第50話 究明する魔術師(7)
来る夏至祭を前にして王政はまた意見が割れていた。
祭事に関して小評議会が、王不在のまま祭りを迎えることは許されないと口を挟み、これ以上前例を無視し続ける王の愚行を見過ごせない、とまで主張してきたのである。
新しい王は幼すぎる上、前例にはない女の王。それ故に政には補佐が必要であると、摂政を立案してきた。今更になり摂政を提案してくる理由は明白。テオドロス、リャンを除いた七星卿は幼いからと高を括っていたからだ。彼らは小国としての地位だけではなく、発言力が強くなったことを危惧しているに違いない。
そもそも夏至祭が何たるか、シリウス自身は知りもしない。
神や自然が人々と最も強く結ばれる、一日の夜が最も短い日であるという形式上のことしか知らない。王など不在でも人々はそれを祝うし、楽しむのだろう。
シリウスは一日、公務で頭をいっぱいにしたが、日が落ちて夜になり、部屋に一人になればひどい脱力感に襲われた。
袖のない羽織って紐で結ぶだけのワンピースであるが、足元まで隠れる上に綿でできたそれは涼しくて寝るには過ごしやすい。オレンジから紫に染まったそれは夕暮れ時の空のようでシリウスは気に入っていた。人前で着ることはなかったが、柔らかい生地のため、毎日のように着てはそのまま寝ていた。
寝具の上に寝そべり、用意された夕食を手につけなかった・
ぼんやりと蝋燭の火を眺めながら、焚火を思い出した。ほんの少し前まで過ごしていたツィン神殿の脇の小屋の外で、空を見上げながら、夜の獣を待っていた日々を。
―――また一人か。
部屋にはいつも一人だったが、呼び鈴を鳴らせば部屋を訪れ、そうではなくても翌朝には、互いに話す。
―――あいつを助けたいとか言っておきながら、結局は私が一人になるのが嫌なだけだったんだ。
途端、部屋の扉が開き、シリウスは飛び起きた。頭上の剣立てにあるレイピアを弾いて柄を握った。
扉の向こうから堂々と現れたのは、銀糸の髪、冷たい氷薄色を持つ少女と見紛う姿。いつもの白と青を基調とした服装ではなく、白いシャツにアッシュグレーのベスト、黒い皮でできた手甲、矢筒を肩にかけている。そして体躯に見合わぬ長く黒い弓を携えていた。
「部屋の中に入る許可はしていないぞ、リゲル卿」
警戒を解かないシリウスにリゲルは首を傾げた。
「扉には不可侵の魔術がかかっていなかった。不用心なのはあんただ」
リゲルは水差しの水をグラスに注ぎ入れ、一口飲んだ。
「毒は入っていないな」
「何の用だ」
「今夜は俺があんたの見張りだ」
「………」
確かに誰が護衛をするかは指定しなかったが………。気分が悪い時に、機嫌を損ねる奴が来るなんて、最悪ではないか。
シリウスは苛立ちのあまり髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「貴様の腕を疑うわけではないが、弓矢は部屋で使うには不向きではないか?」
「これは海飛竜の骨で作られた弓だ。外すことはない」
海飛竜とは、太古より生きる竜の一種である。かつては空を飛んでいたが今は北の深い海の底で生きているとされている。透明の鱗を持ち、その姿を見た者は少ない。しかし確かに存在するのは、空から落ちたり、海岸に打ち揚げられたりする竜の死骸があることが言い伝えられているからだった。その死骸は災厄の象徴であるが、黒く滑らかな骨は、風と氷の加護を持つとされている希少なもの。
フローライト家の財力を持ってすれば入手は容易だろう。
「どうしてお前が私の最初の護衛に決まったんだ?」
不満を吐露するシリウスにリゲルは淡々と答えた。
「俺が進言した。飛龍の騎士は一番手に名乗り上げたが」
リゲルは部屋を勝手に物色し始めた。
水差し、蝋、棚。
しまいにはシリウスが脱ぎ捨てた服、寝台にまで手を出した。
「おい!」
