第43話 軋轢のはじまり(5)
―――焼き尽くせ。
唱えたその声は地鳴りのように響く音に溶け込み広がった。
血まみれの口で唱えたヴェロスは不適に笑い、彼が流した血だまりがごぼごぼと音を立てて吹き上がる。
火の魔術だと気が付いた時には、ごおっと音を立てて路地裏は炎の渦で呑み込まれた。
「———なんだと!」
不意を突かれたトラッドとサンディは突如として現れた業火に一瞬混乱し、服に燃え移った。その隙を見逃さず、アリスタとオスカーはその隙にヴェロスの肩を担いで、闇雲に走った。
*
街角を抜けた三人は、アリスタの指示で一直線に王都の中心から外れた歓楽街に走った。
そこはパブや娼館、酒場、が密集しており、貧民街に遠くない位置にあった。
その一角にある、小さな家にアリスタは正面から入った。
金のない庶民や流れ者が利用する廃れたところに町医者がいるという。
どうしてそんな場所を知っているのかと、問う余裕などオスカーにはなかった。
意識はあるものの、ヴェロスはひどい汗だ。いつ倒れてもおかしくはなかった。
アリスタは使い慣れた部屋のように、ヴェロスを寝台に寝かせた。
すると部屋の奥からしゃがれた声の、腰が曲がった老人がのったりと姿を現した。
一本残らず白髪で、歯がいくつか抜けていることから随分と高齢であることが分かる。
「おい、ノックはしろと何度言えばわかるんだ、小僧」
「わりいな爺さん、急患だ」
「厄介ごとを持ち込むなと何度言えばわかるんじゃい。ああ、ああ。シーツを血で汚しおって。城にある女王陛下のシーツと交換しろ」
「この変態じじぃめ。俺より先に女王のシーツを使う気か?」
「ひひ、お前さんは奥手じゃからの。いつになったら女王に子どもが産まれるんじゃ?」
「おい!」
「わしの今の生きがいは、女王陛下の子どもを取り上げることよ。早く城に連れて行かんか。次期王をこの手に抱かせろ。グズグズしてるとおっちんじまうわい」
やれやれと、治療道具をごちゃごちゃと集めた老人はヴェロスの傷口を診察し始めた。
アリスタとヴェロスの正体も承知の上で、だ。
「グレッグはいるか? あいつに頼みたいことがある」
「知らん」
「ちっ、たく。おい、グレッグ! いるんだろ!」
アリスタは部屋の外で上階に届くくらい叫んだ。
するとアリスタと変わらぬ年齢の少年が奥からひょっこりと顔を出した。顔見知りなのか、アリスタは少年を使いとしてビーネンコルブ城に走らせた。町医者の孫らしい。
ヴェロスの傷口は浅くはない。
町医者はヴェロスの傷口を見て、手際よく処置していく。
当人は、トラッドとサンディを仕留め損ねたこと、魔術の手ごたえのなさを吐露した。
「あの程度の炎じゃ、軽い火傷しか負わせられない」
「おい、しゃべるな、動くな、喚くな」
町医者はヴェロスの頭を叩いた。
「だろうな」
アリスタは顔を手で覆い、深くため息をついた。しかしそれは魔術の火力不足を憂いているわけではない。より複雑になった事態と、最悪の現状に頭を抱えていたのだ。
「———アリスタ、分かってるな」
「———ああ」
何かを示し合わせ、ヴェロスはアリスタに何かを念押しした。しかしアリスタはどこか苦い顔をした。そして盛大にため息をつき、何かを決意していた。
アリスタは険しい表情のまま、オスカーを部屋の外へと連れ出した。
「ちょっとこっち来い」
「………」
オスカーはアリスタに大人しく従った。
診察室から離れた裏口で、アリスタは住み慣れた家のように勝手に扉を開けた。そこは町医者の家の前とは思えない程に散らかっている。
壁にもたれて目を伏せて、深いため息をつくアリスタ。彼の纏う雰囲気はいつものくだけたものではない。
二人の間に長い沈黙が流れたが、アリスタの舌打ちでそれは破られた。
「ヴェロスはお前に甘いし、不可抗力だって言うけどな。———やっぱ、俺には我慢は無理だわ」
「———っ」
右頬に衝撃が走り、殴られたと気が付くのに、
体が崩れ、視界には歪んだ石畳があるだけ。
理解が追い付かない。顔を上げることが、怖い。
アリスタの吐息に怒りが満ちていることだけは分かる。
「連れてきたのは俺たちだ。だがな、お前があそこまで間抜けだとは思わなかったぜ。お前、俺がどうして殴ったか、分かるよな?」
「———どうしてって」
眩暈がする頭で何とか思考を巡らせ、息を呑んだ。
だけど分からない。
トラッドとサンディに遭遇していたにも関わらず、すぐに見抜けなかったことを責めているのか? それとも何も闘うことができなかったこと?
