2.誘惑と情事
舞踏会はつつがなく進行していった。
国王と王妃によるワルツに始まり、続いて王子・王女らが、そして爵位の高い公爵、侯爵、伯爵夫妻の順に踊っていく。
未婚かつ家督を継いでいないウィリアムとアメリアが躍るのはその後だ。
ルイスはホールの壁際から、二人が躍る様子を眺めていた。
練習のかいあってか、アメリアがダンスに躓く素振りはない。ウィリアムとホールドし、リズムよくステップを踏んでいる。
(その調子ですよ、アメリア様)
お互いを見つめ合い、広いホールをクルクルと回るアメリアを見ていると、まるで心が洗われるような気がした。
この時間が永遠に続けばいいのに……そんな風に思った。
――だが、穏やかだった心は、不意に聞こえてきた声によって、一瞬のうちに殺気立つ。
「ごきげんよう、ルイス様」
「――ッ」
それはヴァイオレットの声だった。聞き間違えようのない声だった。
けれど、そこに立っていたのは見覚えのない貴婦人だった。
茶髪の髪を後頭部で結い上げ、薄紫色のドレスを身にまとった女性。扇子で顔の下半分は隠れているが、瞳の色もヴァイオレットとは異なる灰色だ。
だが、彼女から発せられる魔力は確かにヴァイオレットのもので間違いない。
(変装……しているのか? それとも前回の姿が変装だったのか?)
正直、驚きを隠せなかった。
ルイスはこの広間に足を踏み入れた瞬間から、ヴァイオレットがこの会場内にいることに気付いていた。
だがそれらしき女性の姿はどこにもない。――それを不信に思っていたのだ。
(髪なら染めればいいだけだ。だが――)
「目の色も変えられるのか」
無意識のうちに呟くと、ヴァイオレットは嬉しそうに目を細める。
「あなたに褒めていただけるなんて、光栄ですわ」
「褒めたつもりはない」
「あら、違いますの? 残念」
ヴァイオレットは扇子で顔を隠したまま、ルイスのすぐ側へと歩み寄る。
そして隣に立つと、ホールの中央でワルツを踊るウィリアムへと視線を向けた。
「いったいどんな魔法を使いましたの? もっと尾を引くと思いましたのに、あの穏やかな顔……。それとも純粋に見せていただけで、結局あの男と同じだったということかしら」
その蔑むような声音に、ルイスは考える。
やはりこの女の目的は、自分ではなくウィンチェスター侯爵なのではないか、と――。
ウィリアムの父親であるウィンチェスター侯爵は、ルイスの知る限り愛人を切らしたことがない。それどころか、同時に複数の愛人を囲っていたこともある。
だがそんな男でも、最も大切なのは貴族の体面なのだろう。社交や公共の場に愛人を伴ったことはただの一度もなく、女性と街中を歩く姿を目撃されたこともない。
だから侯爵に愛人がいることを知るのは、当事者を除けば屋敷の者だけなのだ。
それなのに、ヴァイオレットは侯爵の秘密を知っている。それはつまり、彼女が〝愛人側の人間〟であるということを意味しているのではないか。
(やはり彼女の本当の目的は僕ではなく、侯爵への復讐……)
珍しい話ではない。
侯爵家を恨む人間は、この広間の中だけでも数えきれないほどいるのだから。――だが。
「復讐なら諦めろ」
今まで侯爵家に害をなそうとした者はことごとく殺された。平民も、貴族も、身分問わず殺された。
そのうちの半数に手を下したのはルイスである。
だがヴァイオレットは顔色一つ変えない。
彼女はニコリと微笑んで、ルイスを横目で流し見る。
「ここで話すと怪しまれますわ。続きは二人きりで……ね?」
そう言って、ルイスを広間の外へと誘い出した。
*
大広間を抜け出した二人は、空いた休憩室に入り鍵を掛けた。
家具はローテーブルと、それを挟んで三人掛けのソファが二台あるだけ。灯りは暖炉と、いくつかの燭台のみの薄暗い部屋である。
二人はソファに腰を下ろし向かい合った。
暖炉の炎が、二人の横顔を赤く染める。
最初に口を開いたのはヴァイオレットだった。
「まずはこの前の返事を聞かせてくださらない?」
「返事?」
「あなたがわたくしを抱いてくださるなら、侯爵家には関わらないと言ったアレですわ」
「…………」
――ルイスは顔をしかめる。
(まさか本気だったのか? いや、そんなはずがない。この女の目的は侯爵なはずだ)
ルイスは、ヴァイオレットが接触してくるなら今夜だと踏んでいた。
この一ヵ月姿を見せなかった彼女が現れるとしたら、舞踏会のように人が集まる場所だろう、と。
それに王宮内では魔法を使うことが厳しく制限されている。たとえ高位貴族だろうと魔法を使うことは許されない。
もし使おうものなら王宮付きの魔法使いに魔力を感知され、一族全員が厳しい処罰を受けることになる。
つまり、王宮内では魔法に害される心配がないということだ。
「お前は僕に殺されないように保険をかけた。そんな女の提案を聞くつもりはない」
ルイスはヴァイオレットを冷たく見やる。
すると、「ふふっ」と笑い声を上げるヴァイオレット。
そのさも愉快そうな笑みに、ルイスは瞼を震わせた。
「何がおかしい」
「逆ですわ」
「……逆?」
ルイスの問いに、ヴァイオレットは口角を上げる。
「王宮でなければ、あなたはこうやってわたくしとお話してくださらないでしょう? だって、あなたはわたくしのことを何一つ知りませんもの」
「――ッ」
(この女……!)
