3.黒魔術師と修道女
かつて愛した人がいた。
たった一人の妹。僕の唯一の家族。
彼女は僕の希望だった。七つのとき戦火で親を亡くした僕の、唯一の生きる理由。
僕の守るべき、愛すべき妹――それが彼女だった。
――それなのに。
ああ、あのとき僕が君を止めていたら。
力づくで君をあの場所から遠ざけていたなら、何かが変わったのだろうか。
仲間の傷を癒すため、魔力が切れるまで魔法を使い続ける君を止められていたら。
魔物の爪に抉られた僕の傷から溢れ出る血を、泣きながら必死に止めようとする彼女を突き飛ばしていたら、この世界がここまで穢れることはなかったのだろうか。
そもそも魔物が押し寄せてこなければ。戦争が起きていなければ。
従軍なんて選ばなければ。
僕に着いていくといって聞かない君を、無理やりにでも町に置いていっていたなら、君は死ななかったのか。
死ぬのは僕だけで十分だったのに。
君には生きていてほしかったのに。
でも、君は僕より先に死に、生き残ったのは僕。
――ああ、どうして。
君の亡骸を抱いたとき、僕は世界の全てを呪った。
家族を奪った魔物を、子供すら平気で死地に向かわせるこの国を、僕らを見捨てた人間を。
そして、無力な自分自身を――。
だから僕は黒魔術に手を出した。
千の命と自身の魂を引き換えに、膨大な力を手に入れた。
そう、全ては来るべき復讐の日のために――。
*
「……ルイス? どうされましたの? とても怖い顔」
「――っ」
ヴァイオレットに名前を呼ばれ、ルイスはハッと我に返った。
視線を上げると、腹の上に跨ったヴァイオレットが、こちらをじっと見下ろしていた。
「ふふっ。もしかして別の女性のことをお考えになっていたの? 例えば……アメリア様とか」
「……違う」
「否定しなくてもいいんですのよ。わたくしは構いませんわ。あなたの心がどこにあろうとも」
「…………」
二人がこの部屋に入ってからおよそ二時間が過ぎていた。
部屋の中は性の匂いで満ちている。もう何度交わったのかもわからない。
それでも、ヴァイオレットは腰を揺らす。
「難しいことはありませんわ。ただこのときを楽しめばいいだけ。わたくしのように」
「――っ」
脳が痺れるような刺激と、甘い声。リズムよく繰り返される、吸い付くような水音。――それがルイスの思考を酷く鈍らせる。
(――ああ、くそ)
最初こそルイスがリードしていたのに、いつの間にかこの有様だ。
何かしら情報を吐かせなければならないのに、時間が経てば経つほど身体が言うことを聞かなくなっていく。
(……この女、かなりの好き者だ)
黒魔術云々の話ではない。この女は相当の場数を踏んでいる。あくまで性的な意味でだが。
もしや、彼女の正体はどこぞの娼婦なのだろうか。
そんな安直な考えが脳裏に過ぎる。宮廷舞踏会に招かれているのは、貴族だけだとわかっているにもかかわらず――。
(いや……問題なのはそんなことではない。最も重要なのは、この女の持つ黒魔術がどんな力であるのかだ)
黒魔術――それは魂を対価にして行う禁術。
通常の魔法と違うのは、魔法は使うと身体の寿命が削られるのに対し、黒魔術は魂自体のエネルギーが削られること。
つまり、黒魔術を使い続けた先に待つのは魂の消滅。それ即ち〝永遠の死〟を意味する。
ルイスは千年前、その禁術に手を出した。
自身の血で描いた陣で邪神を召喚し、戦場の千の命を生贄にして対価を得た。
手に入れたのは莫大な魔力と、転生しても記憶が消えない力。魔力は記憶を重ねるごとに強くなる上、上限はない。
だが、そもそも黒魔術は儀式自体の難易度がとても高いものだ。並大抵の恨みでは邪神を呼び出すことはできない。
つまりヴァイオレットが黒魔術師だというのなら、それは彼女が余程強い憎しみを抱いたということになる。――その対象が、必ずある。
「ヴァイオレット……お前はどうして黒魔術に手を出した? お前はいったい何を恨んだ? 黒魔術はその儀式自体に大きな代償を伴う……そうまでして復讐したい相手は誰だ?」
ルイスは問いかける。
すると、腰の動きをピタリと止めるヴァイオレット。
彼女の唇が、ゆっくりと弧を描く。
「わたくしに興味を持ってくださったのね? 嬉しいですわ」
「――は。お前には微塵も興味はない。……が、黒魔術に手を染めた理由には興味がある」
「そう。それでも、わたくしは嬉しいですわ」
