分かち合う
その人は、71歳のおばあさんでした。小柄でしたが、しっかりした足取りで歩いていきます。船の甲板からずっと海を見ていました。海の上は空気がおいしいと、すぐに気づきました。どこまでも続く海、そして生まれて初めての船旅でした。島に着いた船から降りると、桟橋に荷物を置いて、両手をひろげてウーンと深呼吸しました。見上げた空は青く、カモメがゆっくり飛んでいました。
朝8時に乗って、4時間の船旅でした。波止場の前の食堂で、うどんを食べました。夫から何度も聞かされていた、この土地の名物のうどんでした。亡くなった夫が、どうだ、うまいだろ、と話しかけてくるようでした。
バス停に行って、行き先の便の時間を見ました。それも夫から聞いていました。次のバスの出発まで、1時間あまり時間がありましたから、ちょっと辺りを散歩しました。車が少ない静かな町並みでした。今まで住んでいた都会と格段の違いでした。海に面して城跡の石垣が残っています。高い石の塀が連なり、その上に大きな松の木が並んでいます。その前に広いお堀があって、水辺でサギやアヒルがたたずんでいます。お堀の前は公園になっていて、そこでゆっくり過ごしました。
その停留所は、始発でした、そして誰も他に乗客はいませんでした。すぐに街中を過ぎて、山道を、川沿いを、バスはゆっくり走っていきました。
目的地である町の、役場の前の停留所でバスから降りました。波止場からちょうど30分の距離の町でした。役場で住民届けをして、町の地図をもらいました。道を歩く人はいません、過疎化で町の人口はこの二十年で半分に減ったと聞きました。
お寺に行って、住職さんから夫の先祖のお墓へ案内してもらいました。お寺の境内の奥に、墓地がありました。
「山本太郎さん、よく覚えています、私の五つ先輩です」
住職さんは気さくな人でした。
「そうですか、いつお亡くなりになられたのですか」
「ちょうど一年前です」
「そうですか、74歳でしたか」
「はい」
墓地の小高い場所に、その墓はひっそりと建っていました。何年も人が来ていない、荒れ果てた趣でした。
「住職さん、夫の遺言で、遺骨は火葬場で処分してもらいました。でも、私は一掴み持ってきました。ここにまいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ構いません、それも太郎さんの供養になります」
「ありがとうございます」
おばあさんは、バッグから小さな箱を取り出しました。そのふたを開けたとき、強い風が吹きました。その風に乗せるように、まきました。こまかい灰は、その風にのって舞いました。おばあさんは、それを見ながら、何かしら、よかったという気持ちがしました。
きのうまで住んでいた所の不動産から、この町で借りる家を探してもらっていました。インターネットで写真も見ることができました。
借りた一軒家には、引越しの荷物も着いていました。庭が広く、田舎の家なんだなという感じがしました。
居間に仏壇をおく場所がありました。そこに、二つのお位牌を置きました。
すぐに最初の一週間が過ぎました。
おばあさんが、昼ごはんの用意をしようと、台所に立ってすぐのことでした。玄関のガラス戸が開く音がしました。
「ごめんくださいー、こんちわー」
「はーい」 と返事をして、庭に面した廊下を歩いて玄関に行きました。
60歳半ばぐらいの男の人が、土間に立っていました。
「ばあさん、ここいらに娘が逃げ込んでこんかったかいな、中学生なんだが、からだはちっこい子じゃがな」
「いいえ、誰も訪ねて来ませんよ、わたしはまだお友だちもできないんですよ」
男の人は、あたりをうかがいました。
「ばあさん、気いつけてな、この町で評判の盗っ人だ、冷蔵庫ん中から、食いもんばかっぱらっていく。まだ誰も現場ば見とらんけん、警察に言われんけど、みんなそいつと思うとる」
おばあさんは、黙っていました。
「冷蔵庫ん食いもんの他は、なんも盗っていかんけん、みんな見逃しとるけど、わしはさっき、わしん家から出てくるとこば見た。そして追いかけて来たんじゃが、この辺で見失のうてしもうた」