ようやく顔を上げたオスカーは、煌々と光る若葉色の双眸に恐怖した。毒が盛られていた朝食の時に見た、値踏みし面白がる表情ではない。
「あいつらのこと、気が付いていたんだよな?」
「それは―――」
「逸って粋がったくせに、あいつらを無駄に増長させた結果がこれだ」
「あの時は仕方なかったんだ! そうじゃないとディグリさん、行商人の人もカルマも殺されていたかもしれないんだ!」
オスカーの反論にアリスタは驚愕のあまり目を丸くさせた。
「お前、俺が怒っている理由、本当にそのことだと思ってんのか?」
ここで引き下がれば、納得しない気持ちで引き返してしまえば、絶望の淵に立たされる。
あの恐怖を、再び味わうわけにはいかない。
「じゃあ、アリスタはあの場所であいつらに会ったのも、騙されたのも僕のせいだって言いたいの? 僕を連れてきたのはアリスタとヴェロスじゃないか!」
「まだわかんねぇのか! 本当に救いがたいな、お前は。お前はあの場で二度失敗した。いいか、二度だ! サンディとかいう男が怪しいのは分かりきっていたのに、そこをつついた。奴も逃がす理由が出来なくなった。その上逃げる隙をこっちが必死に作ったのにそれを無下にしやがって!」
アリスタはオスカーの胸倉に掴みかかって怒りの全てを吐露した。
「俺が言いたいのはな、オスカー! お前には闘う力があるのに、自分の手は汚さないなんて都合が良すぎるんだよ! まともな武器すら持ってきてない。お前は何かしたんじゃない。何もしないことが正しいと思ってる!」
それこそが、アリスタが本当に伝えたかったことだった。
そして遊び半分みたいに発揮しようとして、結果ヴェロスに怪我をさせた。
「これで十分分かっただろ? 俺たちがどんな状況にいるか。女王はお前を守るように言った。だけどお前を守るために、俺たちが犠牲になっていいわけないだろ! あの女の優先順位は狂ってる! 俺たちを駒だと思って、自分の都合のいい奴だけを守ろうとしてんだ! 飛龍の騎士も、リゲルも、王国のためにはそれが仕方ないって思ってんだろうけどな、俺たちは違う! あの女の駒になんかなるかよ。お前はいいよな、女王に泣きつけばいいだけだ!」
アリスタは言いたいことだけ言い、オスカーを突き飛ばして、その場を立ち去った。
呆然とすることしかできないオスカーはアリスタがいなくなったその場所を見つめたまま、その場でうずくまり、混乱と痛みの渦の中で、アリスタの怒りの言葉を反芻した。
―――あの時、サンディの正体に気づいても、気づかないフリが出来れば見逃してもらえたのだろうか。でも自分の迂闊な行動が結果、あの現状になる可能性を高めたことに変わりはない。
―――何もしないことが正しいと思っている。
思考を読むことに長けているフィオーレとはまた違う。自分自身ですら気が付かないような深層に触れる言葉を、アリスタは使う。
―――優先順位が狂っている?