「食事中の暗殺が失敗した以上、第二、第三の手口で命を狙うのは当然だ。夕食に手を付けないのは賢明だが、食わねば飢え死にする」
夕食には毒が入っていないとリゲルは冷めた食事を食べるように進言した。
「服を嗅ぐ意味はあるのか?」
「服に付着させる毒もある。用心することだ。眠る時が一番無防備になるから、部屋に仕掛けてあることの方が多いだろう。あんたが女中を傍に置きたがらないことが幸いしたな」
リゲルは続いて燭台の蝋のニオイを嗅いだ。火の熱で深い眠りに落とす薬が塗られている可能性があるという。
「………。お前、どうしてそんなことを知っている?」
水差しの水を飲み、それにも含まれていないことを確認したリゲルは淡々と答えた。
「青の国で生きる者ならこれくらいの知識は当たり前だ。黒の国程ではないだろうが。どうやら毒殺は杞憂だったようだが」
最後に、とシリウスが座っていた寝台に上がった。
「それ以上近づけば刺し殺す」
「いい警戒心だ」
シリウスが抜いたレイピアをリゲルは難なく弓で受け止めた。黒くしなやかな海飛竜の骨は全く傷がついていない。
リゲルは鼻で笑い、シリウスを無視して枕を短剣で引き裂いた。綿が飛び散り、中からは何も出てこない。
「毒虫の卵が埋め込まれていることもある」
暖炉に千切れた綿と布と化した枕を放り込み、蝋燭の火を落として燃やした。
それに毒虫の卵が入っていたかは分からないが、もしそうだったとすれば、孵化して夜のうちに毒針に刺されたとなれば、朝を迎えられないこともあっただろう。背筋が凍り、自分が危うい立場にいることを再認識した。
―――これが、一生続くのか? こんなものに怯えながら一生をここで………。
思わず手で口を覆ったシリウスに、リゲルは少し目を見開いた。
「今更、怯えてどうする」
リゲルは皮肉の言葉をこぼしたが、リャンのように上手くはない。
「怯えていない」
「怯えてる」
「怯えてない」
「………」
この不毛な問答に先に折れたのはリゲルだった。
そして木箱に入っていた書斎から持ち出した羊皮紙を手に取った。
「何だ、これは」
「同盟を継続させるための書簡だ」
「小国脅すつもりか?」
「脅されていると判断するのは小国次第」
「あんたが一人で考えたのか?」
「それがどうかしたか? どうせ明日には七星卿の耳にも届くことだ」
「………」
羊皮紙にはこう綴られていた。
『 グラン・シャル王国の名の元、七つの小国の同盟を締結とする。
また以下の条項を侵した場合は同盟破棄とみなす。
一、小国同士の争いを固く禁じる。
二、王国従属の意志として、小国の後継者を臣下として召し上げるものとし。以降、七星卿の称号を与えるものとする。
三、王国外の他国への交易は、王国の許可なく行ってはならない。
上記、条項における同盟の儀に参加されたし。
グラン・シャル王国
ベルンシュタイン家 第十二代当主 シリウス・クロード・ベルンシュタンイン』
リゲルは首を傾げた。
「この書簡では不十分だ。要求として甘すぎる。献上品、兵士、領土、どれかを抑えておかねば、王国の威厳は保たれない。それから調印の儀は即刻行うべきだ。七星卿を代理人として立ててしまえばいい。それから俺たちへ武器を与えることを許可しろ」
そうだ。小国同士で血を見ることにならないように禁じたにも関わらず、この男は当たり前のように弓を手に持っている。
「許可以前に、貴様はすでに持っているようだが?」
シリウスはレイピアの鞘でリゲルの黒弓をつついた。
「遅かれ早かれ必要だ」
リゲルはシリウスの金色の目を、シリウスはリゲルの氷のような目を睨んだ。
―――確かに、悔しいが顔立ちは整っているな。
自分よりも黒や紫を基調とした服装が似合いそうだし、首を傾げると銀糸の髪がさらりと揺れる。
私がこいつとそりが合わないのはこの容姿のせいではないか?