「そうですか」 おばあさんは、短い返事しかしません、それで、男の人は居づらくなって出て行きました。
この土地では、留守にするときでも、家の玄関や窓に鍵をかけないということも話していきました。都会では考えられないことでした。
おばあさんは、さっき来た廊下の窓を開けて、小さい声で言いました。
「もう、大丈夫よ、出てらっしゃい」
庭の木のうしろから、女の子が出てきました。
「わかっとったの」
「わかってたよ」
「そいじゃ、なんで、あん人に教えんやったと」
「どうしてかな」
おばあさんは、ニコニコ笑っています。
「バアさま、ありがとう」
そう言うと、女の子は裏の塀をのぼって出て行こうとしました。
「あっ、ちょっと待って、お近づきの印にね、ちょっと待っててね」
すぐに紙袋をもってきて、
「はいっ、これもっていって、お近づきの印よ」
「どうして」
「わたし、誰もお友だちがいないの、よかったら、また来てね」
女の子は、苦虫をつぶしたような顔をして、紙袋をもって玄関の前から出て行きました。
「きっとよー」 うしろで、おばあさんの元気な声がしました。
それから、おばあさんも出かけるとき、家の鍵をかけるのをやめました。
ある日の午後、おばあさんは庭で花の手入れをしていました。ふと家の前の道に、この前の女の子がいるのに気づきました。
「あら、よく来てくれたわねー」
その笑顔に、女の子は安心しました。ずいぶん迷って来たからでした。
「ほら、中に入って、庭から上がる? ほら、どうぞ、いらっしゃい」
おばあさんは、本当にうれしそうな笑顔でした。
「お腹へってない、待っててね、いまちょうどおいしいものがあったから」
二人は、廊下に並んで座りました。お日様が照って、ぽかぽかと暖かく、一年で一番いい季節です。
おばあさんが、やさしくたずねました。
「お名前は?」
「カアイナナ」
「お年は?」
「14」
「そう、しっかりしたお体で、よろしいですね、小柄なのは、わたしと同じね」 そう言って、やさしく笑いかけました。
ナナはほとんど話しません、おばあさんが一人で話しては、一人でおかしがっていました。帰りには、また紙袋をもらいました。この前よりも大きな袋でした。
ナナは、三度目も、昼過ぎに来ました。縁側に並んで座るのが、二人ともいいみたいでした。座った二人の間にお茶とお菓子をのせたお盆を置いて、庭をながめます。庭には、スズメが飛んできます。ときには、小さいきれいな野鳥もやってきます。
お年寄りがするような光景ですが、ナナは本当にいいなあと思いました。おばあさんが、またやさしくたずねました。
「学校には行かないの?」
「ときどき行く」
「どうして、ときどきだけなの?」
「給食費ば払っとらん」
「ナナさんだけ?」
「他にもいる」
「そう」
それから、おばあさんは、また一人で話し始めました。友だちにおかしな人がいてね、とか、昔飼ってたネコがね、とか。ナナは黙って聞いていました。そして、その日も帰るときに、おみやげよ、と紙袋をもらいました。いつも、中には食べ物が入っていました。ナナは、なぜか断りきれずに、苦虫をすりつぶしたような顔をして受け取りました。そして、見送ってくれるおばあさんの、「また来るのよー、待ってるからねー、きっとよー」という元気な声を背中に受けて、笑顔になるのでした。
次の日、おばあさんは、役場に行きました。受付の人に話しました。
「学校で、給食費を払っていない子たちの分を、代わりにお支払いしたいんですが」
奥の方から、40歳ぐらいの男の人が出てきました。
「名前も教えられないし、何ヶ月払っていないかも言えません、またお金があるのに払わない親もいるんです」
「名前はお聞きしません、ただ全部の金額がわかれば、それを寄付として進呈したいのです」
その男の人は、上司に聞きに行きました。
「それはできないということでした、町の施政に対する寄付ということでは、できるんですが」