ヴァイオレットの両手が再びルイスの頬を包み込む。
鼻先が触れ、もう何度目かわからない口づけを交わす二人。
その唇が離れると、ヴァイオレットは呟いた。
「相手なんて、多すぎて忘れてしまいましたわ」――と。
ひどく冷めた声で、彼女は続ける。
「復讐なんてどうでもいいんですの。わたくしの今の興味はあなただけ。何度も言わせないでくださる?」
ヴァイオレットの薄い笑み。
底なし沼のように妖しい光を秘めたその瞳は、未だ憎悪に満ちている。彼女の復讐心は消えてはいない。
けれど、ルイスはもうこれ以上は無駄だと悟った。
答える気のない相手に、何を尋ねても無意味というものだ。
――結局、ルイスはそれ以上尋ねなかった。
そしてまたヴァイオレットも、何一つ語ることはなかった。
*
こうして真夜中を過ぎた頃。
扉の向こうから漏れる賑やかな演奏の音を耳にしたルイスは、急ぎ身支度を始めた。
「戻られますの? 散会まではまだ時間がありますわよ」
「カドリールが始まったからな。今ならホールの出入りを気にする者はいない」
「そう。……では、次はいつお会いできます?」
ヴァイオレットの問いに、ルイスはシャツのボタンを留めていた手を止める。
(そうか……次があるんだったな)
彼は数秒考えて口を開く。
「二週間後でどうだ」
すると、不満げに目を細めるヴァイオレット。
「遅すぎますわ。最低でも週に一度は会っていただかなければ」
「僕はそこまで暇じゃない」
「では、間を取って十日でいかが? これ以上は譲れませんわ」
「十日か……いいだろう。場所は? 人目のつかない場所にしてくれ」
ルイスは会話しながらジャケットに袖を通し、袖のボタンがきちんと止められていることを確認する。
そして情事の直前に床に投げ捨てた白手袋を暖炉の中に放ると、内ポケットから新しい手袋を出して手のひらにはめた。
ヴァイオレットはそんなルイスの行動を不可解な目で見つめながらも、答える。
「東区貧民街の教会で」
「東区貧民街……あのときの街か。確かに人目はなさそうだ。だが、なぜよりにもよって教会なんだ。僕らのような人間には最も縁遠い場所だろう」
ルイスは訝しげに眉をひそめる。
まさか教会で営むわけではあるまいな? ――と。
すると、クスリと微笑むヴァイオレット。
「教会はわたくしの家ですの」
「家? 教会に住んでいるのか? そんな馬鹿なこと……」
言いかけて、ルイスは一つの可能性に思い至った。
教会に住んでいる……それが本当ならば、ヴァイオレットの正体は一つしかないではないか。
「まさか……」
それはルイスにとって今日一番の衝撃だった。ヴァイオレットが黒魔術師であるという以上に――。
「お前、修道女なのか?」
あ然としたルイスの様子に、ふふっと笑い声を上げるヴァイオレット。
「ええ、仰るとおり。わたくしは修道女ですわ」
「は……冗談だろう? お前のような女が修道女? 世も末だな」
修道女の条件は未婚なおかつ純潔であること。
だがヴァイオレットは進んで男と寝るような女だ。
そんな者が修道女とは……。
「あら、ご存知ない? ここ数十年、修道女は生きるために身を捧げるのが普通ですの。今どき生娘などおりませんわ。最初の相手は多くの場合、神父ですわね」
「…………」
「この国は宮廷も司法も教会もすべてが腐りきっておりますわ。もはや何を恨んだらいいのかもわからなくなってしまうくらいに」
「…………」
「ねぇ、あなたはその答えを知っていらっしゃる? この国の何を正せばいいか、あなたにならわかるのかしら?」
ルイスをじっと見つめる灰色の瞳。
その目に見つめられると、まるで全てが自分のせいだと言われているような気分になる。
この世界を壊したのはお前だと、責められている気がしてくる。
結局ルイスは答えずに、ヴァイオレットに背を向けた。
「午後二時に向かう」
それだけ告げて、ドアノブに手をかける。
すると扉が開く寸前で、再び口を開くヴァイオレット。
「また戦争が起きますわ」
――戦争。
その言葉に、ルイスは思わず動きを止めた。
「戦争など毎年のように起きている」
「でも、今回のは一味違いますの。あなたの耳にもすぐに入ると思いますわ」
「…………」
「ではまた、十日後に」
結局、ヴァイオレットは大事なことは何一つ口にしようとしない。
そんな彼女に強い苛立ちを覚えながら、ルイスは部屋を後にした。