第53話 神庭の鹿
先行した二人が戻らないため、残された七人は二人を追って馬を走らせた。
テオが鳴らした指笛に、森の奥から指笛が応えた。
「長く二回………。二人はどうやら足止めされているようです。いかがいたしますか、陛下」
「行くしかあるまい」
白い靄のようなものが立ち込め、先頭を走っていたテオは馬を止めるように指示した。
「これは―――」
霧や煙ではない。触れれば質量があるように感じる。
「雷の蝶だ」
「シフ?」
シリウスは風に揺れる白い花弁のように羽を動かす神秘的な蝶を見ても驚きもしない。彼女に肩に止まっても追い払うことはしなかった。
小さな沼の畔で立ち往生をしていた二つの影に、テオは安堵の声を漏らした。
「二人とも無事だったか」
「無事に見えるか、これが」
ヴェロスとリャンの頭や肩や腕に無数の白い蝶が纏わりつき、疲労していた。追い払っても纏わりつくから断念したようだ。
「お前ら、どうした! ふわふわのレースか! お人形か!」
アリスタはいい様だと森に響き渡る程に声を上げて爆笑した。
「大声を出すな、アリスタ卿」
森の奥から風が吹き、二人に纏わりついていた蝶たちは一斉に飛び立った。雷の蝶は沼の上を旋回した。異様な光景に一同は凝視した。
雷の蝶は羽を擦り合わせる度にパチパチと青白い光を作った。その名の通り、雷を呼び起こし、発光したと思えば沼にドン、と音を立てて落雷した。
雪のように白い毛並み、葉のない樹のように枝分かれした大きく滑らかな角。大鹿が姿を現した。
「あれは、何?」
「神の庭の使いと言われている聖獣です。人前に姿を現すなど聞いたことがありません」
―――神庭の鹿。
そう呟いたフィオーレはいつものような冷静さがなかった。
雷の蝶たちは大鹿の角に止まり、それはまるで花が咲いているようにも見えた。
目は深海のように青色をして、じっとこちらを観察している。敵意はないようだが、ただの獣とは違う異質な空気に、皆畏れを抱いた。
大鹿は数歩進み立ち止まった。落雷で驚いていた馬たちがようやく落ち着いたのに、その大鹿が距離を詰めたことでまた暴れ出した。
すると大鹿はその大きな頭を恭しく下げた。
『あなたは女神の正当なる血族。お会い出来て光栄です、新たな王国の女王よ』
穏やかで柔らかく大人びたその声音、そして人の言葉を話した。
「私に、用があるのか? トニトルス卿が言っていたのはあなたなのか?」
シリウスは事前にトニトルス卿からこの森を通るように伝えられていた。何かが森で待っていると予想したシリウスすらも動揺を隠せなかった。
『彼は我々に害を与えないことを約束したのです。森を守る代わりに我々の存在を秘匿にすると。ですが、女神の血を引く御方が再び現れたと我々の眷属が囁いたもので』
「卿がよこした書簡に記された牡鹿とはあなたのことか?」
歴代のトニトルス卿は精霊、聖獣に傾倒する変わり者の辺境伯として知られていた。その卿から書簡が女王へ送られたのだが、内容があまりにも端的であった。
―――聖なる鹿があなたをお待ちしています。
その書簡はシリウスが読み終えた途端に蝶へと姿を変えて空へと飛び去ったのである。
シリウスはその蝶と書簡からトニトルス卿が神庭の鹿に会わせたがっていることを察したのである。王都外で隠れる場所を探していたシリウスは、この書簡をきっかけにトニトルス領への遠乗りを画策したということだ。
『ええ。彼に頼み、私の蝶を使い、文をしたためて頂きました』
「私と会って何を聞きたいんだ」
『あなたのご先祖、クレイモア王に狩りで負った傷を癒して頂きました。その御礼に、
彼は、いつか自分の子孫がこの森に現れれば、願いを一つ叶えてやるようにと』
「高原王クレイモアが?」
『彼はいつか王家から女王が現れると仰っていました』
シリウスは思案の間もなく、答えた。
「私たちをこの森の外へ。そしてこの遠乗りの道中の一切の安全を保障してもらいたい」
大鹿は青い目を細めた。
『確かに、私と出会わなければこの森を抜けることは叶いません。トニトルス領であるところ、我々の庇護は与えることは容易です。ですが、よろしいのですか? 陛下は他に何かお悩みのご様子。そちらのお力添えも可能ですが………』
「それは我々の問題だ。あなたの力を借りて解決することではない」
今まで黙っていた七星卿たちは、大鹿ではなくシリウスの方へと目を向けた。
「陛下、何か沼の上にいるのですか?」
「リゲル卿、見えるか?」
リャンの問いにリゲルは首を振った。彼は思わず弓矢をつがえたが、ゆっくりと下ろした。アリスタとヴェロス、カルマも事態が呑み込めずに顔を見合わせた。
大鹿の姿が見えて、彼の声が聞こえるのはシリウス、フィオーレ、そしてオスカーの三人だけだったのだ。
『よろしいでしょう。ですが、これでは私の気が済みません。いつかお会いできる機会があれば御恩をお返しいたしましょう』
「あなたはクレイモア王と行きずりの関係だけだったのですか?」
「———」
シリウスの問いに大鹿は答えず、姿を雷の蝶へと姿を変えて、森の外へ一行を導いた。
その先にはトニトルス領の狩場へと続いている。