「そうですか」 おばあさんは、肩を落として帰っていきました。
給食費を払えない家庭の、親や子どもの気持ちが痛いほどわかりました。その子どもが学校で給食を食べるときの気持ちが、それを思う親の気持ちが、そして、ナナの気持ちがわかるのでした。
ナナは、週に一、二回は来るようになりました。
「ナナさんの家族は?」
「ジッちゃんと二人」
「そう」
「ジッちゃんは、漁師だけんど、歳とって、もうあんまり魚ば獲らえんごとなった」
「そうなの」
「船も売って、今は岸から釣ってる」
「何を釣るの」
「アジ、イカ、クサブ、そしてキスも、ウナギも釣る」
「すごい」
「畑で野菜もつくってる」
「あら、そう」
「少しだけよ」
「いいなあ、わたしもいつか畑仕事をしてみたいと思っているのよ」
「あたいは、いや」
「どうして?」
「どうしてでも、あたいは都会で仕事をする」
「そうね」
おばあさんが聞きました。
「おじいさんのお名前は?」
「カアイハチロウ」
おばあさんの顔が、こわばりました。
(河合八郎さん) そう心の中で言いました。
おばあさんは、からだが震えそうになりました。
(あなた、あなたが会わせてくださったんですね、この子は、あなたが無二の親友だと話していた、河合八郎さんのお孫さんですよ)
心の中で、夫にそう言いました。
(何ということでしょう)
わたしたちの歳だと、こんなに大きな孫がいるんだともしみじみ思いました。
(わたしは、ここに来てよかった、こんなうれしいことはない)
ナナは、おばあさんが黙ってしまったので、庭で花や虫たちを見て、一人で遊んでいました。
しばらくして、おばあさんは、町の人からナナのことを聞きました。
「ハチじいんとこん、娘だけんど、何年か前、ある日突然帰って来た。小学校にあがった頃の子どもを連れて来た。都会で所帯をもってできた子だということじゃった、そして離婚して、どうしようもなくなって、父親にあずけて、また都会に行ってしもうた」
一人娘で、母親を早くに亡くして、かわいそうだったが、高校を卒業すると家出するようにして都会に行った。なんの音沙汰もなく、それまで一度も帰っても来なかった。子どもをあずけてからも、すぐに連絡は途絶えた。
「ハチじいは、身勝手な娘をもった自分は、世間に対して面目ないと、それから近所づきあいも親戚づきあいも、せんようになった。町の集まりにも行事にも出てこんようになった。それまでは、人のよか、面倒見のよか人間じゃった」
町の人たちは、お互いのことをよく知っていました。お年寄りが多く、農業と漁業の他には仕事がなく、若い人は少ない町でした。
「今じゃ、電気も水道も止められとる、海や山でとってきた旬のものを、食堂や飲み屋にもっていくだけの現金で、ほそぼそと暮らしとる」
井戸がありましたから、水は大丈夫でした。火は、製材所から端切れをもらって、土間のかまどで燃やしました。水汲みと食事のしたくは、ナナの仕事でした。掃除と洗濯も自分のものはしました。おじいさんは、家にいることはなく、晴れの日も雨の日も、外に出かけました。海や山、そして川でとれるものは、何でもとりました。
ナナは話しました。
「あたい、中学を卒業したら、ここを出て行くの」
「そう、どこに行くの?」
「わかんない、でも、どっかの都会に行くの」
「バアさまは、都会に住んでいたんやろ」
「そう」
「いいなあ、あたいも行く、必ず必ず行く」
そう話すナナは、幸せそうな顔でした。
おばあさんは、ナナや他の子に、給食費としてお金をわたしても、受け取らないだろうと思いました。本当に困っている人は、見ず知らずの人から情けは受けないということは、わかっています。
役場に行った日から、ずっとそのことを考えていました。
わからないように置いてくるというのはどうだろうか、ふっとそう思いました。郵便受けに入れてくる、ということはできないだろうか、そんなにも考えました。
――直接わたしては、納得のいく理由がないかぎり受け取らない、でも渡す人が誰だかわからなければ、受け取るはずだ、心当たりがあったとしても、確信がなければいいんだ。
