29:タイムアップ
定時少し前から時計を気にし始めていた。ちらちらと視線は窓の外。緑の中で桃色が僅かに揺れている。頼まれたコピーはあともう少し。これが終われば、帰れる。
「あら」
のろいコピー機の前でじいっと見つめてる私の傍を、結衣が通りかかった。
「残業になりそ?」
「……ん、少しだけ」
「そォ、かぁ」
なにやら考える風に立ち止まった結衣は、「うん!」と言うと持っていた書類をコピー機の上にどさり、置く。
「……?」
「あたしがやったげる」
「は?」
結衣がそんなことを言い出すのは初めてだった。付き合いは長いけれど――なづきなら良くそう言って、こなしきれない分を引き受けてくれたことはあったけれど。
「いーから。綴じて部長に渡しとけばいいんでしょ? オッケーイ」
「あの……」
「ホラホラ、もう定時じゃない。帰った帰った」
ひらひらと綺麗にマニキュアの塗られた手が翻る。ブルーのマスカラで彩られた瞳がウィンクをする。……なんだろう。さすがに結衣の考えていることがわからなくて、私はじっと彼女を見上げる。その視線の先で結衣は微かに鼻歌なんぞを歌ってコピー機でリズムを取っている。
「なにか、あったの?」
「なぁんにもないわよォ。ホラ、早く帰りなさいって! ――ああ、そう」
もう一度ひらひらと手を振ったあと、結衣は私の耳元に唇を近づける。ミス・ディオールの香水がふわんと香る。
「公園の桜、そろそろ終わっちゃうのよ?」
それだけ言うと、にこりと笑った。
よく、わからないけど。でも今日は甘えてしまおう。早く――早く、行きたい。
「ありがと、結衣」
「いってらっしゃーい」
妙に上機嫌な結衣に送り出される状態で、私はそそくさと会社をあとにする。
はらはらと僅かな花びらが舞う公園。息苦しいほどの圧迫感はないけれど、それでも胸が締め付けられる。泣きそうになるのを堪えながら、私は奥の方へと足を進めていった。