06:リターンズ
私はそのままゆっくりと彼に背を向けて歩き出した。
ありがたかった。もしも彼が私に話を合わせたのだとしても、それでもありがたかった。少なくとも言下に否定しなかったという点において。
「――あの!」
視線を感じていた背中に、今度は声が届く。焦るような高さの混じった声。反応しそうになるのを留めて、ゆっくりとした足取りのままで私は彼から遠ざかりつつあった。
気持ちはささくれ立っている。彼にまだ、缶ビールを取り落とした理由を聞いていない。それが私の望む答えなのかどうかはもう、永遠にわからなくなってしまう。
「俺――俺、あんたの気持ち、多分わかる」
急に、現実に引き戻される気がした。たとえて言うなら幽体離脱した瞬間に足を引っ張られるようなイメージ。そして現実、私の足は歩みを止めた。
「桜……綺麗だけど、息苦しい。なんつーか、あの……うまく言えないけど、圧迫されるようなそんな感じで―」
すらすらと彼が答えたのだとしたら、かえって私は信用しなかっただろう。どもりながら説明するその口調に、彼が私同様説明のつかない気持ちを抱いているのだ、というのがわかった。
どうしてだろう。どうして彼にはわかるのだろう。
ゆっくり私は振り向く。何故、を瞳に抱いたままなのには私は気付かない。振り返って視線が合うと、彼は一瞬身体を固くする。それから――なんとも言えない光がその目に宿る。
「あんた……昼もこれを見上げてた……」
妙な眼の色で私を見て、彼はそう言った。私は射抜かれたように彼を見ていた。何故?がますます私の心を支配する。
彼の瞳はやっと居場所を取り戻したように私の視線を正面から受けた。そして今度は落ち着いた声音でゆっくりと言う。
「桜の花が、好きじゃないのか?」
当然の問いだった。でも、誰も私に聞いてくれたことはない。私はふっと瞳から力を抜いて、そしてどう答えようか迷わせて、すっと眼を伏せる。
「わからない。好きだけど、苦しいわ」
そんな言葉で、彼が納得してくれるのかどうか私にはわからないけれど、でも、それが精一杯だった。