でも、どうやってさがすか、本当に困っている人を、どうやってみつけるかだ。その方法がまったく浮かんできません。絶望の状態でした、どうしようもありません。しばらくして、パッと顔が輝きました。ナナさんは、わかるかもしれない、ふっとそう思ったのです。
その日は、おばあさんは遊びに来たナナに、居間にあがるように言いました。二人は、向かい合わせに座りました。
「ナナさん、これからお話しすることは、ナナさんが嫌な思いをするかもしれないけれど、それは重々お詫びをします。でも、聞くだけ聞いてくださいね」
ナナは、おばあさんの真剣な雰囲気を感じ取っていました。
「わたしの夫は、一年前に亡くなりました、それは話しましたね、そのとき、いくらかの財産が残ったの。それをわたしはいま持っているの、これからのためにとっておくということもできるけれど、わたしはなぜかそうしたくないの。お金がなくて困っている人がいるのに、自分が蓄えているということができないの」
うまく話せない自分がわかりました、でも中学三年生のナナに、これ以上わかりやすく話してやることは、自分には無理だと思いました。しかたがないと思いました。
「それでね、ナナさん、もしかして、もしかしてね、この町で、本当に困っている人を、ナナさんならわかるかなと思ったんだけど」
「わかる」
「えっ、わかるの」
「わかる」
そのはっきりした返事に戸惑いながらも、おばあさんは、その訳が少しずつわかってくるようでした。
もしかしたら、この子は、これまでいろんな家を見てきたんじゃないんだろうか、その家の家族の様子を、お父さんやお母さんの姿を、見ていたんじゃないんだろうか。
お父さんやお母さんを必要とする本能が、この子をそんなふうに動かしたんだろう、そんなに思えました。
ナナは、おばあさんが黙ってしまって、自分が何か悪いことを言ったかなと思いました。
おばあさんは、その日は、もうその話はそれ以上するのをやめました。ナナがかわいそうでたまりませんでした、不憫でたまりませんでした。
「ごめんね、むずかしい話をしてしまったわね、さあ、縁側にいこう」
そう言って、立ち上がりました。
おばあさんが想像したとおりでした。ナナは、気がついたら他人の家の木陰にうずくまっていました。そして、家の様子をじっと見ていました。夜、部屋の明かりがついて、夕食を囲む家族の様子が見えました。お父さんとお母さん、子どもたち、おじいさんやおばあさんがいる家もありました。ことばはわかりませんが、話し声もかすかに聞こえてきます。ときおり、大きな笑い声も聞こえてきました。かがんでいる足がしびれるまで、そこで見ていました。
外に繋がれている飼い犬も、なぜかナナにはほえませんでした。そして、いくつのときからだったでしょうか、あまりのひもじさにその家の人が留守のときに、冷蔵庫から食べ物を盗んだのです。悪いこととはわかっていました、でも米も味噌もない日が続くことがありました。盗んできた食べ物を、半分おじいさんに渡しました。おじいさんは、小さくうなずいて受け取りました。
ナナは、しょうがない、あたいもしょうがないお母さんの子だ、と思いました。あたいを置いて出て行った、しょうがないお母さんの子だから、しょうがないんだと。警察につかまったら、牢屋に入ればいい、そうあきらめていました。
何も言わないおじいさん、そして親戚も友だちもいない、自分は一人で生きていくんだと、大きくなったら都会に行くんだと、それまではしかたがないんだと、そう自分に言い聞かせました。
でも、お日様とお月様は見ていました、ナナがほんの少ししかとらないことを、空腹をしのぐだけの分しかとらないことを、ちゃんと見ていました。そして、大丈夫だよ、いいんだよと、やさしく照らしていました。
木々も、花々も、風も、フクロウも虫たちも、みんなそう思って、ナナを助けました。それで、ナナは一度も見つからなかったのです。そして、ナナはおばあさんに会ってから、あの、おばあさんの家に逃げ込んだ日から、その盗みはやめました。おばあさんが食べ物を渡してくれるので、する必要がなくなったのです。
