第77話 三色旗のリベンジ(5)
石橋を滑り降り、路地の壁を伝い、ひたすらに駆けた。
向かうは街角の最奥。
「ったく、足まで速いとか、やっぱり只者じゃねえな、あのおっさん」
誘い込むはずが追われていると錯覚するほどの猛追に、アリスタは冷や汗を掻いた。オスカーを随伴させなくて正解だ。奴の性格ならば真っ先に鈍足そうなオスカーに狙いを定めるに違いない。だが、標的をアリスタに絞ったのは挑発した甲斐があったというものだ。
―――もうちょい。
「————っ」
二階建ての家屋に円状に囲まれた広場。そこにはかつて生活のために使われていた井戸の代わりの噴水があるが、今は枯れ果て、ただの石造りの置物となっている。
「おいおい、追いかけっこはおしまいか?」
息切れ一つしてない。こんな追いかけっこで勝つつもりはないが、奴はわざと誘いに乗った。それに対処する余裕すらあるということだ。
「あんた、本当に勿体ないな。傭兵くずれにしておくには勿体ないぜ」
再びシャムシールを抜いたアリスタに、ジョラスは首を傾げる。
「まるで俺と会ったことがあるような言い草だな。まあ、どうでもいいことだがな!」
ジョラスは抜き身の剣を高く振り上げて突き刺すように、アリスタ目がけて跳躍した。
間一髪、後方に下がったアリスタにそれは当たらなかったがジョラスは、二手、三手と剣を振るい、アリスタは受け身を取らざるを得なかった。
「———くそっ」
「どうした、どうした? 腰が引けてるぜ!」
剣を刃先でいなしてもその衝撃が指先から全身に響く。身を反転させて躱すのがやっとだ。
―――認めたくはないが、この男の剣の腕は本物だ。
シャムシールでは素早く動けても重い剣を受け止めきれない。いや、この剣は重すぎる!
避けるか受け止めなければ、頭がかち割れていた。
一瞬、滑り込んだ足元に気を取られ、剣で勢いを殺したが、ジョラスの手がアリスタの頭を掴み、そのまま噴水に投げつけた。
「おらよ!」
「———っ」
止まっていたはずの噴水の栓が外れ、辺り一面に飛び散った。アリスタの染色した髪が元の色を取り戻していく。胡桃色の髪に若葉色の双眸、
ジョラスは途端、不気味な歓喜の顔に満ちていく。
「っは、思い出したぜ! お前、あの時逃げた女王の手下どもか! ああ、そうかそうか。俺に復讐しに来たのか? 何とも健気じゃねえか。泣かせるなあ、おい。俺がそんなに気になったのかよお」
「………」
アリスタの額が割れて血が流れても、ジョラスは容赦なくアリスタの左腕に剣を突き刺した。
「————っ」
「悲鳴を上げないなんて感心だな。俺はてめえみたいなクソガキよりももっと小さいクソガキをいたぶる方が好きなんだ。特に悲鳴がいいからな!」
下卑た笑い声が、広場に響き渡っていく。
―――このくそ野郎!
千草の国にはならず者はごまんといるが、その中で腕が立つ者などごくわずか。
そいつらにもこいつは負けないだろう。そしてこここまでのクズはいなかった。
―――分かっていたさ。剣術で負けることぐらい。
この王都で剣を握るのは、物心ついた時から剣術の鍛錬をしてきた奴ばかりだ。
魔術の教養すらないために、剣の才を補う術すらない。幼い少女にすら俺は勝てなかったのだから。
俺はどれも怠けてばかりだった。
ヴェロスに怪我を負わせたのはオスカーのせいだと俺は責任を押し付けた。俺が強ければあんな事態にはならなかった。ただの八つ当たり。しかも自分の雪辱のためにまたオスカーを巻き込んで。
黒の国に「井の中の蛙大海を知らず」という言葉があるが、今の俺はまさしくそれだ。海賊船に乗っていた頃は何でもできるし何でもやれると思っていたのに。海で育った俺が大海を知らないなんて、本当に笑えない。
下卑た男の笑い声が遠く消え、今は懐かしい渚の音が蘇った。