女として美貌で争うなどという概念をシリウスはまだ持ち合わせてはいなかったが、その片鱗は確かにあった。
「俺はまだあんたを女王と認めてはいない」
そして彼の言葉はシリウスの矜持を鋭く刺し、強がるしかなかった。
「そうか。別に貴様に認めてもらいたいとは思わん」
ふい、とシリウスはそっぽを向いた。
「だが、この国においてお前以外に玉座に座るのに相応しい者はいない」
「————は?」
シリウスはリゲルの賛辞にも近い言葉に思わず変な声を上げた。
しかし、リゲルはいつもの調子でつらつらと補足した。
「良くも悪くも、ベルンシュタイン王家の名と力は未だこのフェーリーンに、グラン・シャル王国に強く根付いている。小国が王家を無視できないのはお前の血と名前だけだ。それがなければ、世間知らずの小娘にすぎない」
「————」
「どうした? 守ってくれる騎士がいなくては反論もできないか?」
ほんの少しでも自分を認めてくれているのだと思い違いをして、期待した自分が馬鹿だった。
「貴様らにとって私は何だ? 王家の血を引くだけの女か?」
「無論だ」
「————っ」
激情に駆られたシリウスの手はリゲルの襟をつかみ上げ、レイピアの切っ先を向けた。
しかしリゲルは動揺の表情一つ見せず、指先でレイピアの刃を弾いた。僅かに細くなった彼の視線に、シリウスは妙な違和感を覚えた。冷たい目だが、いつもの理性的な冷たさではなく、感情的な不快感が現れているように見えた。
「今はまだ、あんたに王たる資格はない。あんたはこの王都で育ったわけでもない上に、後ろ盾もない。大人や国の都合で選ばれただけだ。死の誓約も真実かどうかわかったものではない。神話やら偶像やら、過去の遺物に振り回されているだけに過ぎないんだろう。
あんたが孤独であることも、自由が望めないことも仕方がないことだ。だがそれら全てを棚に上げた上で言わせてもらう。
あんたがこの現状で何かを求め、欲するのなら、女王になるしかない」
そこには一本の道しかない。誰もいない暗いその道の行き止まりには誰かを待つ椅子が一つ。その椅子に座れば今まで辿ってきた道に引き返すこともできない。ただ天上か下ろされるくすんだ光を見上げることになる。
ベルンシュタイン王家の血を引く以上、このフェーリーンにいれば生涯監視され、玉座から逃れることはできない。王家の血筋がシリウス以外に見つからない今、血を絶やさぬために何を望まれるのか、想像に難くない。
自由を求めて、王都から逃げて大人になって誰かと結ばれても、名もない片田舎の村で生まれた自分の子を取り上げられるのか?
自由だけではない。シリウスが求めるものをリゲルは問うている。
暗殺しようとした主犯を捕らえなければ、次に命を狙われるのはオスカーかもしれない。
そんなことは分かっている。
言い淀むシリウスに、リゲルは容赦なく続ける。
「あんたの事情や感情なんて俺たちに分かるわけがない。あんたが本当に望むものを俺たちに一度でも伝えたか?」
「それは………」
確かに王らしい態度や振る舞いはしただろう。けれど、それだけだ。
小国に向けた書簡も王らしさを見せるためのポーズにすぎない。
「国の安寧、先王の名誉? そんなものは後付けだ。思い入れもない国のことを、顔も知らない親の遺志を継ぐことを、望んでいると言ったって信じられるわけがない。そんなものはあんたの意志を犠牲にしてまで守ることじゃない。
あんたが俺たちを疑い、俺たちが忠誠を誓えない理由がわかるか? あんたはまだ俺たちに何も命じていないからだ! あんたの本当の望みはなんだ?