しばらくして、おばあさんはこの前の話を繰り返しました。何度も何度も考えて、決心したことでした。
「ナナさんが知っている、お金に困っている人に、少しだけれどお金を届けてほしいの、それも、誰が置いていったかわからないように」
ナナは、黙ってうなずきました。そのことがどんなことなのか十分にはわからないでしょう、でも、おばあさんの真剣なまなざしは、ナナをも同じ真剣な気持ちにさせました。
おばあさんは、お金を入れた袋の中に、一枚の手紙を入れました。
《 突然の置手紙で驚かしてすみません。そして、同封していますお金が、決して悪いことをしてつくったお金ではないことをお知りおきください。どうぞ、お使いくださいますようお頼み申します。それから、このことは他言なきよう重ねてお願いいたします。 ある隣人より 》
ナナは、その袋を、その家の仏壇に置きました。家の人がいないときはいつか、どの家でも知っていました。
それから半年が経ちました、おばあさんが袋を用意して、それをナナが見つからないように置いてきた家は、どのくらいだったでしょうか。数回行った家もありました。
おばあさんは、このことが知れわたったら、自分がしたことがわかったら、この町を出ようと覚悟をしていました。でも、その心配は日が経つにつれてなくなりました。
ある日、おばあさんはナナをしげしげと見ながら、うれしそうな顔をして、そしてあきれたような顔をして、話しました。
「あなたは、本当に困っている人がわかるのね、町中でうわさが立たないことが、何よりの証よ」
ナナは、いつもと違うおばあさんに戸惑っていました。
「わたしは、こんなにうれしいことはない、夫が一生懸命働いてつくったお金が、こんなに人助けに使われるなんて、この上ない喜びよ、ナナさん、本当にありがとう」
おばあさんは、両手を膝の上において、ゆっくりと頭を下げました。
ナナは、ずっと下を向いていました。こんなにていねいにお礼を言われるのは、初めての経験だったのです。うれしさが、喜びが、心の中から湧き出てくるのを感じていました。何のうれしさか、なぜかわかりませんでしたが、いいことをしたということはわかるのでした。
「バアさま、あたい帰る」 そう言うのが、やっとでした。
いつもの紙袋をもらって、「バアさま、ありがとう」とお礼を言って帰りました。
(あなたは、その人たちの苦しみを知っているんだよ、あなたは、その人たちといっしょに、その苦しみに耐えようとしているんだよ、あなたは、その人たちの苦しみを、分かち合っているんだよ)
おばあさんは、胸がいっぱいになりました。そのことに、自分が気づいたこともうれしいことでした。
(あなたは、良い人なんだ、あなたは、すばらしい人なんだよ、人間の一番たいせつなものをもっているんだよ)
季節は冬に入ろうとしていました、風が雨戸を強くたたく音がしました。
その夜、おばあさんは、思い出をたどりました。うれしいことがあったとき、かなしいことがあったとき思い出しました。何度も何度も思い出しては、心が満たされるのでした。
――一人息子が、重い病気にかかった。息子は34歳だった、まだ独身で仕事に夢中になっていたときだった。息子は入院して、闘病が始まった。病気による痛み、治療による痛みが続いた。
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夫は、息子の苦しさ、痛みを、肉体的にも精神的にも分かち合おうとした。それは、見ていてすさまじいものがあった。朝も昼も夜も働いた、からだを酷使して他のことは考えないようにした、ただ息子の痛みと苦しみだけを考えようとした。
ある日、夫が家に帰ってきて、わたしに話した。
「きょうタタが、父さん、おれ楽になったよ、父さんが、おれの苦しみを半分とってくれたよって」
夫は、本当にうれしそうだった。