確かにヴァイオレットの言葉に間違いはなかった。
ルイスがヴァイオレットと二人きりになった理由――それは、王宮内では自分含めた全ての者が魔法を使えないと理解していたからだ。
ルイスが心の奥底で、ヴァイオレットを恐れたからだ。
「わたくし、嘘は申しませんわ。あなたが抱いてくださるのなら、ウィリアムにも侯爵家にも関わらない――あの言葉はわたくしの本心。ですから……ね?」
「……っ」
「ここなら、わたくしは魔法を発動することができません。当然、ナイフの一本も隠し持っておりませんわ。まぁそんなこと、脱げばすぐにわかることですけれど」
「――!」
妖艶な笑みを浮かべ、ヴァイオレットは立ち上がる。
そしてテーブルに片膝を付き、ルイスへと手を伸ばした。
その両手がルイスの頬を包み込む。それはあの日、初めて会った夜と同じように……。
(なぜだ……。どうして僕は目を逸らせない……?)
自分を見つめる灰色の瞳。あの時とは違う色。
けれど、やはりヴァイオレットの瞳は、この薄暗い部屋の中でも光を宿しているように見える。
(いったいどういうことだ?)
王宮では魔法は使えない。
それなのに、まるで魅入られたかのようにヴァイオレットから目が離せなくなる。瞬き一つできなくなる。眼前に迫るヴァイオレットの唇を、受け入れてしまいそうになる。
ああ、だがこれが魔法ではないとしたら、可能性は一つしかないではないか。
「……まさかお前……魂を売ったのか?」
ルイスはひとり言のように呟く。
するとヴァイオレットはほんの一瞬真顔に戻り、けれどすぐに、唇に弧を描いた。
それはまるで夜空に浮かぶ三日月のごとく、妖しく美しい笑みだった。――ルイスは確信する。
「――ハッ。まさか僕以外にもそんな愚かな人間がいるとはな」
「愚かだなんて。でも、これで納得していただけたでしょう? わたくし、本当にあなたに興味があるだけですの。わたくしと同じ黒魔術師の……あなたに」
「…………」
「ねぇ、お願い。この力を手に入れてから、ずっと心が空っぽなんですの。でも、きっとあなたが相手なら……」
乞うようなその視線が、縋るような甘い声が、背中に回された柔らかい腕が、ルイスの心を掻き乱す。
それは同情か、好奇心か、あるいは……こんな感情を抱くこと自体がヴァイオレットの力のせいなのか。
「……いいだろう、抱いてやる」
瞬間、気付けばルイスは嗤っていた。
その理由は彼自身にもわからなかった。
けれどただ一つ確かなのは、すでに自身が反応してしまっているということ。目の前の素性も知らぬ女の身体に、不覚にも下半身を熱くしてしまっているということだけだった。
(僕も結局は男だったというわけか)
愛など微塵も感じない。心は今も猜疑心で満たされている。
それでも身体が反応してしまうのは男の性か、あるいは黒魔術の影響か。
どちらにせよ、ヴァイオレットが黒魔術師であるというのなら、たとえ王宮の外だろうと簡単には殺せない。
ならば敵対するよりも側に置いておく方が安全だ。
ルイスは自身の白手袋を外し床に放り捨てると、ヴァイオレットの腰を抱き寄せた。
これにはさすがのヴァイオレットも驚いた様子を見せたが、それも一瞬のこと。
彼女はルイスの首に縋りつくように腕を回し、唇を薄く開いた。腔内にルイスの舌を迎え入れ、深い口づけを繰り返す。
その間にも、ルイスは少しづつヴァイオレットの服を脱がせていった。
片手でヴァイオレットの身体を支えたまま、もう片方の手でドレスの留め具を外していく。
最後にコルセットの紐を解きドレスを剥ぐと、ヴァイオレットをソファの座面に押し倒した。
そして二人がようやく唇を離したとき、ヴァイオレットは下着一枚にされていた。
白く滑らかな肌が、ルイスの目下に晒される。
大きく膨らんだ胸に、細くくびれたウエスト、滑らかな腰の曲線、全身から漂う甘い香り――成熟しきった女の身体だ。
「美しいな。この身体なら、そんな力がなくとも男を虜にできるだろう?」
「否定はしませんわ。けれど、この世はそれだけでは手に入れられないものばかり。この身体だけでは足りませんの」
「だから僕の力を欲するのか? 強欲な女だ」
「あら、女は誰しも強い男に愛されたいと願っているもの。これは本能ですわ」
「……は。よく回る口だな」
ルイスは呆れたように呟いて、再びヴァイオレットの唇を塞いだ。深く、深く、繰り返し舌を絡め合う。
ルイスは左腕で自分の体重を支え、右手の指の腹で白い肌を撫でていった。
最初は首筋、次に鎖骨、胸、腹、そして太ももへと移動し……最後は――。
――濡れた指先を見て、ルイスは薄く笑う。
そしてヴァイオレットの腰を引き寄せると、自身を一気に奥まで押し込んだ。




