第113話 忘れられた名前(5)
――――先王の代わりに罰を受けるべき相手。
実子として認められたただ一人の後継者、娘のシリウスにその矛先が向けられた。
ディックは口角を歪めて笑い出した。その目の端には涙さえも浮かべて。
その場にいる誰もが理解した。この男は、当の昔に壊れていたのだと。鉄のような理性の仮面で燻る狂気と怒りを隠し続け、誰も疑わなかった。
シリウスは指先で額を覆う形で項垂れた。
「レイニー・ディック。貴様はこの復讐の果てに何をするつもりだった? この五日間、私は貴様に猶予を与えたが、何も起こさなかったな」
「私の復讐は正義ですよ、陛下」
「正義?」
「ええ。弱者のために立ち上がる。これこそが正義です」
シリウスが言葉をぶつける前に、看過できなかったテオが噛みついた。
「貴様の言う正義は、他者の命を踏みにじり、利用するためだけのものだ! レイニー・ディック候。これは正義ではなく、ただの都合と自己満足じゃないのか!」
しかしディックは顔を歪めたまま笑う。
「青いですな、テオドロス卿。あなたは全くもって青臭い。しかし正義なんてものは幾千もあるのですよ。誰かによって都合や良くて、大半の人間が快感を得られて楽になれば正義と同義なのですよ。あなたも人を殺してきたはずだ。罪のない多くの人間の命を奪い、勝利という美酒に酔う。私の行いと何の違いがあるのでしょう」
「—————っ」
「今糾弾されているのはテオドロス卿ではなく、貴様だ、レイニー・ディック候。我々の価値観などどうでもいい」
「ならばこれ以上、何を知りたいのです?」
シリウスは怒りに身を任せ、テーブルを強く叩いた。
「何故だ。何故、私を王にした! 貴様がいなければ、諸侯たちは私を王にすることに同意しなかった! 私を見つけなければ、私はこの場にいなかった」
荒げ、叫びにも似た声で溜まった感情を吐露するシリウスを止める者はいなかった。
「貴様とは、これから長い時間をかけて信頼し合える王と臣下になりえたと私は信じていた! アイギアロスの件に関わった者をグリシアから聞かされても尚、私は貴様だとは思いもしなかった。私を、王に選んだ者が私を殺そうとするはずがないと、私は、そう思いたかった」
信用し、信頼しかかっていた。
家族を持たないシリウスに、政略という形式ではあるが家族を与えた臣下に感謝していたのだ。
「私が陛下を見つけた理由、ですか。そうですね、当初は復讐を果たしたかった、ただそれだけの理由でした」
ディックはシリウスの前に這いつくばるように跪いた。その行動にシリウスは目を見張った。本当はすぐにでも目を背けたかったことだろう。だが、シリウスはぐっと堪えて彼の言葉を待った。
「ああ、陛下。今なら分かります。私はあなたに見つけて欲しかったのです。この国で誰よりも力のある誰かに、娘の死を悼んで、嘆いて欲しかった。先王は全てを王国の負の歴史として処理し、娘の死も忘却の彼方に葬られた以上、誰も声を上げることができなくなった。私でさえも、もう娘の顔を思い出すことが出来ない程に――――」
クリスタル家の誘いを断っていれば、この男の未来も変わっていたかもしれない。
「貧しくとも、妻と娘との穏やかな日々を選んでいれば、こんなことにはならなかった」
クリスタル家に火を放ったのも、その馬車の御者であったカールハインツを殺したのも、全ては娘トリシャの想いから来る行いだった。
シリウスは小さい声で裁断を下した。
「貴様を許すことはできない。だが――――」
「貴様を処刑はしない。王都を追放。北方タール島へ流罪とする」
「————流罪? 処刑ではなく?」
ディックは目を丸くした。
ディックだけでなく、リャンとテオもシリウスの判断に驚きの声を漏らした。リャンはじろりとオスカーを睨んだ。リャンの視線に気が付かないフリをして、オスカーは戸惑うディックの肩に手を置いた。
「彼女の魂は、確かにあの神殿にいます。ディック候、あなたが悼み、祈った場所に彼女は今も捕らわれ続けている」
刑を言い渡され受け入れたディックはよろよろと立ち上がった。
「陛下。図々しいのは承知の上で申し上げます。最後に娘に祈りを捧げる時間をください」
「———ああ」
レイニー・ディック。
小評議会の議員としてギルガラス王の代より務めた。
女王の戴冠を見ることなく北の最果てにある監獄の島に追放される。
王都とアイギアロスの確執に翻弄されは半生を送り、計らずも、女王を王都へ導いた者であったが、その名を歴史に残すことはなかった。
また、サンディカ・ローレスを含む五人の罪人は、リャンに殺されたとされていたが、女王の手引きで国外へ秘密裏に運ばれ、故郷に戻されている。