第111話 忘れられた名前(3)
回顧するのは二十数年前。
「私は、アイギアロスの中でも王都から最も離れた田舎で育った、下級貴族。妻は平民の生まれでした」
ポツリポツリと語る男からは、権威が全て剥がれ落ちていた。
憔悴したような男の表情にオスカーは胸が痛んだ。心臓ではなく、罪悪感がこびりついていくような感覚だ。ほんの数日前まで国の行く末を話していた相手とは思えない。
「私たちの間に娘が生まれた。名はトリシャ」
その名を口にする声音は慈愛に満ち、如何に彼が娘を愛していたかを物語っていた。
「貧しい下級貴族の暮らしは、あなた方には想像もできないでしょう。農民や商家にも劣る生活、家名ばかりが残り、自分たちよりも高い身分の貴族に媚びへつらい言いなりになる他、生きていく術がなかった。妻が病気になってもまともに薬を買うこともできず、娘に新しい服を与えるのさえできない程に———」
小評議会で外交の手腕を振るうディックからは容易に想像できない過去。
「あなた方では想像できないでしょうね。当時のアイギアロスはそれが当たり前だったのですよ。土地柄、農作物も上手く育たたない。メノリアス王政以降、小国との国交も減っていった。私たち家族は決して例外ではなかった」
アルフォンシーノ伯の元を訪れたテオから聞いたアイギアロスの様子は、確かに広大な土地はあったが裕福と言えるような栄えた場所ではない。王都までの道中で市場や宿屋を見かけなかったというのは、その領地の貧しさの歴史にあったのかもしれない。
「アイギアロスで一、二を争う権力を持つクリスタル家。彼らの使者が私の家を訪れて来ました。後継者に恵まれないことが悩みの種だったクリスタル家はどうしてもその血を絶やすことを恐れた。身内ばかりの婚姻を繰り返す彼らも、とうとうその古い掟を破ることにしたのです。そこで白羽の矢が立ったのが私の家。娘を引き換えに差し出せば、裕福な生活と確かな地位を約束する、とね」
「それで娘を差し出したのか?」
信じがたい、とテオは呟いた。そしてディックはその言葉を肯定した。
「ええ、そうです。言ったでしょう、テオドロス卿。あなた方には分からない、と。貧しさがどれだけ人を変えるのか、あなたは知るはずもない」
「…………」
柱にもたれ黙っていたリャンが口を挟んだ。
「上手くすれば娘はクリスタル家の女主人になる。遺産をいくらか引き継げる。そういう算段もあったのではないか?」
「否定はしませんよ、リャン卿」
ディックは自嘲気味に笑い、ゆっくりと瞬きをした。
「娘は当時まだ十歳。私は権力に目がくらみ、娘を養女に出すことを快諾した。ただし、実の父親の素性を隠すこと、一切娘と会う事をしてはならないとクリスタル家は条件にして。ですが、風の便りで娘は腹を空かせるような生活をしていないと聞いて、私の決断は間違っていなかったと思いたかった」
ああ、とふと何かを想い出したのか宙を見た。
「名前も変えるように言われたがトリシャはそうはしなかった。父が付けた名だからと」
十歳の娘。
偶然にも当時のトリシャは今のシリウスと同じ年齢だ。本当に打算だけで、まだ年端も行かない娘を手放したのだろうか。
「クリスタル家は約束通り、私に領地の書記官補佐という役職を与えてくれました。カイル・アルフォンシーノの妻の父君に、私は仕えたのです」
「それからトリシャに、一度も会わなかったんですか? 本当に」
オスカーの問いに「いいえ」とディックは首を横に振った。
「匿名で手紙を出しても返ってくることはなかった。裕福な暮らしに夢中になっていると、私は勝手に思い込んだ。だが、あの子が養女となった二年後に妻が病で亡くなったことも知らされなかったのだと。後になって分かった時には、もう手遅れでした」
「———手遅れ?」
シリウスの眉間にしわがぐっと寄り、ディックの真意を探る。
「養女にしてから五年後のこと。トリシャは死にました。私が最後に会ったのは、変わり果てた娘の姿です」