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第三章

 深夜1時を回るころ、オレこと高藤哲司は自宅に到着した。自宅は大きな戸建てばかりが立っているエリアの一画にある。お父さんの高藤隆治が金融業界専門の業界誌の社長として成功して、うちはこの辺でも一番大きい家を建てていた。辺りはしんとしていて、自転車のチェーン音が妙に響く。オレは高藤という表札がかかっている大きな門扉をそろそろっと開けて家の敷地に滑り込んだ。

 うちの庭で飼っているビーグル犬のシュヴァルツがくーんと鼻を鳴らしてオレの脚にすり寄ってきた。オレはかがみこんでシュヴァルツの背中を優しく撫でてやった。

 途端にパっと家の明かりがつき、まさかのお父さんが縁側から庭に出てきた。普段うちのお父さんは仕事が忙しくて朝帰りしてばかりなのだ。夏休みに入ってからも、そのスケジュールは変わらなかったから安心していたのに。


「哲治! 何時だと思ってるんだ!」


 オレの目の前に立ったお父さんは、真夜中だというのに大声を張り上げた。とたんに近所で飼っている犬たちがワンワン!と声を限りに吠え始めた。すると近所の家にパラパラと明かりがともり始め、犬を叱責する飼い主の声が聞こえてきた。

 オレは近所の人にさらし者にされた恥ずかしさと、怒っているお父さんへの恐怖とで、むっとしてお父さんをにらみ上げた。


「なんだ、その目つきは!」


 激昂するお父さんの声が響き渡る。お母さんの高藤恵美が寝間着姿のまま慌てて部屋にやってきて声をかけた。


「あなた、怒鳴らないで。ご近所に迷惑ですよ!」


 お母さんに声をかけられて、お父さんはふーっと息を吐き、ちっと舌を鳴らした。


「お母さんから聞いたぞ。お前、夏休みになってから毎晩遅い時間に家を抜け出しているそうだな。なぜだ、理由を言いなさい」

「……」

「なんだ? 聞こえないぞ!」


 どうせ何を言っても怒られるのがわかっているから、オレの言葉は唇から先に出てこず、ごもごもとした音にしかならなかった。そんなオレの態度によってお父さんの怒りに再び火が付いた。


「哲治! 男ならはっきりものを言わんか!」


 びくんっとオレの背中が動いたのを見ていたのか、犬小屋に逃げ込んだシュヴァルツが、くーんと小さな鳴き声を立てた。


「あなた、もう夜中ですから……。ねっ」


 お母さんがお父さんの腕を取って話しかける。続けて、そろそろお向かいのおじいちゃんが怒鳴り込んできますよ……などと話しているらしい声が聞こえてきたけど、ひそひそ声でオレにはよく聞き取れない。

 お父さんが縁側からオレを見下ろした。背中から居間の明かりが射しているから、オレにはお父さんの表情が暗くてはっきりとは見分けられない。それでも、お父さんの目に宿る光にはいらだちが感じられた。


「まったく……勉強が人並みにできないばかりか、馬鹿なことばかりするんだな。そういう無鉄砲なところはお前のおじいちゃんにそっくりだ」


 お父さんが窓のサッシに手をかけた。


「そんなに外に居たいんだったら、そうすればいい。お前はもううちに入らなくていい」


 言い捨てて、お父さんは窓をぴしゃりと締めて鍵をかけてしまった。

 電気が消えて辺り一帯が暗くなった。じわっと目の端に涙がにじむ。そしていつもの頭痛がし始めた。オレは小さいころから頭痛持ちで、雨が降る前や嫌なことがあったときによく頭痛を起こす。右のこめかみの血管がどくどくと鳴り、強い痛みになった。

 チャリチャリと鎖の音がして、シュヴァルツがオレの顔に湿った鼻を寄せて頬をぺろりと舐めてきた。その温かい息とオレを見つめる優しい目を見て、突然金縛りが溶けた。オレはほっそりとしたシュヴァルツの体に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。オレが嗚咽をこらえて泣いている間、シュヴァルツはじっと抱かれたままになって、オレの頬をぺろぺろと舐め続けてくれた。


 翌朝になった。大量の蚊に喰われた跡を縁側でぽりぽり搔いていると、窓のカギがぱちんと開いた。


「お兄ちゃん、中に入って朝ごはん食べなさいって」


 声をかけてきたのは、妹の由美だ。オレは黙ってのっそり立ち上がると、リビングの中に入った。続き間のキッチンに向かうと、テーブルの上に、ハムエッグとトーストされた食パンと麦茶が並んでいた。オレは新聞を読んでいるお父さんと向かい合った席に着き、後からついてきた由美がオレの隣に座った。


