第51話 遠乗り(1)
夏の終わりを告げる夕秋風がフェーリーンに流れ込み、ほうき草が紅色に染まる季節が訪れた。冬支度のために葡萄の収穫に娘たちは精を出し、男たちは狩りをする。
鎮魂祭。
夏の終わり、そして秋の始まりを象徴する祭事の一つ。祖先の魂の安寧を祈り、外出を控え家族との時間を過ごす五日間である。
王家創設時代に遡り、カノープス王の御代に仕えた臣下の一人、スペリオル卿の逸話が起源である。吟遊詩人であったスペリオル卿は仲間の魂の還る場所を求めてフェーリーン中を旅して、夏の終わりに彼が角笛を鳴らして地上に降り立つと言われている。
天上より帰路を導くため、各家の扉にはその家の象徴であるランタンを飾る慣わしがある。ステンドグラスを組み合わせ、その家の光の色を出す。故に、鎮魂祭の時期が訪れれば王都の夜は鮮やかな光に包まれ、城から見下ろせば地上が星の海のように見える。それはビーネンコルブ城の中でも最上階に部屋を持つ王族の特権であった。
祈ることは王家も例外ではなく、シリウスもその慣わしに従った。
扉の前にランタンを灯すことはなかったが、神殿で身を清めることになった。これはグラシアール教にある王家が代々行うべき禊である。
ビーネンコルブ城、西の居館にある礼拝堂で祈りを捧げた後、日が沈み、神殿で清められた麻布を纏い、沐浴場でまた祈りを捧げる。泉から引いた沐浴場はシリウスの体躯が沈むくらい深く冷たい。足のつま先から肩にかけて浸かり、ステンドグラスの光でしか温められない。
―――もう十分か。
シリウスは膝を曲げて頭の中冷たい水の中に沈んだ。冷たい水に浸かったのはいつぶりだろうか。いつも当たり前のように用意されている風呂は適度に熱く、水差しも常温だった。王都に来る前は冷水で体を洗うのは当たり前だった故に、帰ってきた感覚になる。
水浴びをした後は決まって木の実のスープと焼いた魚で腹を満たしていた。
水面に上がっていく水泡を口から出しながらシリウスはぼんやり思いを巡らせた。息が切れてシリウスは水面から顔を出して、驚きの声を上げた。
「いかがでしたか、陛下」
可愛らしく首を傾げたフィオーレが手を差し伸べ、シリウスに布と着替えの服を手渡した。
「………」
リャンとはまた違った意味で彼の気配は悟りづらい。思い耽っていたとはいえ、察することができないとは………。
「会ったことのない父や祖先に祈りを捧げて、何の意味があるのか」
「会ったことがなくとも、陛下のお血筋でございます」
「………」
「陛下にグラシアール神のご加護がありますよう」
体を拭き、白い麻布のシャツ、ローズピンクに染められた腰布、膝上までのロングブーツ、長い灰色のローブに着替え、礼拝堂の扉を開けた。日は落ち、冷たい夜風が吹き込んだ。
「皆の準備も整ってございます。今は厩舎にてお待ちです。ご安心ください。陛下のお荷物はオスカー殿がご用意おります」
「分かった。今夜のうちに出るぞ」
鎮魂祭の間、城内も静寂に包まれる。城門を閉ざし、あらゆる者が祈りのために目を瞑る。
女王、七星卿そしてオスカーは鎮魂祭の闇夜に紛れ、ビーネンコルブ城、そして王都を抜け出した。普段着とは異なり、彼らは平民の恰好をしたものの、仕草や携帯する武器故か、素性を隠しきれていなかった。
あらかじめ城の外の厩舎に八頭の馬を連れ逃がしていた。
「すっげえ! 王都にはこんないい馬がこんなにあんのかよ!」
「声を落とせ」
ヴェロスに頭を叩かれたアリスタに、テオドロスは苦笑いをした。
「アリスタ卿は馬に乗るのは初めてか?」
「まあな!」
「落馬して骨を折る前に言い残すことはあるか?」
リャンの冗談も意に介さない程アリスタは心躍っていた。
「やってみないと分からんだろ? それより、フィオーレとカルマはどうすんだよ。あいつらの方が心配だぜ」
フィオーレは轡も必要とせずに軽々と鞍に跨った。
「ご心配なく、乗馬は巡礼で慣れております」
「カルマは私が乗せよう」
シリウスは自分の馬に乗るようにカルマを促した。馬が八頭だけではいずれにせよ一頭に二人乗らなくてはならない。乗馬の経験がないカルマは誰かと同乗すべきだろうが、馬を疲れさせないためにも軽い者がいいとシリウスは考えたのだろう。
厩舎で一夜を過ごし、夜明けと共に一行は目的地へと出発した。十里続く広大な林の先を行くため、朝靄がローブの裾を濡らし、八頭の馬は風を切った。
樺と楓の林にたっぷりとした苔が敷き詰められている。
王都よりも一足早く秋の訪れを迎える林の中はすでに紅葉が始まり、楓の葉を散らした。
「よっしゃぁ! 一番乗り!」
「飛ばし過ぎだ、アリスタ!」