そんなことはない。シリウスはいつだって平等だった。女王である自分でさえも、特別扱いはしない。ああ、でもそうか。二人の目には自分こそが贔屓されているように映ったのだろう。役立たずを守るために、腑に落ちないまま命懸けの闘いを強いられたのなら、怒って当然だ。
―――けど、どうすれば良かったんだ。
「若いのぅ」
ひひ、と笑いながら町医者が裏口の扉をそっと開けた。ずっと立ち聞きしていたのだろう。オスカーは居心地が悪く、それを誤魔化すようにただ切れた唇の血を拭った。
「どれ、診せてみろ。口の中切ったんじゃろ?」
「———構いません」
今できる精一杯の強がりだった。
「利き手で殴らなかったのはあいつの豆粒程度の優しさじゃな。ふむ、口の中が切れただけのようだ、良かったな」
町医者はオスカーの許可なく、老人とは思えぬ力で口に指を突っ込んだ。
そしてまじまじとオスカーを観察した。怪我の具合というよりは体つきを見ているようだ。しかし気味悪さは感じない。
「あんたも、女王陛下の従者か?」
「———まあ」
「ああ、アリスタ卿とヴェロス卿に、引っ張られて来たって感じだな」
町医者は立ち去ろうとするオスカーの横に座り、もう少し話をしようと誘った。
「———御礼は後で、城から頂けるかと………」
「ああ? いいんじゃ、そういうのは。後で女王のシーツをもらうからな」
冗談ではなかったのか。まあ、シリウスなら何も考えずに渡してくれそうだが。
「それに、七星卿がこんな場所で治療していたと分かれば、わしらも困るしな」
オスカーは老人の発言に目を丸くした。普通、王族の関係者を助けたのであれば、報奨を期待するものだし、貧民街にいるということは生活も苦しいはずだ。
オスカーの疑問に町医者は嬉しそうに答えた。
「わしのご先祖はな、高原王クレイモアの側近の医者じゃった。クレイモア王をご母堂から取り上げてから、わしらの一族はずっと王家にお仕えしておった」
しかし時を経て、ルル=ガルア王とアルメリア王の長い後継者争いの中、一族は城から追い出され、路頭に迷うことになったという。医者という立場は王の健康に関わるからな、疑われるのは当然だろう。
町医者は話に熱がこもり始めた。
「結局二人とも玉座についたがな。知ってるか? 鮮麗王のアルメリア王はそりゃあ美人だったそうだ。男でも惚れちまうくらいにな。けど美人薄命っていうのか、若くして亡くなっちまった。わしもその顔を拝んでみたかったもんだ」
よくある作り話や法螺話かと思われたが、信ぴょう性があまりにも高い。
「わしのじいさんは、あのご兄弟のことをようく知っておった。繰り返し、繰り返し、わしら孫に言い聞かせていたもんだ。小さい頃から仲が良くて、よくクレイモア王と遠乗りをしていた。後継者争いなんぞ、上辺だけのことだ。そう歴史に残すことで辻褄を合わせようとする。その時、誰がどういう気持ちでいたかなんぞ、紙を見ても分かることなどない。わしはついぞ、ギルガラス王すら見ることも叶わなかった」
町医者は王を焦がれていた。
「アリスタ卿とヴェロス卿は、王都でわしらみたいな、王家と親しかった人を探して、話を聞いておったんじゃ。あの二人は実に賢い。賭博のセンスはないがな」
どうやら二人から巻き上げたもので、町医者の懐は温かいらしい。
「恨んで、ないんですか?」
オスカーは慎重に尋ねた。
「恨む? 何を馬鹿な。恨むのは王へ絶望した時だけだ。お前はガキに殴られて口が切られただけで、絶望するんか? ん? 人生の大半も味わっていないガキ絶望を語るにはまだ早いわ。そう思わんか?」
靄を晴らす言葉に、オスカーは思わず笑みをこぼして、「はい」と答えた。
町医者は満足気に続けた。
「ここだけの話だがな、わしのご先祖様はな、ルル=ガルア王から謝礼金をたっぷりともらっていて、王都の外に行くふりをして王都に居続けたのよ、どうしてか分かるか? ん?」
聞いて欲しいと町医者はオスカーが尋ねるのを待った。
「どうしてですか?」
王都にいればいつか王の不興を買い、命の危険だってあるだろう。
「虞問だな。ベルンシュタンイン王家が面白いからよ。この国で一番な」
にたりと町医者は笑い、オスカーの背中を叩いた。
「忘れるなよ、王の味方は城の中だけとは限らん」
後にこの町医者は、公言したとおり、ベルンシュタンイン王家に大きく関わることになることを、オスカーはまだ知らない。