「自分も苦しまなかったら、分かち合うことにならない、援助になってしまう。逆に自分も苦しんだら、分かち合っていることになるんだ」
夫は一呼吸おいて、話し続けた。
「それがわかった、それがわかって、おれはタタをじっと見れるようになったよ」
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ある日、病室でタタは父親に言った。
「父さん、おれも分かち合っているんだ、いまこの苦しみを経験して、その人の苦しみを、少しだけれど分かち合っていると思えるようになったんだ」
「お前がか、お前以上に苦しんでいる人って、いるんか、その人は誰か」
「うん、いまはっきり言えないけれど、少しずつ感じてるんだ」
「そうか」
父親は、それ以上聞かなかった。しかし、何にせよ息子が幸せを感じていることは、うれしいことだった。
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タタは、何度かわたしに話した、おれは、父さんや母さんにあまり迷惑をかけずに死にたい、そういつも思っていると。そして、意識がなくなったら、ほんの一日で息をひきとった。みごとな最後でした。
そこで、おばあさんは思い出をやめました。
おばあさんは、立ち上がり、仏壇の線香に火をつけました。二本の線香から二筋の煙がまっすぐ上に流れています。そして、重なって消えてゆきました。
ナナは、大きな木を見るのが好きでした。神社の境内にはイチョウの木が何本も立っています。冬の間は、細い枝だけのやせ細った姿だけれど、春になると、小さい小さい葉がいっせいに芽生えてきます。
――その一枚一枚が、もういっぱしのイチョウの葉の形をしている、それがなんともかわいらしい。そして、一枚一枚の葉が、少しずつ少しずつ大きくなってくる。そして、木全体が、少しずつ少しずつ緑の葉で膨らんでくる。そして、自分も大きくなっていくんだと、いつまでも同じじゃないんだと、そう感じることができました。
カラスやカモメやハトや、そして他の鳥たちも、チョウチョやトンボや、アリやミミズや、身近に見る小さな生き物たちも、みんな親といっしょにいるのは、ほんの少しの間だ。動物たちは、みんな一人で生きている。一人で餌をさがして、がんばって生きているんだ。ナナは、そう思いました、そう自分に話しました。
ある日、ナナは、おばあさんに聞きました。
「バアさまは、なんで、自分は質素な生活ばして、他人にお金をあげるの、自分で使えばよかとに」
おばあさんは話しました。
「病気の人を見ると、あの人は、わたしの代わりに病いを患ってくれている、貧しい人を見ると、あの人は、わたしの代わりに貧しい生活をしてくれている、そう思うのよ」
「それって、変じゃない」 ナナには、今まで思いもつかない考えでした。
「この歳になって、そう思えるようになったの」
「あたいは、そんなに思えない」
「あの人でなく、わたしでもよかったんだ、わたしでも何の不思議も、不都合もなかったんだって、そう思うの」
ナナは、もう何も言いませんでした。おばあさんも、まだナナにはむずかしいかなと思いました。
「ナナさん、買い物につきあってくれない」
「ナナさん、散歩につきあってね」
おばあさんは、よくそう言って、誘いました。
最初の頃は、ナナは首を振って断りました。何ヶ月過ぎてからでしょうか、二人は並んで外を歩くようになりました。お弁当をつくって、海や山や川に行くこともありました。どこも歩いて行けました。その自然の景色に、おばあさんは、いつもきれいねーと感動のため息をつきました。そう言われると、ナナも改めてじっと見てみました。今まできれいだと思ったこともなかった風景が、きれいに見えました。
ある日、二人は畑にいるハチじいさんと出くわしました。
「ジッちゃん、いつも話しとる、山本のバアさまだ」
ナナがそばに駆けよって言いました。
おじいさんも、住職から聞いて、おばあさんの夫が幼いときからの友だちだということは知っていました。しかし、そのことは口に出しませんでした。
