35:ハッピーエンド
「けどさ」
彼はちょっと笑って、私の腕をつかむ手を緩めた。照れくさそうな笑みだった。
「一度だけ、言葉にしてみたい」
彼の手が、私の頬に触れた。赤く染まっていた頬はまだそのままだけれど、彼の瞳は優しい。私が頷くと、彼は目元だけで微笑する。
「――あんたのこと、好きだ」
私は眼を閉じて、その言葉がまるで慈雨のように身体中に沁み込むのを感じていた。じんわりと温かくなっていく私の思いはじわりと目尻から溢れ、涙の形で頬に零れていく。
その涙の意味は――彼にも、わかっている筈だ。その証拠に、私が泣いていることに彼は一言も触れなかった。
「好きだ」
彼が、短い言葉でもう一度、続けた。
私は眼を開けて彼を見つめて、そして僅かに微笑んだ。受け止めました、の合図は確実に彼に伝わって、赤く染めた頬のまま、彼はくすりと笑う。
「なあに」
「いや」
問いかけると彼は首を振る。それでもなお彼をじっと見上げていると、しばらくはその視線に耐えていたものの……諦めたかのように何度か首を縦に振る。
「幸せだ、と思ったの。俺、幸せだって今、実感した」
照れくさそうにしながらそう言うと、彼はいきなり私に抱きついた。
「ちょ……」
「ありがとう」
切ない声で、彼はそう言った。『ありがとう』。その一言にどれだけの意味があるか、私は心で感じていた。きっと、言葉にしてしまうと儚く消えてしまう。言霊として奪われてしまう。
それでも、私の喉にこみ上げてくる。それは思いであり、願いであり、そして――たぶん、私自身、だ。
私の耳元で囁いた彼に、私は同じように笑って、彼を抱きしめ、そして喉元に溢れる思いを同じ言葉で紡ぐ。
「ありがとう」
無事、完結いたしました。
読了いただいた皆さま、ありがとうございました。
既にお気づきの方が多いとは思いますが、当作は「闇夜の桜」という別作品と表裏一体となっております。「闇夜の桜」は高瀬視点でのお話となりますので、ご興味がありましたらそちらも合わせてお楽しみください。
乃里子はちょっと変わった思考・言動をする子で、彼女自身、自分がマイノリティであることを自覚しています。
それ故に人と違うことが乃里子にとってはストレスでありながら、今では最初から「理解されることなんて無理なんだ」と思い込んでいるところがあり、それが劣等感を引き起こしてはいるものの、結衣やなづきといった理解者のおかげで自分らしさを失くさないように、と思い直せていると思います。
高瀬との出逢いは偶然ですが必然であり、乃里子はおそらく初めて、言葉だけではなく気持ち同士が交流出来ることを――受け止めてくれる人がいることを知って、かなり救われたのだと思います。
少数派であることで生きにくかったり、伝わりにくかったり、疎外されがちであったり――そういう状況にある乃里子が、高瀬という理解者を得て自分の存在を自分で肯定出来たという、ちょっとメンタリティ方面に傾倒したテーマをこっそりと隠していたので、きちんと伝わるように書けたかどうか、非常に不安ではありました。
しかしながら、毎日のように通ってくださったElwingさまには本当に助けられ、励まされ、勇気づけられました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
出来ればスピンオフを書きたい、と思っております。ネタ的には結衣あたりを主人公に出来たらとぼんやり考えておりますが、もしまた皆さまのお目に触れるような機会があれば幸いです。
香住