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第五章

 息子の高藤哲治がのっそりとキッチンを出ていく様子を見送った恵美は、早速食器を片付け始めた。そこへ飼い犬のシュヴァルツのお世話を済ませた娘の由美が戻ってきた。流し台で手を洗いながら、元気に話しかけてくる。


「お母さん、シュヴァルツとってもおなかが空いてたみたい。いつもなら『ウエイト!』と言ったらちゃんと待てるのに、今日はだらだらよだれを垂らして体が動いちゃって。やり直しさせるのに大変だったよ」


「まあ、どうしたのかしら?」


 洗ったお皿を拭きながら、恵美は小首をかしげた。


「由美わかるよ!」


 にこっと笑って由美が恵美を見上げて続けた。


「原因はお兄ちゃんだよ!」


「お兄ちゃん?」


「そう! だってシュヴァルツ、昨日の夜、ずーっとお兄ちゃんのほっぺたをペロペロなめてたからおなかが空いたんだよ。お兄ちゃんがしくしく泣いてたから」


 それを聞いて恵美が驚いた。


「あら、由美ったら起きていたの?」


「うん。お父さんが怒鳴ってたから、びっくりして目が覚めちゃった」


「ああ、そういうこと……」


 皿の片づけが終わって哲治のお弁当の用意を始めながら、恵美がため息をついた。


「ご近所さんにも迷惑をかけて、お父さんには困ったものよね……」


「お父さんって、お兄ちゃんにはちょっと怖いよね。由美には優しいのになんでかなあ?」


 無邪気に問いかける娘のまっすぐ腰まで伸びたストレートヘアを見ながら恵美が言った。


「お父さんはお兄ちゃんにもっとしっかりしてほしいと願っているのよ。

もう中学生だし、男の子だしね。いつまでも甘やかしてはいられないと思っているんじゃないかな」



 由美は金髪交じりの赤茶色の髪と透き通った茶色の大きな目が目立つ、彫りの深い顔立ちだ。髪質は母親の恵美から、目鼻立ちは父親の隆治から受け継いでいて、日本人離れした雰囲気を身にまとっている。

 小学生で既に人目をひく美しい容姿になった娘は、母である恵美の自慢だった。一緒に歩いていると、産んであげた自分の美しさこそが世間に認められたような心持ちになるからだ。


「でもさあ」


と調理中の恵美の手元を覗き込みながら由美が言う。


「お父さんがいくらしっかりしてほしいって思っても、お兄ちゃんの成績は低いまんまだね。由美はちゃんといい成績を取っているのに!」


 恵美は灰皿の上の煙草を一口吸ってから、ふふっと笑ってこう答えた。


「そうね、由美は努力家だもんね。オールAを取るなんて、なかなかできることじゃないわ。お父さんの頭の良さが遺伝したのね」


「だよね? 由美の方がお兄ちゃんよりずっといい子だよね!」


と、鼻の穴を膨らまして、もっと褒めてもらおうと身を乗り出した由美にちょっとイラついた恵美は、フライパンを振りながらちくりと注意をした。


「でもね、由美。お前はそうやって『勝ち気』になるところがあるけど、それはよくないわよ」


「勝ち気って何?」


 由美が不服そうに尋ねる。恵美が由美を見下ろして言った。


「勝ち気っていうのは、負けず嫌いだってことよ。勝って一番になりたいっていう気持ちは大切だけど、女の子としてはちょっと下品だわ。

まあ、お前は丙午の生まれだからね。この年に生まれた女性は気性が激しくて夫を早死にさせる、と言われているのよ。だから仕方がない面もあるんだろうけど…。そうね、私みたいに『強気』だったらよかったんだけど」


 それを聞いて由美が尋ねる。


「強気と勝ち気は違うの?」


「全然、違うわよ!」


と恵美は哲治のお弁当箱に具材を詰め込みながら力説を始めた。


「強気っていうのは、困難に立ち向かう力そのものが強い性質のことなのよ。ライバルがいてもいなくても関係ない、自分自身の内側から出てくる強さがある人のことを言うの。逆に勝ち気な人は打ち負かせる相手がいないとエネルギーが出ないわ。

 お前の場合、お兄ちゃんやクラスメイトっていう張り合える相手がいるときには頑張れるのよ。しかもそれが弱い相手なら余計に張り切って打ち負かすでしょ? そういうところはお前の卑怯なところなの。お前の弱さでもあると言えるのよ。

 でも私は違うわ。別に他人と張り合いたいわけじゃないの。今の自分を超えるために、周りの声を気にすることなく必死に努力するのよ。それが強気と勝ち気の違いなの。お前は自分に弱さがあることを少し自覚した方がいいかもしれないわね」


「うーん…」


 眉をしかめて由美が呟いた。


「お母さんが強い人だっていうのはわかったよ。でも、強気と勝ち気って意味があんまり変わらないように聞こえるんだけど…」


 お弁当のふたを閉めながら恵美が言った。


「それはお前がまだ子供だから。もう少し大きくなればわかるわよ」


 時計をちらっと見て恵美が言う。


「ほら由美、そろそろバレエの支度をしなさい。遅刻はダメよ」


「はあい」


 階段を上がっていく由美を見ながら、恵美は弁当をテーブルに置き、煙草をもう一本取り出した。チルチルミチルのライターでシュボッと火をつけて、ふうっと一服し、清々した気持ちになる。



 子供が二人できて一人前の母親になった恵美だったが、実はいまだに荒れ狂う嵐を胸の内に抱えていた。

 特に学校のPTAでの集いのとき、それが顕著になった。恵美は、


「私は『美しい』から、誰もが私に好意を持って向こうから話しかけてくれるはず」


と期待して受け身でぼんやり待っているのだが、口をつぐんでただ座っている恵美に関心を持つ人はほとんどいない。

 恵美は他のお母さんたちがぺちゃくちゃと楽しそうにしゃべっているのを眺めながら、誰も自分をちやほやしてくれないことに傷つき、孤立している自分の境遇を呪った。



 しかし、その苦しみは若かった頃に比べればこれでも多少は和らいでいる。

 かつて実家にいたころ、母の正子は農作業を嫌い、自分を磨くことにしか興味がない恵美に、否定的な言葉をたくさん浴びせかけた。そんな環境で、自分を一度も母から認めてもらえなかった恵美は、承認されなかった「恨み」を荒れ狂う心の中に蓄え続けるしかなかったのだ。

 だが今は違う。おなかを痛めて産んだ子供たち二人は、恵美のことを手放しでほめたたえ、恵美の言い分を従順に聞き入れてくれる。それはもちろん、母に愛されたいからだ。しかし恵美はそんな二人の願いを無意識のうちに都合よく解釈し、自分をほめたたえたら、そのご褒美として愛情を与えるようになっていた。

 ついさっきまで、哲治や由美と話していた会話もそうだ。一見、子供たちのことを考えてアドバイスをしているように聞こえるが、実のところは、子供たちにマウントしているに過ぎない。自分が優れていることを子供たちに認めさせたい。そのために、子供たちの欠点をあげつらって、自分を持ち上げているだけなのだから。


 こんな風に、家庭という小さなお城の中で女王様になった恵美は、従順な家臣二人をコントロールし、承認欲求を発散させていた。しかしその欲は決して満たされることがなく、益々膨張するものなのである。

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