ナナがいつもお世話になっているお礼も言いたい、おみやげのお礼も言いたい気持ちがありました。おばあさんも、ナナが魚や野菜をもってきてくれるお礼を言いたいと思いました。でも、二人とも、ひと言話をしたら、それ以外の話もしなければならないと思いました。ナナがいるところで、そして今はまだそれは話すときではないと思いました。
二人は、黙ってお辞儀をしました。
そこで、ナナと別れて、おばあさんは家に帰りました。今まで、ハチじいさんのことは、ナナや町の人からいろいろ聞かされました。でも、そんな話より、おばあさんには、夫から聞いていた八郎さんがずっと心の中にありました。小さい頃から、土地を離れるまでいつもいっしょに遊んだと。おれの田舎にいる、河合八郎は、ほんとにいい奴だと、おれの一番の友だちだと、いくども聞きました。
いま初めて会って、おばあさんは、八郎さんは、お互い別れがつらくないように、ナナが気をつかわないで、ここを出て行けるように、わざと邪険にしているんだと、すぐにわかりました。そして、なんとすごい心の持ちようだと思いました。かわいがってやりたいのをがまんすることが、どんなにつらかったんだろうと思いました。
山の向こうに、夕焼けが沈みかけていました。カラスが群れをなして、鳴きながら山に帰っていきます。
もしかしたら、いや、そこまで考えるのは思い過ごしかもしれない、でも・・。おばあさんは、首をふりました。でも、その考えは頭からなくなりませんでした。
(八郎さんは、ひとりぼっちのナナちゃんと同じように、自分もひとりになったんじゃないんだろうか)
そして、きっとそうに違いないと思いました。
(誰とも付き合わず、いつもひとりでいるおじいさんを見て、ナナちゃんは心が安らいだはずだ)
おばあさんは、立ち止まりました。そして、いま来た道を振り返りました、見えるはずがない八郎さんとナナちゃんを見ようとしました。
(分かち合ったんだ)
おばあさんは、胸がいっぱいになりました。そして、人の心のすばらしさを、じっとかみしめました。
ある日、おばあさんが買い物から帰ってきたら、玄関の上がり間口に、小さい包みが一つ置いてありました。開けてみたら、折り詰めに赤飯がつめられていました。他には何も置いていません。おばあさんは、頭を下げて心の中でお礼を言いました。そんなことが、何度もありました。
三月になりました。寒い冬が終り、暖かい春を告げるこの月が、おばあさんは一年で一番好きでした。でも、今年の冬も、そんなに寒いとは思いませんでした。凍えるような朝、あかぎれの手をこすって水仕事をした日は、一日もなかったのです。地球温暖化が心配になります、自然が大変なことになるような気がするのでした。でも、今はあと何日ナナがここにいるのかということで、心がいっぱいでした。この月が終わる頃には、ナナはこの町からいなくなるのです。
中学校の卒業式の日、おばあさんは正装して式に出席しました。前の日に、ナナに話しました。
「あした、わたしは、あなたの親類として卒業式に出席します。どうか、来てくださいね」
ナナは、黙ってうなずきました。
式が終わって、二人はおばあさんの家に帰りました。
「この手紙をもって、この人を訪ねていきなさい、わたしの大好きな友だちよ、きっとよくしてくれるからね、安心してお行きなさい」
おばあさんは、去年まで住んでいたところの、その人に電話をして、しばらくナナを住まわせてくれるように頼んでいました。喜んでお世話をさせてもらいますという返事でした。そのことは、ずっと前にナナに話していました。
ナナは、きちんとお膝をして、聞いていました。
「そして、このお金をもっていってください、いいえ、このお金は、あなたのものなんです。堂々と受け取っていいんです。あなたは、これまでよくがんばりました、これから、あなたの夢をいっぱい羽ばたかせてください」
ナナは、頭を下げて、両手でその包みを受け取りました。