それは心のどこかで女王になりたくないと思っているからじゃないのか!」
「———っ」
王になることを選んだ。それでも望んだわけではないことを見抜かれていた。
「私は………」
「俺はあんたがそれら全てを乗り越えられる女だと思っている」
女王になるには道は二つに一つ。
権力者たちに言いなりになる、玉座に座るだけの操り人形になるか。
真の王道を歩み、自分の望む国を手に入れる先導者になるか。
後者の道を選べば、辛く険しい。見たくない物を見て、越えなければならない。
シリウスは今、その分岐点に立っていた。
「私が本当に望むものは―――」
―――いつか出会う彼らを信じて。
誰も彼も―――。
「言いたいことばかり言って」
シリウスは自嘲気味に笑い、リゲルの肩にレイピアの刃を置いた。
リゲルはレイピアの刃の先にある、煌々と光るその目に呑み込まれた。
「私たちでこの事態全てを収束させる。そのために脅かす敵を探し出して捕らえて、目的とその真実を知る」
「………」
「私は一方的な忠誠は求めない。リゲル卿、いや……リゲル。立場の違いはあれど、私はお前を対等な立場で接する。今後、私たちの前では私のことを陛下とは呼ぶな。それから私に喧嘩を売ったのだから、それなりの覚悟をしておくことだな」
シリウスの宣言に、目を丸くしたリゲルは弾けたように笑った。
「———っ、ははは。成程、分かった。いいだろう、上等だ!」
見たことのないリゲルの破顔に、シリウスは驚愕のあまりレイピアを手から離してしまった。
夜の陰りが深くなり、城内に静寂が訪れた。
寝台の蝋の火を落とし、闇に包まれ、シリウスが眠気に襲われてもリゲルはしゃんとして、バルコニーの傍に立ち続けていた。
「いい加減眠ったらどうだ?」
「———眠れるわけないだろう?」
しかし毎晩護衛が付く以上、眠らないわけにはいかない。そんなことはシリウスにも分かってはいた。妙齢とはいかないが、やはり男女が同じ部屋にいては落ち着かない。オスカーに対してはむしろ部屋に呼びつけているわけだから、シリウスの口から男女どうのと口に出すことはできなかった。
「俺はあんたの護衛だ。夜が明けて次の七星卿に渡すまで起きている。護衛の意味がないだろう」
つまりは遠まわしに寝てもいいと言っているのだろう。
厄介な性格であるシリウスは寝具にうつ伏せのまま眠気と戦い、現状に抗っていた。
剣術にならば負けなしのシリウスであったが、睡魔に勝てたことがない。少しでも口を動かしておかねば今にも瞼を閉じてしまいそうだ。
「どうして、リゲルという名なんだ?」
弓の手入れをしていたリゲルはその手を止めてベッドカーテンを挟んだシリウスに逆に問い返した。
「あんたは知っているのか、シリウスと名付けられた意味を」
「———今日は随分と口を動かすな、リゲル卿」
「話しかけてくるからだろう。寝たいなら、さっさと寝たらどうだ」
リゲルは呆れて深いため息をした。
「私の名は、私を育てた人から授かった。その名の意味はずっと知らなかったが、オスカーが私に教えてくれた。旅人を導く星の名だと」
「あんたはどう見てもシリウスという名には程遠いな。青白く天狼を意味するが、
黄金、琥珀を象徴するベルンシュタイン王家とは」
リゲルの返答にシリウスは思わず笑い、布団の中へ入った。
「何がおかしい」
「いや、何でもない。そういう年頃なんだ」
くすくすと笑うシリウスに、さしものリゲルも不機嫌になった。
「それからリゲル卿のフリをするならば、もっと敵意をむき出しにするのだな、リャン卿」
弓が床に落ちた音がして、シリウスは勝ち誇った気分で眠りについた。
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