内戦争で食事は安全なものではなく、いつどのタイミングで毒が入るか分からなかった。だから彼は安全面で問題ないように、けれど体を壊さないようにと適当極まる自炊をしていたのだ。
もちろん誰に教わったわけでもない料理がおいしいわけがない。
小麦粉を溶いたお湯に肉と野菜が浮いていて、ほんのりした塩っ気が逆に物悲しいスープを毎食口にしていたクライドは、いつしか食べる幸せを忘れていた。
けれど、アリシアからもらった焼き菓子で思い出したのだ。
ああ、食べものは美味しいんだったな、と。
幼い頃に母と食べた焼き菓子とは全く違う味なのに、あの頃のように美味しいと思える自分がまだ残ってくれていたことにクライドはただ感謝を覚えた。
そして、きっかけとなってくれたアリシアを、意識する事となった。
その後は別に付き纏って会っていたわけではない。
アリシアが世間話で教えてくれたカフェやパティスリー、果てはパン屋だのレストランだのを食べ歩く行きや帰りにたまたまアリシアと遭遇していたのだ。
恐らくお互いの借りた屋敷が近距離だったのだろう。
その時に抱えている本から彼女の好む作風を知り、着ているデイドレスの傾向から趣味を知った。
後妻が来るまでは優秀な後継者としてあれこれ教育されていたし、洞察力も高かったクライドは、調べるまでもなくそういった情報を無意識に取り込んでいた。
結果、好ましい人だ、彼女となら穏やかに暮らせるかも、と、クライドは考えた。
しばらく休んできなさいと送り出してくれた祖父へと「アリシア・ガスコイン嬢に婚約者がいるかどうか、どういった身の上かを知りたい。帰るまでに調べて欲しい」と願う手紙を出した。
甘くはないけれど極端に厳しいわけでもない祖父は、保養地から帰ったクライドに調査結果を教えてくれた。というか、リンデンベルグ家は王妃のお見合い候補リストに入っていたので、祖父はそもそもアリシアについて調べていたところだった。
宮廷雀から聞き取った情報的にも忍耐強く、かつ優秀な女性だと分かる。それでいて慈悲深いとかほんとに女神なのかな?とクライドは訝しんだ。
さすがに女神だったら奥さんには出来ない。不遜すぎて。
しかしガスコイン侯爵家の令嬢だ。人間だと思いたい。
いや、人間であってくれないと求婚できないのでそういうことにしよう。
我欲の三段活用でクライドは迅速に求婚、の手前、婚約願いの文を綴り、侯爵家へ叩きつけた。勢い的にはそういう感じである。
婚約解消の後ですぐさま次の男との婚約は難しいかもしれないが、彼女を狙う男は掃いて捨てるほどいるに違いない。なら拙速でも乗り込んでおきたい。
だって、あの日あの時からアリシアの微笑みが頭から離れないのだから。
というのを聞かされたアリシアの頬は赤く染まっていた。耳もちょっと赤い。
わたくし、ただ、ほっておけなかっただけなのに。
そんな気持ちでいっぱいいっぱいである。
しかもくたびれきった感じが抜けたクライドは美男子である。
別に美男子など山ほど見てきたし、好意を向けられたこともある。そもそも王子はアレで顔は良かった。性格はゴミだったが。
しかしアリシアには純粋な愛を向けられた経験がなかった。主に異性方面で。
恋愛感情を向けられたことなどない。だって婚約者が仮にもいた身分なので。
けれど年ごろの乙女であったので、憧れはあったのだ。
そうやってもじもじしているアリシアに、クライドは控えめに笑って、
「今日この場で婚約のお返事をいただかなくても構いません。
なんなら、友人として関係を始めていただいても。
保養地で少し交流しただけの男ですし、アリシア嬢からすれば何も知らない男に等しいでしょう?」
「そ、れは、そうですけれど。
でもそれはわたくしにとってだけ都合がよいのではないかしら」
「私はそれくらいあなたの心を大事にしたいのです」
この方、とっても優しい方だわ。
アリシアは本能的に「コイツ逃したらあかん!」となった。
なった勢いで、すっくと立ちあがる。そうしてクライドを誘うように片手を差し伸べ、
「ふつつかものですけれど、お時間がありましたら今すぐ婚約いたしましょう」
「え」
ぽかん、とした後、急ぎ立ち上がったクライドはアリシアの手をそっと取る。
そうして、はにかんだように笑って彼女の案内のまま中庭から屋敷へと入っていった。
それをそっと見守っていた両親は二人が来るだろう執務室にそろっと戻ったのであった。
その後アリシアは元来の優秀さを以て婚約者として出来る範囲で公爵家にザックリメスを入れ、使用人から何から取捨選択していった。親戚一同も関与していないかしっかり調査して処罰していく。
彼女のその判断はクライドの祖父から見ても惚れ惚れするもので、孫はいい嫁を見つけてきたぞと呵々大笑したものだ。
けれど公爵家の取り仕切りに掛かり切りになるのではなく、クライドとの交際もきちんとしていた。
結婚式までの間、月に二度は二人で会う時間を作り、侯爵家の料理長おすすめのカフェに出かけたり、侍女たちの間で話題の演劇を鑑賞したり、時にはお互いが指定した本を読んだ感想を語り合ったりと睦まじく過ごした。
その過程でアリシアは遅い初恋を自覚し、それを恥じらいながらクライドへ伝えた。
まだ婚約者という関係から手を取り合うくらいしか出来なかったが、クライドはそれはもう嬉しそうに微笑んだし、次に会った時はお互いの初恋が成就したお祝いだと言って保養地にあるあのカフェの姉妹店のチーズケーキを買ってきてくれた。
結婚してからもお互いを尊重し、大事に思い、労りあい。
最終的には男児一人女児一人に恵まれ、産まれた子も二人で時間を作って愛情たっぷりに育てたことで家族関係はいつまでも良好で。
それまでの苦労は今の幸福のためにあったのだなあと笑いながら幸せな生涯を送った。