「大丈夫だって! 俺を追い越せば聞いてやってもいいぜ!」
咎めるテオの意にも介さず、アリスタは馬の速度を緩めない。
初めて乗馬するとは思えない上達ぶりで、一番の乗り手であったテオも驚かされていた。若い馬を選ばせたのが間違いだったのだろう。
「その勝負、私が受けよう」
気の強い牝馬に乗ったシリウスはすぐに追いついた。
「へ、陛下、お辞めください! 万が一落馬でもされたら」
「心配は無用だ、テオドロス卿。売られた喧嘩を買わねば女王ではない。行くぞ、カルマ!」
「うえっ? は、はい!」
馬に鞭を打ち、アリスタとシリウスは先頭を走った。
「———俺が同行する」
暴走したアリスタを諫めることができるのはヴェロスくらいだ。テオは縦列で移動するため、後方と距離を空けるわけには行かず、また、荷を多く積んでいるため速度が出せない。それに気が付いたヴェロスは進んで二人を止める役に買って出た。
「すまないな、ヴェロス卿」
「構わない」
「ふふ、あのようにはしゃがれる陛下ははじめて見ました」
速度を落としたテオに並んだフィオーレはくすくすと笑った。
「笑いごとじゃない、まったく」
「後方は俺が見よう。先に行くがいい、テオドロス卿」
続いたリャンはテオの荷を自分の馬に移し、身軽にさせた。
「ああ、そうさせてもらう」
テオドロスは馬に一鞭打って、速度を上げた。
先頭にはアリスタ、シリウスとカルマ。ヴェロス、テオドロスに続き、フィオーレ、リャン。そしてリゲルとオスカーは後方だった。オスカーが乗馬にもたついたからで、それに気が付いたリゲルが速度を落としたのだ。
「背筋を伸ばせ、それから馬に自分が主だとはっきり伝えろ。馬も不安になる」
「———う、うん」
オスカーは前方を見たが、さっきまで近くにいたフィオーレとリャンの馬が遠くに見える。
「ごめん、リゲル。みんなと距離が空いてしまって」
「お前の馬は俺の馬と同種だ。気になっているのか、さっきから減速する。兄弟かもしれないな」
「リゲル、そんなことも分かるの?」
確かにリゲルとオスカーの馬は同じ葦毛だ。
「冗談だ」
リゲルはオスカーの馬の轡を自身の馬につなぎ、並走した。
目指す場所はトニトルス城領主が管理する狩猟小屋。
王都から北西に位置するトニトルス城は別名、雷の城と呼ばれる。トニトルス領は雷の幾度となく打たれても焼け焦げないことからその名がついた。
王都から二日かけて移動し、人目をさけるために一日は野営しなくてはならない。
シリウスは七星卿とオスカーにそれぞれ異なる行き先を告げていた。
―――てっきり八回行先が変更したのかと思った。
女王と七星卿を一網打尽にできる好機だ。もしこの中に主犯がいればなおのこと、この好機を逃すことはしないだろうと踏んでの囮作戦である。
「それならそうと早く言ってくれよな。俺は南方のアイギアロスって聞いたから薄着だぞ!」
「女王の意図を察せぬ貴殿の落ち度だ」
アリスタ以外は防寒の用意をしっかりとしているが、それは本当にただの偶然だ。
「雪国育ちの奴らは薄着でなれているのかもしれねえけどな、こっちは南国育ちだぜ! これじゃ海神ルカのご加護も受けられねえよ! 暗殺云々の前に海賊の凍死体ができるぞ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるアリスタはヴェロスを睨んだ。
首元までしっかりと防寒したヴェロスはストールと毛皮を準備していた。どうやらヴェロスに伝えた行き先がトニトルス領だったらしい。
「あ、てめぇ、裏切ったな! その毛皮俺も寄越せよ」
「やらん」
トニトルス領に入るには大平原を越える必要がある。林を抜けた先に広がるその大平原を見て、皆息を呑んだ。
「———っ」
高く広がる空の下にどこまでも広がる緑の平原。風が波を作り、熱を吹き飛ばした。
誰もが抱く原風景。
アリスタは歓喜に声を上げ駆け出したが、誰も咎めることはなく、誰からともなく馬を走らせた。
かつて女神グラシアールが天上からこの地に降り立った時、その息は風を呼び、その血は河と海となり、骨は大地に、髪は草木に、魂は我が子らに分けたという。そして女神は姿を消したが、フェーリーンに生きる全てのものに彼女は宿っているのだ。
「生きるこの地が美しく映るのは、人々がこの世界を愛せるようにしたから。この世界を愛するということは女神を愛することなのです」
誰から聞いた言葉だったろう。
オスカーは手綱を握り、天を仰いだ。
これが世界のほんの一部だなんて。
オスカーの前を走る女王と七星卿を見て、ふと思った。
彼らは城だけに留まる人ではない。
いつか王国を、フェーリーンを駆けその名を馳せる人たちだ。