「いただきます」


 二人でそう言って食事に手を付けようとしたとき、お父さんが新聞を畳んでテーブルに置き、こう言った。


「哲治、反省したか?」


 オレはお父さんの方を見ず、ハムエッグのつやつやとした白身をじっと見た。白身はキッチンの蛍光灯に照らされて端の方がきらりと光っている。おなかがすいた。


「……はい」


 かすれた小さな声で答えたのを聞いて、お父さんがふーっとため息をついた。


「いいか、夜中に家を抜け出す真似は二度とするなよ。お母さんが心配するだろ」

「そうよ」


 エプロンをはめたお母さんが、トレイに入れたてのコーヒーを乗せて運んできて、座っているお父さんに手渡しながら言った。


「毎晩お前が家を抜け出しているって、近所で噂になっているんだから。私恥ずかしくって」

 

 先にハムエッグをぱくついていた由美がもぐもぐと口を動かしながら言った。


「あー、それ隣のおばさんとお母さんがこの前話してた。お母さんがおばさんにぺこぺこ謝ってたよ!」


 オレはみんながしゃべっている間、おなかがぐーっと鳴りそうになるのを、下腹に力を入れてぐっとこらえた。これでおなかが鳴ったりしたら、さらに小言が増えるに違いない。それだけは避けなければならない、と思った。

 お父さんがコーヒーをすすった。


「図体が大きくなっても、頭の中はまだ小学生なんだよ。この辺りは質の悪い暴走族もいるんだぞ。巻き込まれたらまずいってことくらい、頭の悪いお前でもわかるだろ?」


 くすくすと由美が笑った。


「『頭の中は小学生』だって。それじゃ由美と一緒だね?」

「うるさいっ!」


 煽ってきた由美のセリフにカチンときて隣の由美を睨みつけた。途端に由美がむっとした顔をする。


「なによっ!? 勉強は私の方ができるんだからね! 一学期の成績だって、由美の方がよかったんだから!」


 ぷーっと頬を膨らませた由美の顔を見て、オレも言い返した。


「小学生と中学生じゃ成績の付け方が違うんだよ!」

「違うから何? この前お兄ちゃんの小学校の頃の通知表見たけど、お兄ちゃんってCばっかり取っててAが付いている教科なんて1つもなかったんだね。由美はオールAなのに!」

「なんでお前がオレの通知表を勝手に見てるんだよ!」


 ヒートアップし始めたオレたちのケンカを見て、うんざりしたようにお父さんが怒鳴った。


「やめんか! 朝っぱらからうるさいぞ!」


 途端に二人ともにらみ合うのをやめて座り直した。由美はまたご飯を食べ始める。お父さんが席を立った。お母さんが背広をお父さんに手渡す。


「いってくる」


 お父さんが後ろを向いたところで、オレはようやく視線を上げた。背が高くチリチリの天然パーマで細身のお父さんの後ろ姿が見える。オレもお父さん似で生まれつきチリチリパーマなんだけど、小学校までは身長だけはお父さんに似ず、クラスで低い方だった。でも中学生になる頃からぐんぐん背が伸びて、今ではお父さんを追い越せていた。

 だけど残念なことに、頭の中身はお父さんに似なかった。お父さんは高校を飛び級できるくらい頭がよく、東京の大学に進学した秀才だ。だから、お父さんはオレが小さな頃から勉強でとても期待していたようだけど、最近ではその期待は由美の方にかけられている。オレだって、幼稚園の頃までは、大人になったらお父さんみたいになるんだ!と思っていたけど……。最近は自分だけが別の生き物のような気がしてたまらない。


「いってらっしゃーい!」


 由美が食パンを持っているのとは反対の手で、お父さんにひらひらと手を振った。お父さんは由美に手を振り、通勤カバンを持っているお母さんと二人で玄関に向かった。

 すぐに出ていくのかと思っていたら、玄関でお父さんとお母さんが何やら立ち話をしている。しばらくしてお父さんが出かける音が聞こえたところで、ようやくオレは朝ごはんを食べ始めた。隣に座っていた由美はそんなオレの様子をちらりと見て


「ごちそうさま」


と手を合わせると食器を流しに下げ、ご飯を待ち焦がれているシュヴァルツのためにドッグフードを用意しだした。

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