ナナは、ほんの少しずつですが、貯めていたお金がありました。でも都会までの旅費として足りるかどうか不安でした。その不安がいまスーとなくなりました。それと同時に目頭が熱くなってくるのがわかりました。
(泣かないでおくれ)
おばあさんも、一生懸命涙が出るのをこらえていました。
(これは、うれしいことなんだ、喜びなんだ、泣くことなんかじゃない、当然のことなんだ、当たり前のことなんだ。この子は人ができないことをやってきたんだ、がまんしたんだ、がんばったんだ)
その夜は、二人で夕ご飯を食べました。きのう、そのことも話していました。それは、初めてのことでした。
「きょうは、お祝いだから」 そう言って、おばあさんは、ささやかなご馳走をナナのためにつくりました。
島を離れる日の朝、ナナが目を覚ましたときには、おじいさんは家にいませんでした。出発する時間になっても帰ってきませんでした。
バス停に行くと、おばあさんが立っていました。二人は長椅子に座ってバスを待ちました。
「おじいさんには、わたしがよく話しとくから、大丈夫よ、きっと、別れがつらかったのよ」
「いいの、あたしが出て行くの、別に気にしていなかったから」
「そんなことないわ、とてもさびしいと思うわ」
ナナは、「うん」と小さく答えて、その話をやめようとしました。
バスが来ました。
「行ってらっしゃい」
おばあさんが、元気な声で言いました。ナナは、黙って小さくうなずきました。もう二度とここに帰ってこないと思っているのです。行ってきますとは言えなかったのです。そのナナの気持ちも、おばあさんはわかっていました。
ナナは、バスに乗ると、一番うしろの席に行きました。おばあさんが見えなくなるまで手をふっていました。
バスに揺られながら、外を見ました。
――よく覚えてはいないけれど、小さいときに、こうしてお母さんとバスに乗ってここに来たんだ。
ナナは思い出しました、それはずっと思い出さないようにしてきたことでした。
――お母さんと二人、船から降りて、食堂で昼ごはんを食べた。そして、バスに乗った。わたしは少しわかっていた。お母さんは、わたしをおいてどこかに行ってしまうと、どうしようもないと。
ナナは、思い出すままに任せました。次々と昔の光景が浮かんできました。
――わたしは、あの波止場には行かなかった。あの場所には、悲しすぎて行けなかった。修学旅行にも行かなかった。お金がなくていけなかったが、あの波止場から船に乗ることもできないと思った。
あの時、わたしは小学三年生だった、あれから七年過ぎたんだ、わたしの名前と同じだ。いま初めてそう気づいた、そう思うと、ふっと顔が笑った。そして、涙があふれて頬を伝わった、どうしようもなくとめることができなかった。
バスが波止場に着きました。ナナは降りるときに、「ありがとうございました」とすなおに運転手さんに言えました。そして、自分で、今までと違う、そんな自分に驚きました。
(わたしは、変わったんだろうか、・・わたしは変われるんだろうか)
ターミナルで乗船券を買って、桟橋に行くと、船の乗り口の前に、おじいさんが立っていました。ナナをまっすぐ見ていました。ナナもすぐに気づいて、歩み寄りました。
「ジッちゃん、見送りに来てくれたん」
おじいさんは、黙ってうなづきました。
「ありがとう」 ナナのそのことばは、小さい声になっていきました。
ナナは、下を向いていました。
「ナナ、・・」 おじいさんが呼びかけました。
「うん」 ナナは、顔をあげておじいさんを見ました。
「七転び、・・」 そして、おじいさんは右手で自分の胸を叩いて、「・・八起きたい」と言って、ニヤッと笑いました。
ナナの顔が笑顔になっていきました。
「うん、・・わかった」 と言って、くびすを返してまっすぐ船に乗り込みました。
ナナは、甲板にかけのぼりました。おじいさんは、まだ桟橋にいました。
「ボーーー」 と汽笛が鳴りました。
二人は、お互いが見えなくなるまで、手を振っていました。空はどこまでも青くすみわたり、カモメがゆったりと飛んでいました。