第70話 黒の刺客(1)
朝から夕方までかけても紫の国の書状を読み解くことはできなかった。
文字が浮かび上がったのだが、脈絡のない文章ばかりが綴られていた。ラノメノ教の教典を引用したものなのだが、先方の意図が分からない。ラノメノ教の教養がないシリウスにとって非常に厳しいものになった。王国統一のために小国他六か国が同調している今、足並みが唯一揃っていない紫の国は陸の孤島と化していた。
カルマの立場を守る意味でも先方から良い返事が欲しいところだ。
―――何て思うのは、流石に贔屓がすぎるか………。
王にのみ許された城で最も大きい浴場に、シリウスは一人で湯に浸かっていた。
こういう時のために女王の世話をする意味でも女中は幾人か用意しておくべきだと、オスカーは再三言っているのだが、シリウスの本意ではなかった。
欲しい時に欲しい人材が来るわけでもないのに、不要な時に雇って何になろう。
それに自分の身は自分で守れる。
クマや狼が住む森の川で水浴びをしていた頃に比べれば、怖いことなど何もない。
「カルマも一緒に入ったらどうだ?」
扉の外で待機している小さな護衛にシリウスは声をかけた。
「ダメです!」
「私と同じ湯に入れるなんて今のうちだけだぞ」
「僕は騎士になりたいのです。だから約束は今からでも守る練習をするんです!」
最近カルマの言葉遣いは丁寧になった。目上の者には敬語を使い、男女の違いも理解してきたのだ。
「それは自分で考えたことなのか?」
「いえ、テオの真似です………」
「そうか。ならいつか自分で考えた誓いを立てるがいい」
「自分で、ですか?」
「そうだ。私は誓いや望みを強要はしたくないからな。じっくり考えておくといい」
カルマは暫く黙り、そしてシリウスに問いかけた。
「陛下は望まれて玉座につくのですか?」
「…………」
「す、すみません! 出過ぎたことを申しました!」
沈黙を怒りと捉えたカルマは慌てて訂正した。しかしシリウスはその質問に対する答えを用意していなかった故に、考えてしまったのだった。
「いや、いい。そうだな、私は周りから望まれて玉座を目指した。このフェーリーンに残された唯一のベルンシュタンイン王家の血族と知ってから。私の血は、王都の外に居ては混乱をばら撒くことになると―――」
混乱をばら撒く?
その時のカルマはシリウスの言葉の意味を深く理解はしていなかった。
「そういえば、昨日ヴェロスが―――」
カルマが続けようとした会話はシリウスが水の中に潜って途切れた。
何も考えたくない時に音がなくなる空間が水中。湯ではすぐにのぼせてしまうが、窮屈な城での生活で唯一の開放的になれる瞬間だ。
伸ばした足の指先が水ではない何かに触れた。それは滑らかで、黒い。
「———っ」
黒い蛇。
それも人を丸呑みできる程に巨大な蛇だ。
湯船から飛び出たシリウスに、蛇は鋭い牙を向けた。
「陛下! どうしました?」
「入ってくるな、カルマ!」
しかしシリウスの手元にはレイピアはない。
―――いつもはあるのに!
今日に限って持ち込むのを横着してしまった。
蛇の眼光は確実にシリウスを狙っている。
―――何故、浴室に蛇が? 侵入経路はどこにもない。入る前には確かにいなかった。
原因を考えても仕方ない。シリウスは蛇の後ろにある浴室の外へ行くためのタイミングを計ることに思考を巡らせた。
見たこともない巨大な蛇のため、その牙に毒があるかどうかも分からないが、噛まれたら即死も免れないだろう。
蛇は逃すまいとじりじりとシリウスとの距離を詰め、シリウスに突進してきた。
間一髪、避けることが出来たが扉から最も遠い壁に追い込まれた。
「陛下!」
衝撃音で異変に気が付いたカルマは咄嗟にレイピアをシリウスへ向かって投げるが、蛇は太い尾で宙に飛ぶレイピアを弾いた。
―――こいつ!
武器の意味を理解しているのか。
「———この!」
素早く蛇の腹の下に潜り込んだカルマはレイピアを拾い上げ、跳躍して尾に突き立てた。
シリウスは扉の外へと走り、壁に立てかけてある飾りのための戦斧を取った。体を捻って蛇の頭を叩き落とした。
しばらくびくびくと体を痙攣させていたが、流石に絶命した。
「陛下、お怪我は?」
「ああ、大丈夫だ」
二人はため息をついた瞬間、蛇の目玉がぎょろりと動いた。
「———っ、陛下!」
千切れたはずの首が宙へ浮き、シリウスの喉元へと飛びついたその刹那、
「———よく耐えたな」