第38話 水晶の落ちた先(6)
七星卿に用意された部屋などオスカーはほとんど入ったことはなかった。入城の折に各自の部屋へ荷物を運ぶのを手伝う程度だった。カルマの部屋は幾度となく入ってはいるが、他の七星卿の部屋は従者でなければ入室は許可されない。そもそも従者の入城も許可されていないため、当人以外で出入りすることなどないはずだ。テオとカルマ以外は不可侵の魔術を扉に施しているという。
オスカーの部屋よりは無論広いが、寝具や燭台以外、無駄なものなど一切ない。華美な装飾品も調度品もなく、テーブルには一輪挿しの瓶に花が飾ってあるだけだ。もしかすると七星卿の中でも一番狭い部屋を割り当てられたのではないだろうか。苦情を言うような人柄ではないことは分かっているが、彼らの立場はやはり平等でなくてはいけない。
―――もっと配慮すべきだったかな。
挙動不審なオスカーに対し、フィオーレは相変わらずの物腰の柔らかさで部屋へ迎え入れた。二人掛けのテーブルに腰を掛け、二人の間には一輪挿しの瓶に入った花があるだけ。
「フィオーレ、あの言いにくいんだけれど、今僕たちが会うのはまずいんじゃないかな」
一応オスカーは暗殺計画の容疑がかかっている。しかし朝食に毒が盛られていた事件からフィオーレの立場はあくまで中立。彼は天秤の支点のような立ち位置に居続けていた。
「それでは、私も共謀者ということになりますね」
「そういう問題じゃ………」
フィオーレは扉の内鍵を閉めた。
「もし、あなたがどなたかの差し金で動いているのならば、私と二人きりの今が絶好の機会ですよ」
「………」
「冗談です」
「笑えないよ、その冗談」
「失礼しました」
「それに、僕じゃフィオーレに勝てないかもしれないしね」
力尽くならまだしも、フィオーレも少なからず魔術の類の扱いは慣れているはずだ。
謙遜のつもりでもなく、敵対視して欲しくない一心での発言だったが、フィオーレにしては珍しく顔を曇らせた。不機嫌、と言ってもいい。
「———オスカー殿。老婆心かもしれませんが、そのようなこと、他の七星卿の皆様には言わない方がよろしいかと思いますよ」
しかしその助言は遅すぎた。オスカーはアリスタやヴェロス、リゲル、七星卿のほとんどに同じことを言っている。下の者が上の立場の者への謙遜にすぎないはずだ。
しかし現に、温和なフィオーレでさえ機嫌を損ねた。非常識な発言だったのではないだろうか。
「どうして、そんなこと」
「そうですね、皆様が同じように捉えるかは分かりませんが、私は『ミュラの花嫁』を彷彿とさせます」
「ミュラの、花嫁?」
フィオーレはとある昔話を語った。
「その昔、ミュラと呼ばれる村があり、そこに住む美しい娘は村で一番裕福な男に嫁ぎ、何不自由ない生活が約束されていました。
ある日、その村にふらりと年老いた旅人が現れました。彼は貧しく、明日食べるものにも事欠く様で、村々を渡っては恵んでもらい何とか生き延びていたのです。しかし旅人はそんな生活に不満を持ったことはなく、旅を心から楽しんでいました。旅人は村一番の幸せ者である花嫁に尋ねました。『あなたは幸せか?』
貧しい生活を哀れに思った彼女は旅人に対して、こう答えました。『自分は幸せだったことは一度もない』と。
彼女は悪事を働いたわけではないのに、この昔話では花嫁は偽善であると語り継がれています。第一に、彼女は自分も旅人のように不幸であるからと、あたかも同じ立場であると善人を装いました。第二に、彼女は自分の幸せの価値を理解していなかった。そして第三に、自分を幸せにした家族や夫を侮辱しているのです」
「………僕は別に………。そんな、つもりじゃ」
フィオーレの例えは大袈裟すぎる。
「もちろん、オスカー殿がそういうつもりで謙遜しているわけではないことは分かっています。我々と同等の立場ではない故のしがらみもあるでしょう。ですが、過度な謙遜は時に自分に関わる人の価値を下げることにもなるのです」
「———っ」
フィオーレはいつも通りの優しい笑みを浮かべた。
「あなたはもっとあなたの価値を、意義を、私たちに見せてもいいのです。自分は弱い者ではないと。女王陛下謁見の折に、私たち七星卿が女王陛下をお支えする力になるとあなたが明言したように―――」
昔話をして人としての教訓を伝えてもなお、オスカーにはフィオーレの言わんとすることが分からかなった。しかし女王謁見の折、オスカーは不遜にも彼らの処遇を豪語した。
少なくとも彼らはあの時からオスカーを認めていたのだ。
―――ああ、そうか。
思い返せば、朝食の同席を断り、いつもシリウスの引き立て役を演じていて、女王の力になれと言っておきながら、何にも関わろうともしない気味が悪い存在だったのだろう。アリスタはそれを「臆病者」と言ったが、まだ優しい言い回しだ。
オスカーは知らず知らずのうちに彼らの好意を全て拒んでいた。
「ありがとう、フィオーレ。約束するよ、もう遠慮はしすぎないようにする」
「ええ、約束、ですね」
フィオーレは安堵した表情を見せた。
「何だかいつもフィオーレに助けられている気がするや。何かお返しできたらと思うんだけれど」
とはいえ、こんな状況では何か贈り物することもできない。しかも、この質素な部屋の状況を見て気が付いてはいたが、フィオーレは物欲とは無縁だろう。
「では早速、私の相談に乗って頂けますか?」
