第112話 忘れられた名前(4)
ヘクトル・グリシアが語った真実の一つがオスカーとシリウスの脳裏をよぎった。
玉座に就いた先王ギルガラスは当時未婚。諸家、諸侯たちは自分の娘を妃にすべくこぞって縁談を持ち掛けた。しかし、ギルガラスには意中の女性がいた。それが、シリウスの実母だという。王はあらゆる縁談を断ったとグリシアは当時のことを語った。しかし縁談の話は王の意志とは異なり次第に苛烈を極め、権力に固執した諸家たちは何としても王に嫁がせようと陰謀を巡らせたという。
「ギルガラス王の妃となる候補の娘たちが王都に呼ばれ、トリシャもその一人として選ばれた。権力に固執するクリスタル家らしい行い。奴らは初めからトリシャを養女にして家に迎え入れるつもりなんてなかった。ただの政治の道具として利用できる娘が欲しかっただけだったのですよ」
「そして王都へ向かう途中のその馬車で、トリシャは殺された」
「それが、先王の仕業だと、貴殿は言いたいのだな」
「私も当初、そう思っていました。けれど調べて分かったことは、王とは何の関係もないただの盗賊くずれの連中でした。安全であるはずの王都の道は盗賊たちのものになっていた。ただの治安の低下が引き起こしたことです。その時のアイギアロスの騎士たちは反逆の罪に問われ、多くは囚われていた。そして、先王が亡くなってすぐ、奴が……カールハインツが神殿で独白しました。御者であった自分は、自分の命可愛さに、一人の娘を残して逃亡したのだと。神殿に祈りに来ていた私が、まさか本当の父親であるとは知らなかったのか。それとも女神の思し召しか………。娘は、トリシャは巻き込まれたのですよ、王家とアイギアロスの負の連鎖の全てに―――」
実の親から引き離され、道具として王に召し抱えられる。そして何も分からぬまま殺された娘を思い、ディックは深く息を吐いて項垂れた。
「————怖かっただろうに。傍にいてやれれば」
諸家の娘の名を消すことは容易なことではない。書物から名を消すことは出来ても人々の記憶から消すことは不可能だ。しかしそれを可能に限りなく近くしたのは、共犯という形で皆が口裏を合わせたことだ。アイギアロスの事件に関わった全ての歴史を抹消され、そして娘の名前も誰も口にすることがなく、時の流れと共に皆忘却していった。
シリウスは何かをディックに言おうと口を開いたが、
「————」
「トリシャの死に関わった奴は、じっくりと苦しませて殺してやりたかった。寝静まった真夜中、クリスタル家に火を放ち奴らが焼かれているのを朝まで待った時、トリシャの魂が救われていく気がした」
「————っ」
その狂気を内に秘めながら、小評議会の席に座り続け、女王と七星卿に助言を与え続けていたのか。
「だが奴だけはそれすら許せなかった。あの男だけは――――」
「奴の中ではとっくに昔の罪として、むしろ敬虔な信徒であることの糧として娘の死を昇華していた。私の中では時効にはなるわけもない。だから殺したのです。最も苦しむ毒で」
「泥ネズミを使ったのも、王都の罪のない民を殺したのも、地下闘技場の権力を手に入れたのも。ここまでしなくては、王が玉座からその重い腰を上げないと、我々は知っているから」
全ての白状したディックの表情はどこか清々しかった。
「一体、誰を吊し上げれば復讐を果たしたと言えるのか………。
先王が死んだ時、分からなくなったのです。自分の手であれ程殺してやりたいと思っていたのに、病であっさりと死んでしまった。私は探しました。ギルガラス王の代わりに罰を受けるべき相手を――――」