フィオーレは両手の指を合わせて首を傾げた。
彼の赤い目と一輪の花だけが鮮やかで、呼吸はとても静かだ。静寂の色がそこにあるような気がして、オスカーは息を呑んだ。
「良くも悪くも死の誓約は本物でした」
表情は思わしくない。しかし先王の死の誓約がなければ小国は王都への召喚には応じなかっただろう。
―――フィオーレはどうして死の誓約の真相にこだわるのだろう。
「それは、先王の遺志ではなく、女王陛下のご命令に沿いたいと思うからです」
オスカーは心臓が跳ねた。
「こ、心読まないでくれるかな」
「いえいえ、表情に出ていましたから」
誰でもわかりますよ、とフィオーレは上品に笑う。
「これは私個人の考えですが、先王の死の誓約は今回の事件と関係があるのではないかと思うのです」
「それは、予言?」
「いいえ。生憎、私の予言はあくまで授かった未来の出来事を伝えているだけ。この事件の顛末を知る術はないのです。私が気になるのは死の誓約、そのものの本質です。残念ながら、我々七星卿は先王のお人柄までは分かりません。何故、顔も知らない実の娘の存在を知り、そして玉座につけ、小国から七人を臣下として仕えるように誓約されたのか―――」
「先王はどうして、会ったことない人を頼ったのか、か」
「本来、誓約を成立させるには人智を超えた力故に、相当な条件がつくのです。ですが、女神の血を引くベルシュタイン王家ならその条件は無効でしょう」
誓約は契約よりも重く、神が人に命じるそれと同じ力を持つという。死の間際に神と同等の力を持つものが結び、その課せられた使命を全うしなければ解かれることはない。それ故に、誓約を果たさない者の末路を知ることはほとんどない。
「つまり、謎のまま、ってこと?」
「ええ。何か手掛かりをと思い、アカシア神殿に足を運んだ次第でしたが、当てが外れました。ですが、赴いた甲斐はありました。大司祭様のご様子、どうにも気になりまして」
確かに、あまりにも挙動がおかしかった。先王の死に悼んでいるとはいえ、しかし今になって冷静に考えると矛盾が生じる。そんなにも先王の名誉回復を望むのであれば、次期女王たるシリウスに嘆願すればいい。しかし彼は小評議会にすら出席しておらず、入城することを悉く拒んでいる。シリウスは彼の存在すら知らないだろう。
「大司祭様は、聖職者になられる前、御者をされていたそうです。ある日、不運にも盗賊に遭遇し、乗車した方々が亡くられて、その方々の死を悼み、今の道を歩まれたそうです。弱き者を助ける聖職者として生きることを選ばれた故、民からも愛されているのでしょう」今日お会いして分かったことは、彼の中に大きな後悔と罪悪感があること」
罪悪感。彼の中にその心があるとすれば、やはり先王の死だろうか。
「やっぱり先王が誰かに、殺されて、それを知っている、とか?」
オスカーは言葉を慎重に選んだ。
「私も初めはそれを疑いました。お近くで仕えていたのなら、なおのことです。しかし、彼の目にはそれが映りませんでした。大司祭様は、本当に心から先王を悼んでおられた。彼の目には一点の曇りもなかったのです」
「じゃあ、別件で悩んでいる、と」
「それが分かれば良かったのですが、私も少し疲れてしまって」
それでオスカーに相談したということか。
何だか全てが堂々巡りのような気がした。しかしフィオーレが気がかりだというのも理解ができる。オスカーには彼が何かに怯えているようにさえ映った。
「人は真実ほど、隠したがるものですから」
トーンが少し低くなったフィオーレの声に、オスカーは再び心臓が跳ねた。
「だ、大司祭はもしかしたら誰かに脅されているのかもしれない。誰かに弱みを握られている、とか」
「オスカー殿はやはり慧眼ですね」
流されたのか本気で褒めたのか分からない。これで相談に乗ったことになったのだろうか。オスカーは心の中で深いため息をついた。フィオーレと言葉を交わすと絆されたり、緊張したりと気が休まらない。
「オスカー殿は、陛下のことをどうお思いですか?」
そしていつも唐突な問いかけをしてくる。
「どうって、それはいい女王になるかなぁと」
「オスカー殿、お約束、覚えてますか?」
―――怖い。
満面の笑みで記憶を問われてしまっては脅迫されているのと同義だ。オスカーは慌てて大きく頷いた。
オスカーは深呼吸をして答えた。
「ガサツ、人使いが荒い、暴力的、朝が弱い、それから―――」
「その調子ですよ、オスカー殿」
つらつらとフィオーレは堪えられず笑い出した。
「私には分かります。あなたと、陛下が強い絆で結ばれていること、そして陛下がそれを必要としていることを―――」
フィオーレの赤い目に吸い込まれそうになり、オスカーは畏怖というものを理解した。
―――やっぱり、フィオーレは人間ではないんじゃ………。
「人」、「彼」、「少年」と表すには、あまりにも汚れがない。
「フィオーレ、君は一体………」
「私は、元白の国の聖職者。グラシアール神殿に仕える神官の一人にすぎませんよ」
―――絶対嘘だ。
もう騙されないぞ。年下の少年に、一体今日は何度振り回されればいいのだろう。
「フィオーレ、一つ、気になったんだけれど」
「はい、何でしょう」
「今日、僕らが神殿に行ったこと、シリウスは知っているんだよね?」
しい、とフィオーレは指を立てて沈黙を約束するように示し合わせた。